束縛してほしいのは、あんたなんだけど
「うええん、聞いてよ。もう今の彼氏がめちゃくちゃ束縛してくるのおおお」
放課後の食堂には、夕食にはまだ早い中途半端な時間の光が差し込んでいた。西側の大窓から射す橙色が長机の端を照らし、空になりかけたティーカップの縁で細くきらめいている。
向かいに座った友人は、開いていた魔術理論の教本から顔を上げると、泣きついてきた相手をしばらく眺め、それから小さく頷いた。
「束縛系かー」
「そうなの。昨日なんてバインドとかホーリーチェーンとかしてくるの。私には効かないのに」
「うんうん。それは彼氏が悪いわ」
「でしょ!?」
「体系が」
「そっち!?」
思わず身を乗り出すと、友人は何を驚いているのか分からないという顔で首を傾げた。
「だって、あんた拘束術耐性高いじゃん。単純な魔力鎖なんて通るわけないし、ホーリーチェーンに至っては属性相性まで悪い。聖属性耐性ある相手に聖術式の拘束を選ぶ理由がない」
「そこを相談したかったわけじゃないんですけど!」
「じゃあ何を相談したかったの」
「彼氏が束縛してくるって話!」
「だから聞いてる」
「聞いた結果が魔術体系の査定なのよ!」
友人は少し考えてから、机の脇に積んでいたノートを一冊引き寄せた。
「拘束術なら、空間固定系か精神干渉を避けた重力系のほうがいいと思う。あんたの場合、術式そのものに対する抵抗力が高いから、対象指定じゃなく周囲の空間ごと固定したほうが」
「改善案を出すな!」
「でも効かないんでしょ」
「効かないけど!」
「じゃあ彼氏に教えてあげたら」
「嫌だよ! なんで私が自分を縛る方法を彼氏に教えなきゃいけないの!」
「束縛されたいって言ったんじゃないの」
「束縛されたいとは言ったけど、それは愛情的な意味で!」
声が食堂に少し響いた。
幸い、この時間に残っている学生は少ない。遠くで本を読んでいた上級生が一度だけこちらを見たが、すぐに視線を戻した。
友人はペンを止めた。
「愛情的」
「そう」
「束縛」
「そう!」
「具体的には?」
「え」
「定義が曖昧だと分からない」
「恋愛の話に定義を要求しないでよ」
「今までそれで失敗してるんでしょ」
「ぐっ」
反論できないのが腹立たしい。
そもそもの始まりは、付き合い始めてしばらく経った頃、彼氏に「束縛とかされるの嫌?」と聞かれたことだった。そこで自分は、ちょっとくらいなら嫌いじゃない、と答えた。
嘘ではない。
好きな相手が自分の予定を気にしてくれたり、他の誰かと親しそうにしていれば少し不機嫌になったり、帰りが遅ければ心配してくれたり。そんなものを、愛されている証拠として欲しいと思う気持ちは確かにあった。
ただし、翌週から実際に拘束魔法が飛んでくるとは思っていなかった。
「もっとこう……『今日は誰といたの』とか」
「うん」
「『帰ったら連絡して』とか」
「うん」
「あと、他の男の子と仲良くしてたら、ちょっと嫉妬するとか」
「なるほど」
「『あんまりそいつと喋らないで』とかさ」
「分かった」
友人がさらさらと何かを書き始めた。
「なんでノート取ってるの」
「愛情的束縛について再設計を」
「魔法体系から離れて!?」
「でも体系化したほうが事故が少ない」
「恋愛を事故防止の観点から見るな!」
またペン先が紙の上を走る。
几帳面な字だった。講義ノートでも研究記録でも、彼女の文字はいつだって細く整っていて、見返したときに迷わないよう項目ごとに線まで引かれている。
そんなところが好きだった。
そのことを考えてしまい、慌てて視線を逸らす。
「そもそもさあ」
「なに」
「あんた、彼氏のこと嫌いでしょ」
「別に」
「嘘。絶対嫌いじゃん」
「興味がない」
「それ嫌いよりひどくない?」
「他人の恋人に興味持つ必要ある?」
さらりと言われて、胸の奥が少しだけ冷えた。
こういうところだ。
彼氏ができた、と報告したときもそうだった。
少しくらい驚くと思った。ずっと一緒にいた友人に恋人ができたのだから、何かしら反応すると思った。
けれど返ってきたのは、「そう。おめでとう」の一言だけだった。
初めて二人で出かけた日のことを話したときも、「楽しかったならよかったね」。
肩を抱かれたと言ってみても、「嫌じゃなかったならいいんじゃない」。
手をつないだと話しても、「そう」。
何をしても、何を言っても、ほんの少しも乱れない。
自分ばかりが馬鹿みたいだった。
「……じゃあさ」
「うん」
「仮に。仮の話ね」
「うん」
「私があんたと遊ぶより、彼氏と遊ぶほうが増えても平気?」
「寂しくはなる」
思ってもみなかった答えに、思わず顔を上げた。
「……寂しいんだ」
「そりゃ、今まで毎週会ってたのが減ったらね」
「じゃ、じゃあ、私が彼氏とずっと一緒にいても?」
「それはあんたが決めることだから」
「……ふうん」
「なに」
「別に」
欲しい答えではなかった。
いや、正確にいえば、かなり近かった。あと少しなのだ。
あと一歩だけこちら側に踏み込んでくれれば、それで全部終わるのに。
「もうちょっと嫉妬してほしいの」
「彼氏に?」
「……そういうことにしといて」
「彼氏にしてほしいなら本人に言えば」
「そうなんだけどさあ」
「何が不満なの」
「例えば……『その男と別れて』とか」
「かなり強いね」
「『私だけ見て』とか」
「重いね」
「『そいつより私のほうがあんたのこと好き』とか!」
友人のペンが止まった。
言い切ってから、自分でもずいぶん具体的な例を挙げたものだと思った。
沈黙が落ちる。
窓の向こうで、学院の鐘が一度だけ鳴った。
「……具体的だね」
「例だよ、例!」
「誰に言ってほしいの、それ」
「知らない!」
熱くなった顔を隠すように、冷めかけた紅茶を一気に飲んだ。
まずい。
この話題はまずい。
もう何年も隠してきたものが、さっきから口元まで浮かんできている。
好きだった。
たぶん、彼氏と付き合うよりずっと前から。
毎朝教室で会うのが嬉しくて、隣に座れれば一日機嫌がよくて、休日に誘われれば前の晩から服を選んだ。
けれど相手は、こちらを友人として大切にしてくれているだけだった。
だから諦めようと思った。
彼氏ができれば変わるかもしれないと思った。
もしかしたら、ほんの少しだけ嫉妬してくれるかもしれない、とも思った。
そこまで考えて、自分の性格の悪さに嫌気が差した。
「ねえ」
「なに」
「私が彼氏できたって言ったとき、どう思った?」
「おめでとうって」
「それは言ったこと」
「じゃあ何」
「本音」
友人は答えなかった。
「……ねえ」
「他人の気持ちを推測して、自分に都合よく解釈するのは好きじゃない」
「なにそれ」
「そのまま」
「私、そんなことしてないよ」
「してるでしょ」
「いつ」
「今」
視線が合った。
彼女の目はいつも通り静かだったが、少しだけ困っているようにも見えた。
「自分が何も言ってないのに、相手には分かってほしいって思ってる」
「……」
「詠唱してない術式は発動しない」
「うん」
「宣言してない好意は受け取れない」
「……いじわる」
「事実」
静かに言われたその言葉が、思った以上に深く刺さった。
確かにそうだ。
彼氏を作った。
デートの話をした。
手をつないだ話も、抱きしめられた話もした。
それで嫉妬してくれることを期待していた。
止めてくれることを期待していた。
それなのに、自分は一度だって、好きだとは言っていない。
「……じゃあ言う」
「うん」
「笑わないでね」
「笑わない」
「絶対?」
「絶対」
喉が乾く。
たかが一言なのに、上級拘束術の詠唱よりずっと難しい。
膝の上で握った指に力を入れる。
「私、ずっとあんたが好きだった」
友人の瞳が、ほんのわずかに見開かれた。
「彼氏作ったのも……その、あんたがちょっとくらい嫉妬してくれるかなって思ったから」
「それは性格が悪い」
「うええん!」
「体系じゃなくて、今回は性格が悪い」
「二回言うな!」
「彼氏にも失礼」
「それは……はい。ほんとにそう」
そこだけは笑えない。
彼氏にはきちんと謝って、話をしなければならない。自分の気持ちをごまかすために誰かと付き合うなんて、正しいわけがない。
けれど今は、それより先に聞きたいことがあった。
「……で」
「なに」
「発動した?」
「何が」
「私の好意」
「宣言は確認した」
「効果は?」
「術式じゃないから効果とかない」
「さっきまで術式に例えてたくせに!」
思わず机越しに手を伸ばすと、逃げるでもなく、その手首を掴まれた。
拘束術ほど強くない、ごく普通の力だった。
なのに、逃げようとは思わなかった。
「私も好き」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……え」
「聞こえなかった?」
「聞こえたけど」
「じゃあいい」
「よくない!」
「何が」
「いつから!?」
「たぶん、あんたより前」
「はあ!?」
食堂に声が響き、今度こそ遠くの上級生が露骨に顔を上げた。
けれど、もう気にしている場合ではなかった。
「じゃあなんで! なんで彼氏できたって言ったとき止めなかったの!」
「好きな相手が選んだことを、自分の都合で壊していいわけないでしょ」
「嫉妬は!?」
「した」
「したの!?」
「したよ」
「どのくらい!?」
「かなり」
「全然分かんなかった!」
「分からせてないから」
「なんで!」
「宣言してない好意を勝手に受け取るなって言ったでしょ」
「今それ言う!?」
腹立たしい。
腹立たしいのに、口元がどうしても緩んでしまう。
「じゃあ、私が彼氏と遊びに行ったときは?」
「行かなければいいのにと思った」
「肩抱かれたって言ったときは?」
「腕が折れればいいと思った」
「怖っ」
「比喩」
「本当に?」
「半分くらい」
「怖いって!」
なのに嬉しい。
ずっと欲しかったものが、今になって次々と降ってくる。
「……じゃあ言ってよ」
「何を」
「ずっと言ってほしかったやつ」
友人はしばらく黙っていた。
それから、掴んだままだった手首を離し、その代わりに指先を絡めるように手を握った。
「彼氏と別れて」
「……うん」
「そのあと、私と付き合って」
「うん」
「できれば私以外と付き合わないで」
「当たり前でしょ」
「他の人に好きって言わないで」
「言わない」
「休日は、なるべく私に空けて」
「うん」
「帰ったら連絡して」
「うん」
顔が熱い。
たぶん、笑っている。
「……束縛しすぎ?」
「遅い」
「そう」
「遅すぎる」
握った手に、少しだけ力が込められた。
◇
それから数日後。
彼氏とはきちんと話をした。
こちらがずっと別の人を好きだったことも、自分の気持ちを誤魔化すために付き合ってしまったことも謝った。もちろん彼は怒ったし、最後には「じゃあ今までの拘束術なんだったんだよ」と妙なところで落ち込んでいた。
そこについては本当に申し訳ない。
ただ、別れ際に「次に付き合う相手にはホーリーチェーンやめたほうがいいよ。属性相性悪いから」と伝えたところ、「お前の友達と同じこと言うな」と怒られた。
どうやら似た者同士らしい。
そして放課後。
「愛情的束縛について再設計した」
「まだノート取ってたの!?」
いつもの食堂、いつもの席で、恋人になったばかりの友人は例のノートを開いた。
表紙には几帳面な字で、
『愛情的束縛・運用規定』
と書かれている。
「朝一回、就寝前一回の好意宣言」
「運用ルール作るな」
「休日は最低一回会う」
「……」
「帰宅時は連絡」
「……まあ、それはいい」
「体調不良時は互いに報告。必要に応じて看病」
「それも……いい」
「他に要望は」
こちらを見る目は真面目そのものだった。
たぶん、からかっているわけではない。
本当に、真剣に、自分との恋愛を上手くやろうとしているのだ。
そう思うと、馬鹿らしいくらい嬉しくなった。
「……手つなぐ」
「追加する」
「術式みたいに扱うな!」
さらさらとペンが動く。
「頻度は?」
「聞くな!」
「決めないと」
「会ってるときに、したくなったら!」
「双方の任意?」
「そう!」
「了解」
「書くなって!」
「抱擁は?」
「え」
「要件に含める?」
「……含める」
「頻度」
「だから聞くな! 雰囲気でやれ!」
「雰囲気は再現性が低い」
「恋愛に再現性を求めるな!」
呆れながらノートを覗き込む。
そこには、
『抱擁 適宜』
と追加されていた。
「業務マニュアルみたいにするなあ!」
「他には?」
「もうない!」
「本当に?」
「ない!」
「じゃあ暫定版として運用する」
「暫定版とか言うな!」
ノートを閉じようとした手が止まる。
「……あ」
「なに」
「一個あった」
「どうぞ」
言った瞬間に、急に恥ずかしくなった。
けれど、宣言していない好意は受け取れない。
それを教えたのは、目の前の恋人だ。
「……キス」
わずかに、彼女の頬が赤くなった。
初めて見た。
「……追加する」
「それはノートに書くな!」
「頻度は?」
「雰囲気!」
「また?」
「それだけは絶対に雰囲気!」
「再現性が」
「いらない!」
笑いながらペンを奪おうと手を伸ばした。
けれど今回は、その手を避けられなかった。
指を取られ、引き寄せられる。
「じゃあ」
「え」
「試験運用」
「キスを試験運用って言うな!」
文句を言った口は、そのすぐあと塞がれた。
ノートには結局、その項目だけ何も書き加えられなかった。




