表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

濡れ衣は、一手で晴らします

濡れ衣で「膠を薄めたのはこの娘」と寄合に名指しされた墨職人は、墨を割って乾き棚の段をお見せします——納め先で、お宅の墨だけ芯が甘いそうですわね

作者: 真神 慧
掲載日:2026/08/08

【寄合の真ん中】名指しの指


「膠を薄めて納めたのは巴だ」


 寅彦さんの指が、寄合の座をまっすぐ横切ってまいりました。ずいぶん軽い指ですこと。あの羽織で墨が三十挺ですわね。三十挺ぶん着込んで、よくまあ指だけは軽いこと。


 喉の奥に小骨が一本ひっかかりましたが、わたくしは梁を見上げました。煤のつき方が東だけ薄い。今夜は戸口から風が抜けておりますから、火鉢を寄せた方がよろしいでしょう。追い出されかけの女が寄合の火加減を案じてどうしますの。癖とはまったく、給金もないのに働き者ですわ。


「納め先で割れたんだ。芯が締まっていなかった。巴、おまえが炊いた日だろう」


「そうだ、炊きは巴さんの役目だった」


「家の娘が家の看板に泥を塗っちゃいけないよ」


 相槌が三つ、含み笑いが二つ。合わせて墨なら五挺にもなりませんが、耳障りだけは百挺ぶんでございました。


 座の中央には、問題の墨が白い紙の上へ置かれております。角がわずかに丸い。わたくしが上の段へ置く時につける麻糸の跡もなく、底には下の段の簀が残す細い横筋が走っておりました。


「説明しろ。親父もおまえを信用して任せていたんだぞ」


 寅彦さんのお父上は、その後ろで袖口を押さえました。墨を見ず、わたくしも見ず、畳の縁ばかり見ていらっしゃる。あの袖なら七挺。古い継ぎ当てを差し引いて六挺半。人の顔を見ますと余計なものまで勘定に入りますから、わたくしは墨へ目を戻しました。


「炊き場は、今日から巴を外す。離れの荷もまとめておけ。家のためだ」


「まあ」


 声を出したら、皆さまが待っていた顔をなさいました。言い訳を一つ置けば十の口で踏み潰せる、たいへん景気のよい顔ですこと。けれど、わたくしの手はこの一挺の置き方を知っている。その手へ、口数を足す必要はございません。


 わたくしは膝の上で指を組みました。炊き場へ入って十二年、初めて煤の匂いのしない手でございました。


「承知いたしましたわ」


 寅彦さんの指は、まだこちらを向いておりました。寄合の者たちは席を詰めず、わたくしが立つための細い道だけを空けました。


    *    *    *


【十日後・乾き棚の前】四度ぶんの膝


 乾いた音がして、墨は二つに割れました。わたくしが炊きから外される前、最後に上の段へ置いた一挺です。こんなところで割るために梯子を昇ったのではございませんが、墨は行き先を選べません。人よりよほど従順ですわ。


 汐さんは挨拶より先に断面を見ました。指の腹で撫でず、鼻へ寄せず、日の差す方へほんの少し傾ける。芯まで詰まった黒が、割れ目の奥で鈍く光っております。


「上かい」


「ええ。上から二段目ですわ」


「何度」


「一度の炊きで四度。置く時、返す時、風を見る時、下ろす時ですわ」


 四度ですの。梯子の上り下りだけなら何ほどでもないと、下から眺める方はおっしゃいます。では膝をお貸しくださいまし。右膝一鳴りにつき墨一挺、左膝は年季が入っておりますから一挺半。十二年分をまとめて請求したら、寅彦さんの羽織など襟しか残りませんわ。


「煤が違っただけですよ、汐さん」


 背後から寅彦さんの声がいたしました。わたくしに向けていた時より語尾がきれいに畳まれております。指も差しておりません。汐さんへお見せする礼儀を、十日前にも半分ほど分けていただきたかったものです。


「巴が使った煤は細かかった。今度のは混じりが悪かった、それだけです。乾かしの段で出来が変わるなんて、大げさな話で」


「そうかい」


 汐さんは否定も肯定もなさいませんでした。割れた二片を合わせ、ずれのない一挺へ戻してから、わたくしの掌へ返します。


「下のは」


「寄合に残っておりますわ」


「そう」


 短い。あまりに短くて、寅彦さんの説明だけが棚の前へ長々と干されてしまいました。あれでは乾くまで三月かかりそうですわね。


 汐さんは上段を見上げました。梯子へ手はかけません。ただ、風が抜ける板の隙間と、棚の脚が床へ残した古い跡を順に見ました。


「これは、あんたが持っておいで」


 わたくしは二片を手拭いに包みました。自分の仕事を持って出るのは、離れの荷をまとめた晩が最初だと思っておりましたのに。どうやら、まだ一挺ぶん残っていたようでございます。


    *    *    *


【一月後・炊き場の裏】黙って残す一手


 炊き場の裏には、割れた墨が二挺だけ伏せてありました。捨てるには惜しい、納めるにはまずい。家というものは、その中間にある品を裏へ隠すのがたいそう上手です。


「今度の煤もよくなかった」


 寅彦さんは一挺を爪先で転がしました。寄合から見に来た者たちは、家の揉め事には口を出せないと言いながら、煤が悪いという話にだけ揃って頷きます。首とは便利ですわね。責任より軽く、どちらへでも動く。


 わたくしは離れに残した風呂敷を取りに来ただけでした。炊き場へ入るなと言われておりますし、言いつけは守ります。戸口の外からでも、下の段へ墨が寄せられているのは丸見えでしたけれど。


 棚の脇を抜けた風が、壁へ当たって戻っております。板の端に触れると、湿りが指へ残りました。上段まで風が抜けない向きです。寅彦さんは棚へ昇らないので、下から見える整った列をお好みになる。墨は眺めて締まるものではございませんのに。


 頼まれてはいません。ですから、これは親切ではなく、十二年まとわりついた癖の処分ですわ。


 皆が表へ回った隙に、わたくしは留め木を抜きました。肩を棚へ当て、脚が古い跡を外れるまで押し、風下へ向きを変える。膝が一度鳴りました。半挺ぶん損をした気分です。


 留め木を戻すと、上の段へ風が抜けました。これで今並んでいる分は、いくらか持ち直すでしょう。


 わたくしは誰にも告げず、風呂敷を抱えて帰りました。次に棚が狂っても、この手は参りません。一度でございます。一度という数は、墨よりずっと重いのですわ。


    *    *    *


【その夜・寄合の座】十二年の声


「割ってごらん」


 汐さんは、寄合の中央に残されていた一挺をわたくしへ差し出しました。あの日、寅彦さんが糾弾に使った墨です。白い紙も、丸い角も、底を走る細い横筋も、そのままでございました。


「汐さん、もう済んだ話です。巴も炊き場を離れた。家の内のことを蒸し返されては困ります」


 寅彦さんはわたくしへ指を向けたまま言い、汐さんへ顔を正す時だけ顎を引きました。寄合の者たちも「家のことだから」と囃します。わたくしを責めた時には、ずいぶん外から手を伸ばしていらしたのに。皆さまの家には都合のよい戸がついておりますこと。


 汐さんは返事をせず、墨を見ていました。


 わたくしは一挺を両手に取りました。親指を角へ置き、力をかける。乾いた音が、寄合の真ん中をまっすぐ裂きました。


 割れた断面は、表だけが固く、芯に近づくほど色が鈍っております。わたくしは手拭いに包んでいた上段の二片を出し、その隣へ置きました。こちらは端から芯まで、同じ黒で詰まっている。


 寄合の口が、全部閉じました。


「人違いでございましょう」


 寅彦さんの指が膝へ下りました。先ほどまで太かった声も、喉の奥で急に細くなります。


「いや、それだけで巴が炊いていないとは……汐さん、乾き方には、その日の天気もありますから」


 お父上が袖口を押さえました。指が布をつかみ、割れた断面から目を外す。寄合の者たちは、その動きだけは見なかったことにしたらしく、誰一人そちらへ問いを向けませんでした。


 わたくしも見ませんでした。墨だけを見て、二つの断面を白い紙の上へ置き直しました。


 羽織も、梯子も、膝の音も、墨の挺数へ変わりませんでした。胸の中に積んできたものは、売り物ではなかったのでしょう。


「わたくしは上の段まで、十二年、梯子を昇ってまいりました」


 それだけ申し上げました。


 寅彦さんは何か言おうとして、膝の上の指を握りました。囃していた者たちは、互いの顔を盗み見ます。さあ、今度はそちらが説明なさる番ですわ。わたくしはもう、指一本貸しませんけれど。


「巴への咎めは、これでなしだ」


 汐さんは二つの断面を離し、糾弾に使われた方だけを紙の中央へ戻しました。


「これはここへ置く。捨てるなよ。町が見た一挺だ」


「しかし、汐さん」


「まだ何か、巴に説明させるのかい」


「……いいえ」


 寅彦さんは背を正し、汐さんへだけ丁寧に頭を下げました。わたくしの方へは、一度も向き直りませんでした。


 それで結構。わたくしは上段の二片だけを手拭いへ包み、座を立ちました。白い紙の上には、割れた一挺が残っております。誰の名も書かれていないのに、もう誰もわたくしの手へ押し戻すことはできませんでした。


    *    *    *


【十日後・肝煎の家】腕に値がつく


 汐さんの家へ呼ばれたわたくしは、座布団より先に梁を見ました。北側の煤が濃く、勝手口の上だけ薄い。炊き場にするなら釜は南、棚は北東。人さまの家へ来て何を勝手に改築しているの、わたくし。頭の中の普請には銭がかからないので、つい豪勢になりますわ。


「風は」


 汐さんは茶も勧めずに尋ねました。


「抜けますわ。冬は戸を半分閉めないと、上の段だけ先に乾きすぎますけれど」


「棚は」


「梁の下なら六段。梯子は短いもので足りますわね」


「月いくら」


 そこで初めて、わたくしは座布団を見ました。どうやら炊き場の見立てを頼まれたのではなく、わたくし自身が見立てられていたようです。肝煎という方は恐ろしい。値札のついていない女を家へ上げ、茶より先に値を聞く。せめて饅頭一つ挟んでくださいまし。空腹では高値を申してしまいますわよ。


「何の、でございましょう」


「あんたの段に、町は月いくら払えばいい?」


 汐さんは指を一本立てました。


「炊き、練り、置き、返し、下ろし。町の煤で、町の墨を作る。家の名はつけない」


 十二年、わたくしの仕事には家の名が先につきました。失敗も家の名から回ってきて、なぜかわたくしの指先で止まる。けれど今、汐さんが数えているのは挺数でも家格でもなく、わたくしが梯子を昇る月の値でございました。


「わたしも若いころ、自分の仕事を家の名だけで納められたことがある」


 汐さんはそれ以上をおっしゃいませんでした。慰めも、気の毒だったねも、よく耐えたねもない。たいへん助かります。今さら優しい布をかけられたら、十二年ぶんをくるんで持ち帰らなくてはなりませんもの。


「月に二貫五百文。煤と膠と薪は町持ち。百挺を越える月は、十挺ごとに百文を上乗せしていただきますわ」


「高いね」


「上の段まで昇る値でございます」


「まけるかい」


「膝はまかりませんわ」


 汐さんは一度だけ頷きました。


「決まりだ」


 胸の中で、墨の勘定を始めかけました。二貫五百文なら何挺、百文なら何挺。けれど途中でやめました。これは墨へ換える銭ではございません。わたくしの仕事から、差し引かずに受け取る銭ですわ。


    *    *    *


【三月後・町の納め先】家の名が通らない


「あいにく、おたくの墨は請けられませんので」


 納め先の主人は、寅彦さんの差し出した包みを開きもしませんでした。わたくしは町炊きの試し墨を抱え、その三人後ろに並んでおります。順番とはありがたいものですわね。人の家の評判が戸口から落ちていくところを、押しのけずに拝見できますもの。


「待ってください。うちは十二年もこちらへ納めてきた家です。前の一度は煤が悪かっただけで、今度は選び直しました」


「前だけではありませんよ」


 主人は帳面を開きました。返品の日が三つ、納め直しが二つ。数は口より行儀がよく、同じ欄から動きません。


「表は乾いていても、割れば芯が甘い。磨れば引っかかる。家のお名前で、こちらの紙を汚すわけにはいきませんので」


 寅彦さんの肩が上がりました。家の名を出せば相手が一歩引くと信じていた肩です。ところが主人は帳面を閉じただけで、一歩も動きませんでした。


「煤さえ同じなら、出来も同じになるはずです。炊く者が替わった程度で——」


 (墨なんぞ、煤さえあれば誰でも——)


 その先を、寅彦さんは言い切れませんでした。包みの中で、墨同士がぶつかって鈍い音を立てます。炊き場の棚は、わたくしが一度だけ向きを変えたあと、季節の風に合わなくなってもそのままだと聞いております。同じ煤を買っても、棚は自分で風を読みません。もちろん、わたくしも参りません。


「次の方」


 主人に呼ばれ、寅彦さんは包みを抱えたまま脇へ退きました。わたくしと目が合う寸前で、顎が横を向きます。三月前ならわたくしに向いた指も、今日は包みの紐をつまんでおりました。


「町の試し墨ですわ。二十挺、お持ちしました」


 主人は家の名を尋ねませんでした。まず一本を取り、角を見て、紙へ磨り、最後に割る。断面を日の方へ向けてから、残りの包みを引き寄せました。


「次は五十、願えますか」


「納め日は」


「来月の十日」


「上の段が空きますわ。お請けいたします」


 ほかの得意先も、同じ順で離れていきました。名より先に墨を見て、割って、断る。寅彦さんの家の炊き場には煤も釜も棚も残っております。足りないものを、誰も口にして差し上げませんでした。


    *    *    *


【翌春・新しい炊き場】巴の四画


 小刀の先が、墨型の木へ細い溝を作りました。曲がって、折れて、返って、閉じる。巴、と彫るだけで四画。墨一挺にも負けませんわ。


 新しい炊き場の梁には、まだ煤が薄くしかついておりません。戸口から入る春の風が棚の上を通り、北の小窓へ抜けていく。六段の棚、短い梯子、南の釜。汐さんの家で頭の中だけ豪勢に建てた炊き場より小さいけれど、ここには家の誰かが使ったあとの隅を借りている感じがございません。


「十挺、うちへ先に回してもらえないか」


「うちは二十挺だ。昔から巴さんの手は確かだと思っていたよ」


「寄合では、あれこれ言ったけれど、家の揉め事には口を出せなかっただけでねえ」


 あの日、座を詰めなかった方々が、今日は戸口で先を争って頭を下げております。墨の値は上がっても、皆さまの記憶はずいぶんお安いようですこと。二束三文どころか、春風一吹きで帳消しですわ。


「ご注文は順に承ります。十挺でこの値、二十挺でも一挺あたりは同じですわ」


「町内なんだから、そこを少し」


「町内ですから、仕事の値を揃えておりますの」


 誰にも値は引きませんでした。囃し声一つにつき上乗せしたいところを、同じ値にして差し上げるのです。わたくし、なんて慈悲深いのでしょう。自分で自分を褒めておかないと、寄合の皆さまは都合のよい時しか褒めてくださいませんもの。


 注文を書き終えた汐さんは、彫り上がった型を手に取りました。文字を指でなぞらず、日の方へ傾けて見る。初めて断面を見た時と同じ目でした。


「四画かい」


「ええ。一画ごとの値は、おまけしておきますわ」


「高くつきそうだ」


「名でございますもの」


 汐さんは型を返し、短く笑いました。外で注文を待つ声が途切れたのは、その時です。


 戸口に寅彦さんが立っておりました。羽織は前と同じものなのに、三十挺には見えません。紐を握る指ばかりが目につきました。


「巴。話がある」


「ご注文でしたら、後ろへお並びくださいまし」


「そうじゃない。親父も年だし、炊き場が回らない。おまえだって十二年いた家だろう。外の仕事ばかり請けないで、少しくらい家へ手を貸してもいいはずだ」


 寅彦さんは炊き場の中を見回しました。新しい釜、六段の棚、包みを待つ注文札。最後に、わたくしの手にある墨型へ目を止めました。


「また炊いてくれ」


「人違いでございましょう」


 わたくしは戸を閉めました。


 型へ煤と膠を練った墨を詰め、押し、抜く。木から離れた黒い面に、「巴」の四画が残りました。指で角を確かめてから、短い梯子を昇ります。


 自分の名の墨を、上の段へ置きました。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ