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最近MTVが消滅したという話を小耳に挟んだのであるが私にとってMTVとは何だったのかというと口をアングリ開けてあの空間を楽しむものでありそれ以上でもそれ以下でもなくて知りもしねえ外人が何か暗いところでやってんな、ちゅうそんな印象しかなくてまあ何か英語で歌っているんだけどそんなものの意味もわかるはずもないけどたまに、「私は深い意味を内包をしている。(急に裏声になって)私はあなたを捕まえている。私はあなたの愛を捕まえている」というそんな意味を受け取ったりして、「ああ、そんなもんか」と思うばかりであるが、近年、私はとある歌声喫茶的な店に行ってそこの常連達の歌を聞いたのであるが「ああ、そんなものなのか」とわかってきたのでありこれもまた流れる時間を体をかわして受け止めるけど、ある意味、適当に受け止めるということであり、いや、受け止めないということでもあって(笑)、もう、創作というものも片肘張らないで、そんなもので良いんじゃないのかという気もしているもので、京都で、上流家庭に生まれた人間は、料亭とかで、いかに自然に受け身になれるか、という、お坊っちゃまぶりが、試されるのであるが、ああいうものこそ、貴族が体感していた空気であり、つまり、源氏物語もそういう空気を瀰漫させていたものであって、新古今和歌集もそういうものであって、つまりところ貴族ってのは、のんびりしている人と定義してもそんなに間違いがないだろうし、せわしない貴族なんてのも嫌なものであり、痴呆症というのも貴族がなるものなのかもしれず、奴らの言葉も「マロもそうでおじゃるが」みたいなのも、そういうものであって、つまり、生きるとはぼんやりしていることってのが、まず本質的な真実であって、これは西洋の人たちには意味不明なんだけど、孔子も腕を枕に茶でも飲んでいればそれが一番楽しいって、そんな感じの言葉を残しており、馬鹿ってのは余裕がないじゃん。馬鹿は一つ一つがわからないと、納得できないのよ。わからないのを適当に流しておくってことができないのは、馬鹿のすることでしょうね。うん。それだけはハッキリしているんで、わからないものは飛ばせば良いわけだ。そう考えると苦手なバイトなんてバックれて当たり前だよね。周りは迷惑だけど。でも、そうやって人間はままならないものだよ。と周囲に訴えるのもまた一法だと思うのね。そういうのを身体性っていうんだけど。




