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死と怨念。この二つのことを、家でサンドイッチを齧りながら思ったのだった。その家は、寝室と廊下とユニットバスでできていた。いわゆるワンルームというやつである。その中にいろんなものが放り込まれていた。ベッドの枕元には、ドゥルーズ&ガタリの「千のプラトー」という分厚い本があったが、何が書いてあるのかわからなかった。いや、正確には、何が書いてあるかはわかるが、何を伝えようとしているのかがわからなかった。伝わってしまうものなのであろうか。伝わってしまうものに対して何かを書いているということはわかった。放っていても何かをやりとりしていて何かは伝わっているのだ。そして、それは目的を持っているのか。いないのではないか。たとえば、利己的遺伝子の法則などというが、ダーウィンの進化論は、適者適存ではなくて、生き残っている側の方が間抜けなのではないか。ということを書かれているのはわかった。だから、私(この呼び方にも違和感しかないのであるが、一応、こういう言葉で当てはめておこう)が、一つは死の世界への放浪を始めているし、もう一つのベクトルつまり生権力へのベクトルとしては圧倒的な怨念があるのだった。つまり、私とは死と怨念の別名であったのだ。だが、基本、私はそんなに人を殺したいとは思わない。死ぬのは自分で沢山だし、人を恨もうという気持ちも実はそんなにない。しかし、暗い感情、これは大切にしたいものである。それは、戦闘意識というやつだ。これがないと、アホになるだろう。つまり、生きていることに自惚れるということであって、これで良いんだ。神と和睦するということである。私はここら辺の思索を、カントが延々としているのが、段々とわかってきているのであるが、特に、「判断力批判」でそれがなされているのであり、いや、その前の作品だって、カントは神のことを、神なしで、どう思索したら良いのかということをじっと考えていたのであった。日本人は仲間を周りに囲んでおけば良いと、勘違いしている。そんなものは呉越同舟、同床異夢であり、死は、個人に開かれている。丁度、健康というものがその人だけのものと思われるように、人はどんなに何をしたところで、死という闇に掴まれている。そして、怨念だ。これは、近代自我をアジア的に捉えた一つの概念である。それは、周りに負けているということを、打ち負かすための未来への鍵である。




