第5話 迎えに行けなかった夜
その夜のことを、須之内桃は今でもはっきり覚えている。
雨の音。
古い教会の屋根を叩く、規則正しい音。
消灯後の礼拝堂は、ろうそくの明かりだけが揺れていた。
――十六歳の冬。
「桃、起きてるか」
神父・安西の低い声が、扉の向こうからした。
「……はい」
布団を抜け出した桃は、
嫌な予感を抱えたまま廊下に出る。
「救急車を呼んだ。
恵が、倒れた」
その名前を聞いた瞬間、
胸の奥が、冷たく沈んだ。
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恵は、桃より二つ年下だった。
よく笑う子だった。
将来は、ケーキ屋さんになると言っていた。
「桃ちゃんは?」
「……わかんない」
そう言って、二人で夜の台所に座ったことを、覚えている。
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救急車の中。
恵は、意識がなかった。
「低体温と、栄養失調。
……発見が、遅すぎた」
救急隊員の声が、
やけに遠く聞こえる。
「私が……」
桃は、声を絞り出す。
「私が、気づいていれば」
神父は、何も言わなかった。
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病院の廊下は、白くて、冷たい。
医師たちが、慌ただしく動く。
機械音が、一定のリズムで鳴る。
桃は、ただ立っていた。
「ご家族の方ですか?」
「……いいえ」
その一言で、
すべての場所から、弾き出された気がした。
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夜明け前。
医師が、静かに首を横に振る。
「……できることは、ありませんでした」
その言葉が、
現実として理解できるまで、
ずいぶん時間がかかった。
「迎えに行けなかった……」
桃は、床に座り込む。
「私、近くにいたのに」
神父が、そっと肩に手を置いた。
「桃。
迎えに行けなかったのは、君だけじゃない」
「でも……!」
声が、震える。
「……あの子は、助けを出してた。
私は、気づかなかった」
神父は、静かに言った。
「だからこそ、
君は“行く側”になれる」
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葬儀の日。
棺の中の恵は、
眠っているみたいだった。
「ごめんね」
桃は、小さく囁く。
「迎えに、行けなかった」
その瞬間、
胸の奥で、何かが決まった。
逃げない。
見ないふりをしない。
どんなに遅くても、
誰かの異変に、手を伸ばす。
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現在。
診察室で、桃はカルテを閉じる。
外では、子どもたちの笑い声がする。
生きている音だ。
「……すもも先生」
佐藤が、少し心配そうに覗く。
「大丈夫ですか?」
桃は、ゆっくり息を吸って、笑う。
「はい。
今日は、ちゃんと生きてます」
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夜。
教会の鐘が鳴る。
桃は、長椅子に座り、目を閉じる。
迎えに行けなかった夜がある。
だからこそ、
今日も迎えに行く。
それが、
須之内桃という医師の、生き方だった。




