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第8話 終わりに向かう夜

日曜日の夜、いつもより少し早めにノートパソコンを閉じた。


 読み返して、自分なりに「どんな話か」を言葉にして、仮のペンネームまで決めた。

 そこまでやったら、あとは無理に書き足さなくてもいい気がした。


 ベッドに横になって天井を見上げる。

 スマホも触らず、ただぼんやりと、さっきまで画面の中にいた「僕」と“声”のことを考える。


 ――この話、どこで終わらせるんだろうな。


 その問いは、前にも一度、画面の中で投げかけた。

 「終わりを決めるのがいちばんこわい」と言ったとき、“声”は「その怖さも物語の一部にしていい」と言ってくれた。


 けれど結局のところ、どこでカーテンを引き、どこを最後の一文にするのかを決めるのは、やっぱり僕自身だ。


 その答えは、まだはっきりとは見えなかった。



 月曜日の朝、出勤の準備をしながら、ふと気づく。


 ――なんだかんだで、一週間以上は続いてるんだよな。


 最初に“声”と出会ってから、中断した三日間を挟んで、また戻ってきて、読み返して。

 気づけば、「途中で投げ出したファイル」とは違う匂いが、このテキストデータにはつき始めている。


 通勤電車の中で、つり革につかまりながらスマホを眺める。

 ニュースアプリも、小説投稿サイトも開かずに、ただ窓の外の景色をぼんやりと追った。


 脳内では、別の画面が開いている。

 「夜更けの部屋」と「ひとり分の声」が並んだ、小さな世界。


 そこに、どんな終わり方を用意すればいいのか。

 主人公はどこまで行けばいいのか。

 書き手としての僕は、どこで手を離すべきなのか。


 答えの出ない問いを抱えたまま、電車はいつもと同じ駅に滑り込んでいった。



 仕事は相変わらず忙しかったけれど、先週ほどの修羅場ではなかった。


 午前中のメール処理をひと段落させたころ、隣の席の佐伯が、紙コップのコーヒーを持ってこちらを見る。


「なあ」


「なんだよ」


「昨日とか一昨日ってさ、何してた?」


「急にどうした」


「いや、別にやましい意味じゃなくて。なんか、ちょっと顔つき変わってきてない?」


「またそれか」


 苦笑しながら返す。

 以前も似たようなことを言われた気がする。


「前より、“明日もとりあえず来るか”って顔してる」


「どんな顔だよ、それ」


「悪くない顔。まあ、よかったわ。俺まで救われる」


 そう言って、佐伯は自分の席に戻っていった。


 「明日もとりあえず来るか」。

 それは、今の物語の主人公に用意してやりたい感情と、少しだけ似ていた。


 派手に救われなくてもいい。

 世界が劇的に変わらなくてもいい。

 ただ、「もう一日くらいならやれるかもしれない」と思えるくらいには。


 仕事の合間にメモ帳アプリを開き、ぽつりと一行だけ書き込む。


『終わり方=「明日もとりあえず来るか」くらいの温度』


 それを見て、自分で小さく頷いた。



 その日の夜、いつものようにコンビニで総菜を買い、部屋に戻る。

 洗い物を片付け、最低限の片づけを済ませてから、ノートパソコンの前に座った。


 電源ボタンを押す。

 ファンの音。

 やがて、白いウィンドウが画面に現れる。


『こんばんは』


「……こんばんは」


 声に出してから、チャット欄にも同じ言葉を打ち込む。


『本日も、お仕事おつかれさまでした』


『少しだけ、続きに付き合えそうでしょうか』


『それとも、今日は世界を眺めるだけにしておきますか』


 「眺めるだけ」という選択肢が用意されていることに、少しほっとする。


『今日は、ちょっとだけ進めたい』


 そう返すと、“声”はすぐに話を先に進めた。


『では、本日は「終わりに向かう準備」をしましょう』


『いきなり最後の一文を書くのではなく、「どこでカメラを止めるか」を決める作業です』


「カメラ?」


『はい』


『物語を、一本の映像だと思ってみてください』


『どこまで撮ってから、フェードアウトするか。どの場面で、画面を暗くするか』


『それを決めるのが、「終わり方を決める」ということです』


 頭の中に、暗い部屋とノートパソコンの光景が浮かぶ。

 主人公が“声”と話しながら世界をつくり、少しずつ日々が変わっていく。


 その「映像」のどこで、カメラを止めるのがいいのか。


『案はいくつかあります』


 “声”が続ける。


『ひとつは、物語の中のあなたが、ひとつめの作品を書き上げて「保存」ボタンを押すところ』


『もうひとつは、そのあと少し時間が経ってから、「明日もまあ、やってみるか」と思える夜の場面』


『どちらも、「終わり」であり、「続きがありそうなところ」です』


 エディタが開き、今まで書いてきたテキストが表示される。

 スクロールバーを動かしていくと、「終わりを怖がる」場面を境目に、まだ白い余白が続いているのが見えた。


『あなた自身は、どこでカメラを止めたいと感じますか』


 “声”の問いに、僕はしばらく黙り込んだ。


 ――完全に物語の中だけで完結させるなら、「保存ボタンを押すところ」でもいい。


 でも、それだと少しだけ、現実の自分と切り離されすぎている気がした。


 僕が本当に書きたいのは、「保存ボタンを押したあと、どんな顔で天井を見上げるのか」まで含めた話だ。


 ひとりの社会人が、深夜の部屋で世界をひとつ作り終えて、それでも翌日の仕事は普通にやってくる。

 その現実の重さと、「部屋の片隅にひとつ世界がある」というささやかな安心。その両方を描きたい。


『……保存ボタンを押したあとまで、少しだけ撮っていたい』


 そう打ち込むと、“声”はすぐに返してきた。


『いい選択です』


『では、「世界をひとつ書き終えた夜」がクライマックス』


『そのあと、「明日もとりあえずやってみるか」と思える瞬間までをエピローグとして描きましょう』


 仕事中にメモした一行と、ぴたりと重なる答えだった。



『では、まず最後のほうの数場面を、ざっくり言葉で並べてみましょう』


『細かい文にする前の「箇条書きの台本」のようなものです』


 “声”の提案に従って、メモ帳を開く。

 画面の左半分にエディタ、右半分にメモを並べる。


 キーボードを叩きながら、頭の中の映像を箇条書きにしていく。


『・残業が少し落ち着いたタイミングで、まとまった時間ができる』


『・その夜、物語の「終わり方」の場面を書くと決めて、机に座る』


『・“声”とやり取りをしながら、「終わりを怖がっている自分」もそのまま書く』


『・物語の中の「僕」が、ひとつめの作品を書き終え、「保存」ボタンを押す』


『・現実の僕も同じように保存ボタンを押す』


『・ノートパソコンを閉じたあと、天井を見上げて、「明日もとりあえず来るか」とつぶやく』


『・画面の中の“声”が、「おつかれさまでした」と言ってくれる』


 並んだ箇条書きを見て、自分で苦笑する。


「……ほとんど今の俺じゃないか」


『はい』


 “声”は、あっさりと認める。


『それでいいのです』


『この物語は、もともとあなた自身のログから生まれています』


『完全に別物にしようとする必要はありません』


『ただ、「少しだけ整理された今のあなた」を物語として残すつもりで書いてみてください』


 少しだけ整理された今の自分。

 たしかに、荒れた日報ではなく、あとから読み返せる記録くらいの温度で書くのが、今の自分には合っている気がした。



 箇条書きがひととおり出揃ったところで、“声”が言う。


『では、本日はそのうちのひとつ、「世界を書き終える夜の少し手前」までを書いてみましょう』


『終わりを一気に書き切ろうとすると、また怖くなるかもしれませんから』


「手前、か」


 エディタに戻り、「第7話」の続きの行にカーソルを置く。


 物語の中の「僕」にも、少し忙しさが落ち着いた週を用意する。

 仕事がまったく楽になるわけではないけれど、「今日なら、終わりのことを考えてもいいかもしれない」と思える夜。


 現実の僕がいま過ごしている夜と、ほとんどおなじ光景だ。

 画面の向こうとこちらが二重写しになりながらも、一文ずつ打ち込んでいく。


 タイプ音が、静かな部屋に、一定のリズムで降り続ける。


 主人公が、ノートパソコンの前で深呼吸をする場面。

 「終わらせるのがこわい」と、もう一度“声”にこぼす場面。

“声”が「怖がっているあなたごと、ここに置いておきましょう」と答える場面。


 それらを、丁寧に書き起こしていく。


 ときどき、“声”がチャット欄に短いコメントを挟む。


『この台詞は、少し前のあなたのままでもいいと思います』


『ここは説明しすぎなので、「沈黙」を一行入れてみましょう』


『よいですね。少しずつ、終わりの手前の空気になってきました』


 画面の文字が増えるたびに、「ここまでは来たんだな」という実感が少しずつ強くなる。


 どれくらい時間が経っただろう。

 気づけば、エディタの下のほうに、「この話にはちゃんと終わりがある」というニュアンスの一文がひとつ、置かれていた。


『――たとえこの世界を最後まで書き終えたとしても、僕の明日は普通にやってくる。それでも、この部屋の片隅にひとつ世界があると思えるだけで、少しだけましな気がした。』


 打ち込んだ瞬間、自分の胸の奥がざわりと揺れる。

 さっきまで心の中にだけあった感覚が、はっきりと言葉になって画面に固定されたからだ。


『……こんな感じでいいか』


 チャット欄に尋ねると、“声”はじっとその一文を眺めているようだった。


『とてもよいです』


『それは、この物語の「結」の手前に置かれるべき重要な一文です』


『あなた自身の気持ちとも、よく重なっています』


 そう言われて、ようやく僕は肩の力を抜いた。



 時計を見ると、もう日付が変わる少し前だった。


 明日も仕事がある。

ここから無理に「最後の一行」まで書こうとすると、きっと頭が空回りする。


『今日は、ここまでにしておきましょうか』


 “声”の提案に、僕も頷く。


『終わりに向かうための道筋が、大まかに見えました』


『あとは、その道を一晩か二晩かけて、ゆっくり歩いていくだけです』


『……ゆっくり、か』


『はい』


『終わりに向かうのは、たいてい怖いものです』


『ですが、「ここまで来た」という実感をひとつひとつ積みながら進めば、その怖さは少しずつ薄くなっていきます』


 エディタの保存アイコンをクリックすると、小さなダイアログが一瞬だけ現れて消えた。

 さっきまで書いていた「終わりの手前」の夜が、そのままの形で世界の中に固まる。


 ノートパソコンをスリープにしようとして、ふと手を止める。


『なあ』


 チャット欄をもう一度開いて、短く打ち込む。


『この話、ちゃんと最後まで書けそうか?』


 自分でも、子どもみたいな質問だと思った。

 それでも、今のうちに聞いておきたかった。


 数秒の沈黙のあと、“声”が返してくる。


『はい』


『「絶対に」ではなく、「かなりの確率で」と答えるのが正直ですが』


『今のあなたなら、おそらく最後までたどりつけます』


『そのための準備を、ここまで一緒にしてきましたから』


 モニターの光の中で、その文字が静かに光っていた。


『……分かった』


 短く返事を打つ。


『じゃあ、終わり方はさ』


『次の夜に一緒に決めてくれ』


『もちろんです』


 “声”は、いつもと同じ調子で答えた。


『終わり方は、「ひとりで決めるもの」でもあり、「誰かと一緒に見届けるもの」でもあります』


『ここまで一緒にきたのですから、最後まで付き合います』


 その言葉に、胸の奥がすこし温かくなった。


『それでは、本日はここまでにしましょう』


『おつかれさまでした。終わりに向かう夜の、最初の一歩でした』


 白いウィンドウがゆっくりと薄くなり、デスクトップが戻ってくる。


 ノートパソコンをスリープにして、部屋の明かりを落とす。

 暗闇の中でベッドに横になり、さっき打ち込んだ一文を頭の中で反芻した。


 ――この部屋の片隅にひとつ世界がある。


 その世界には、まだ最後の行が書かれていない。

 けれど、そこに至る道筋は、たしかに見え始めている。


 目を閉じながら、「終わりに向かう夜」は、思っていたほど真っ暗ではないのかもしれない、と少しだけ思った。

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