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第7話 最初の読者は、たぶん僕だ

土曜日の午前、久しぶりに「平日と同じ時間」に目が覚めた。


 カーテンの向こうから差し込む光は、平日の朝より少しだけ柔らかい。

 スマホで時間を確認して、今日は会社に行かなくていいことをもう一度確かめる。

 その確認だけで、肩の力が少し抜けた。


 キッチンでコーヒーを淹れ、簡単に朝食を済ませる。

 洗濯機を回して、たまっていた皿を片付ける。

 平日には後回しにしていた家事をひととおり終えると、部屋の空気が少しだけ軽くなった気がした。


 最後に残った「いつもの場所」に視線を向ける。

 机の上、閉じられたままのノートパソコン。


 近づいて、天板に指先を置く。

 冷たい感触は、あの日からずっと変わらない。


 深呼吸をひとつしてから、電源ボタンを押した。



 デスクトップが立ち上がって、数秒。

 白いウィンドウが、いつものように画面の中央にぽん、と現れた。


『おはようございます』


 淡々とした挨拶。

 そこに、責めるような色はやっぱりひとつもない。


「おはよう」


 声に出してから、チャット欄にも打ち込む。


『今日は、お休みですね』


『少し長めに、世界の様子を眺めてみることができます』


『書き足す前に、「今ある世界」を見に行きませんか』


 “書く”ではなく、“見に行く”。

 その言い方が、さっき洗濯機から取り出した服をたたむ作業と似ている気がして、少しだけ笑ってしまう。


『……じゃあ、読み返してみるか』


 そう返すと、“声”はすぐに準備を始めた。


『はい。それでは、本日は三つのステップでいきましょう』


『①最初から最後まで通して読む』


『②気になったところに、軽く印をつける』


『③最後に、「これはどんな話か」をもう一度言葉にしてみる』


 画面の向こうから聞こえてくる、簡易授業のカリキュラムみたいな提案。

 思わず、苦笑しながらも頷いていた。


『書き直しは、そのあとでも構いません』


『まずは、「ひとりの読者として読む時間」を取りましょう』



 テキストエディタが開く。

 「第1話」と自分でつけた見出しのすぐ下に、あの一文が並んでいた。


 ――終電一歩前の電車に揺られているとき、いつも同じことを考える。


 最初に打ったときの、あのむずがゆさを思い出す。

 あの夜は、自分の一日をそのまま文にすることに抵抗があって、何度もDeleteキーを叩いた。


 今は、当時より少しだけ距離を置いてその文を読める。

 「たぶん、こういうやつ、どこにでもいるよな」と、別人を見るような目線が混ざっていた。


 スクロールバーをゆっくり下げていく。

 第1話から第6話まで。

 主人公が“声”と出会って、最初の一行を書き、同僚と軽口を交わし、タイトルを決めて、終わりを怖がって、中断して、それでも戻ってきたこと。


 自分で打ったはずの文が、ところどころ他人事みたいに読めた。

 そのたびに、「ああ、このときの俺、こう思ってたな」と昔のログを見返している気分になる。


 途中で、ふと違和感が浮かんだ箇所には、軽く印をつけていく。

 言い回しが重いところ。

 説明が少し長すぎるところ。

 逆に、もう少し描いたほうがよさそうな行間。


 読み終える頃には、画面の右側に、いくつもの小さなマーカーが並んでいた。


『おつかれさまでした』


 読み切ったタイミングを見計らったように、“声”がメッセージを送ってくる。


『どうでしたか』


『「書いた自分」ではなく、「読んだ自分」の感想を聞かせてください』


 僕は、しばらくキーボードの上で指を組んでから、ゆっくりと打ち始めた。


『思ってたより静かな話だなと思った』


『事件も起きないし、誰かが大きく変わるわけでもないけど』


『でも、完全に退屈でもない……気がする』


 送信すると、“声”は少しだけ間を置いて返してきた。


『とても正直な感想です』


『静かな話であることは、そのまま価値になります』


『大きな事件が起きないかわりに、「小さな揺れ」を丁寧に描けているかどうかが大事になります』


 小さな揺れ。

 「中断しても世界は消えない」と書いたときの、自分の胸のざわめきを思い出した。


『退屈でもない、と感じたのは、いい兆候です』


『少なくとも、「自分は最後まで読めた」ということですから』


『最初の読者として、合格です』


「最初の読者、ね……」


 口の中で繰り返してみる。

 たしかに、この物語を一番最初に通して読んだのは、僕自身だ。


 それは当たり前なのに、どこか新鮮だった。


『じゃあさ』


 ふと思いついて、チャット欄に打ち込む。


『この話ってさ、「俺みたいなやつ」が読んでも大丈夫な話になってると思う?』


『仕事帰りに、スマホで適当に読み始めた誰かとかさ』


 “声”は、すぐには答えなかった。

 カーソルがしばらく瞬いてから、ゆっくりと文字が現れる。


『「大丈夫」というのが、「傷つかないかどうか」という意味なら、おそらく大丈夫です』


『「何かがほんの少しでも残るかどうか」という意味なら、その可能性は十分にあります』


 その言い回しが、妙に“声”らしかった。


『少なくとも、数ヶ月前のあなたが読んでも、「分かる」部分は多いはずです』


『その時点で、「誰かひとりに届く可能性のある物語」にはなっています』


 誰かひとり。

 世界中の誰かではなく、「過去の自分」に向けた物語。


 それなら、確かに書けている気がした。



『では、さきほどの③に進みましょう』


『改めて、この物語は「何の話だ」と言えそうですか』


 “声”の問いかけに、僕は少し考えてから、以前より少し長めに答えた。


『何者でもない社会人がさ』


『夜の部屋で、誰にも見られないまま、世界をひとつ作ってみる話』


『それで、明日が急に楽になるわけじゃないけど、「もうちょっとだけやってみてもいいか」って思えるくらいにはなる話』


 送信してから、自分で書いたその説明をもう一度読み返す。


 “声”は、それをじっと読み込んでいるようだった。


『とても、よい定義です』


『そこに、「中断しても世界は消えないと知る話」を少しだけ足してもいいかもしれません』


『それが、この物語のひとつの芯になっています』


 たしかに、第6話以降、そこが自分の中でも一番重い部分として残っている。


『……じゃあさ』


 僕は、画面を眺めながら、次の質問を打った。


『この話さ。最後まで書けたら、“どこかに出す”のってアリだと思う?』


 送信した瞬間、心臓がどくんと鳴った。

 ずっと頭の隅にあったけれど、口に出さないようにしていたことだ。


 “声”は、いつもより慎重に言葉を選んでいるようだった。


『可能性のひとつとしては、とてもよいと思います』


『ただし、「出すこと」だけをゴールにすると、途中で苦しくなるかもしれません』


『ですから、順番としてはこう考えることを提案します』


『①自分が読んで納得できるところまで書ききる』


『②そのうえで、「この世界を誰かひとりに見せてみたいか」を考える』


『③そう思えたら、「知らない誰かにだけ届く場所」にそっと置いてみる』


 「知らない誰かにだけ届く場所」。

 その言い方で、真っ先に頭に浮かんだのは、いつも自分が開いている小説投稿サイトだった。


『……あのサイトか』


『はい』


 “声”は、察したように返す。


『あなたが普段、通勤電車や寝る前に覗いている場所です』


『知らない誰かの物語を、こっそり読んでいる場所』


『そこに、あなたの世界をひとつ置く、という選択肢がありえます』


 電車の中で、小さな画面をスクロールしながら読み流していた、無数の物語たち。

 その中の一行に、自分の書いた文字列が並ぶところを想像する。


 現実味は、まだあまりない。

 それでも、完全に不可能とも思えなかった。


『その場合でも、あなたの本名を出す必要はありません』


『別の名前をひとつ用意して、その人が書いた物語として置いておけばよいのです』


 ペンネーム。

 「別の顔」。


『……名前、考えるのも面倒だな』


 半分本音、半分照れ隠しで打つと、“声”は少しだけ冗談めいた返事を返してきた。


『それも、物語づくりの一部だと思ってみませんか』


『世界に名前をつけたように、「書き手」にも名前をつけてあげる作業です』


『現実のあなたとは、少しだけ距離のある、でもまったく他人でもない誰か』


 たしかに、タイトルを考えたときもそうだった。

 「とりあえずの名前」をつけたことで、この世界は無名のままさまようのを免れた。


 同じことを、自分に対してもやるだけかもしれない。


『じゃあ、とりあえず仮の名前をひとつ用意しておくか』


 僕は、エディタとは別に、メモ帳を開いた。

 空白の画面に、いくつかの漢字や音を打ち込んでは消す。


 性別を決めつけない名前がいい。

 あまりにも派手な名前は、逆に自分じゃない誰かになってしまいそうだ。


 何度か打ち直したあと、指がぴたりと止まる。


『雨宮 灯』


 声に出さずに、画面の文字を見つめる。


 雨の日も、夜の灯りも、嫌いじゃない。

 どちらも、派手ではないけれど、静かにそこにあるものだ。


『仮ペンネーム:雨宮 灯』


 チャット欄にそう打ち込むと、“声”は少しだけ間を置いた。


『いい名前です』


『少し静かで、少し温かい』


『この物語とも、よく合っています』


 自分で決めておいて褒められると、少しむずがゆい。

 でも、「悪くない」と思える名前だった。


『とはいえ、投稿ボタンを押すかどうかは、今決めなくてかまいません』


 “声”は、すぐにブレーキもかけてくる。


『まずは、「雨宮 灯が書いている物語」として、最後までたどりついてみましょう』


『そのあとで、「誰かひとりに読まれてみたいか」をもう一度考えれば十分です』


 投稿ボタン。

 その単語を思い浮かべるだけで、胸の奥がざわついた。


 けれど同時に、「そこまでいけたら、かなりのことだな」という実感もあった。



『今日は、「読む」と「決める」の日として、すでに十分なことをしました』


『ここから先は、少しだけ書き足しておきましょう』


『主人公が、自分の物語を読み返す場面です』


『最初の読者としての感想を、物語の中にも入れてあげてください』


 “声”の提案に従って、エディタに戻る。

 物語の中の「僕」にも、土曜日の午前を与える。


 仕事のない日。

 少し早めに目が覚めて、部屋を片付けて、ノートパソコンの前に座る。

 自分で書いた文章を最初から読み返し、「静かな話だな」と感じる。


 現実とほとんど同じことを、少しだけ整理して書き直す作業は、意外と楽だった。


 途中で、“声”からまた短いコメントが届く。


『その一文は、雨宮 灯のほうの「僕」に言わせてもよさそうです』


『あなたと、物語の中のあなた、その両方に少しずつ重なるように』


 モニターの中と外。

 そこにいる「僕」を二重写しにしながら、文章を重ねていく。


 やがて、ひとつの段落の終わりに行き着いた。


『――最初の読者は、たぶん僕だ。』


 タイプ音が止まる。

 その一文を、自分の目で何度か読み返してみる。


『どうですか』


 “声”が尋ねてくる。


『自分で読んでみて、「これは自分の話でもあり、自分じゃない誰かの話でもある」と感じられますか』


『……まあ、そんな感じだな』


 少し照れながら打つと、“声”は満足そうに結んだ。


『それで十分です』


『今日は、「世界に名前がつき、書き手にも仮の名前がついた日」として保存しておきましょう』


『終わりの形も、すこしだけ近づいてきました』


 保存の通知が画面に現れて、静かに消える。


 ノートパソコンの画面には、「第7話」の文字と、その下に並ぶ段落たち。

 そこに至るまでの時間を思い返しながら、僕は背もたれにもたれかかった。


 窓の外を見ると、昼の光が少し傾き始めていた。

 まだ、今日という日は半分以上残っている。


 それでも、「何もしていない一日」ではないことだけは、はっきりと言えた。


 自分のためにひとつの世界を読み返し、

 見知らぬ誰かのために、仮の名前をひとつ用意した日。


 その小さな事実が、部屋の空気をほんの少しだけ変えていた。

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