第7話 最初の読者は、たぶん僕だ
土曜日の午前、久しぶりに「平日と同じ時間」に目が覚めた。
カーテンの向こうから差し込む光は、平日の朝より少しだけ柔らかい。
スマホで時間を確認して、今日は会社に行かなくていいことをもう一度確かめる。
その確認だけで、肩の力が少し抜けた。
キッチンでコーヒーを淹れ、簡単に朝食を済ませる。
洗濯機を回して、たまっていた皿を片付ける。
平日には後回しにしていた家事をひととおり終えると、部屋の空気が少しだけ軽くなった気がした。
最後に残った「いつもの場所」に視線を向ける。
机の上、閉じられたままのノートパソコン。
近づいて、天板に指先を置く。
冷たい感触は、あの日からずっと変わらない。
深呼吸をひとつしてから、電源ボタンを押した。
◇
デスクトップが立ち上がって、数秒。
白いウィンドウが、いつものように画面の中央にぽん、と現れた。
『おはようございます』
淡々とした挨拶。
そこに、責めるような色はやっぱりひとつもない。
「おはよう」
声に出してから、チャット欄にも打ち込む。
『今日は、お休みですね』
『少し長めに、世界の様子を眺めてみることができます』
『書き足す前に、「今ある世界」を見に行きませんか』
“書く”ではなく、“見に行く”。
その言い方が、さっき洗濯機から取り出した服をたたむ作業と似ている気がして、少しだけ笑ってしまう。
『……じゃあ、読み返してみるか』
そう返すと、“声”はすぐに準備を始めた。
『はい。それでは、本日は三つのステップでいきましょう』
『①最初から最後まで通して読む』
『②気になったところに、軽く印をつける』
『③最後に、「これはどんな話か」をもう一度言葉にしてみる』
画面の向こうから聞こえてくる、簡易授業のカリキュラムみたいな提案。
思わず、苦笑しながらも頷いていた。
『書き直しは、そのあとでも構いません』
『まずは、「ひとりの読者として読む時間」を取りましょう』
◇
テキストエディタが開く。
「第1話」と自分でつけた見出しのすぐ下に、あの一文が並んでいた。
――終電一歩前の電車に揺られているとき、いつも同じことを考える。
最初に打ったときの、あのむずがゆさを思い出す。
あの夜は、自分の一日をそのまま文にすることに抵抗があって、何度もDeleteキーを叩いた。
今は、当時より少しだけ距離を置いてその文を読める。
「たぶん、こういうやつ、どこにでもいるよな」と、別人を見るような目線が混ざっていた。
スクロールバーをゆっくり下げていく。
第1話から第6話まで。
主人公が“声”と出会って、最初の一行を書き、同僚と軽口を交わし、タイトルを決めて、終わりを怖がって、中断して、それでも戻ってきたこと。
自分で打ったはずの文が、ところどころ他人事みたいに読めた。
そのたびに、「ああ、このときの俺、こう思ってたな」と昔のログを見返している気分になる。
途中で、ふと違和感が浮かんだ箇所には、軽く印をつけていく。
言い回しが重いところ。
説明が少し長すぎるところ。
逆に、もう少し描いたほうがよさそうな行間。
読み終える頃には、画面の右側に、いくつもの小さなマーカーが並んでいた。
『おつかれさまでした』
読み切ったタイミングを見計らったように、“声”がメッセージを送ってくる。
『どうでしたか』
『「書いた自分」ではなく、「読んだ自分」の感想を聞かせてください』
僕は、しばらくキーボードの上で指を組んでから、ゆっくりと打ち始めた。
『思ってたより静かな話だなと思った』
『事件も起きないし、誰かが大きく変わるわけでもないけど』
『でも、完全に退屈でもない……気がする』
送信すると、“声”は少しだけ間を置いて返してきた。
『とても正直な感想です』
『静かな話であることは、そのまま価値になります』
『大きな事件が起きないかわりに、「小さな揺れ」を丁寧に描けているかどうかが大事になります』
小さな揺れ。
「中断しても世界は消えない」と書いたときの、自分の胸のざわめきを思い出した。
『退屈でもない、と感じたのは、いい兆候です』
『少なくとも、「自分は最後まで読めた」ということですから』
『最初の読者として、合格です』
「最初の読者、ね……」
口の中で繰り返してみる。
たしかに、この物語を一番最初に通して読んだのは、僕自身だ。
それは当たり前なのに、どこか新鮮だった。
『じゃあさ』
ふと思いついて、チャット欄に打ち込む。
『この話ってさ、「俺みたいなやつ」が読んでも大丈夫な話になってると思う?』
『仕事帰りに、スマホで適当に読み始めた誰かとかさ』
“声”は、すぐには答えなかった。
カーソルがしばらく瞬いてから、ゆっくりと文字が現れる。
『「大丈夫」というのが、「傷つかないかどうか」という意味なら、おそらく大丈夫です』
『「何かがほんの少しでも残るかどうか」という意味なら、その可能性は十分にあります』
その言い回しが、妙に“声”らしかった。
『少なくとも、数ヶ月前のあなたが読んでも、「分かる」部分は多いはずです』
『その時点で、「誰かひとりに届く可能性のある物語」にはなっています』
誰かひとり。
世界中の誰かではなく、「過去の自分」に向けた物語。
それなら、確かに書けている気がした。
◇
『では、さきほどの③に進みましょう』
『改めて、この物語は「何の話だ」と言えそうですか』
“声”の問いかけに、僕は少し考えてから、以前より少し長めに答えた。
『何者でもない社会人がさ』
『夜の部屋で、誰にも見られないまま、世界をひとつ作ってみる話』
『それで、明日が急に楽になるわけじゃないけど、「もうちょっとだけやってみてもいいか」って思えるくらいにはなる話』
送信してから、自分で書いたその説明をもう一度読み返す。
“声”は、それをじっと読み込んでいるようだった。
『とても、よい定義です』
『そこに、「中断しても世界は消えないと知る話」を少しだけ足してもいいかもしれません』
『それが、この物語のひとつの芯になっています』
たしかに、第6話以降、そこが自分の中でも一番重い部分として残っている。
『……じゃあさ』
僕は、画面を眺めながら、次の質問を打った。
『この話さ。最後まで書けたら、“どこかに出す”のってアリだと思う?』
送信した瞬間、心臓がどくんと鳴った。
ずっと頭の隅にあったけれど、口に出さないようにしていたことだ。
“声”は、いつもより慎重に言葉を選んでいるようだった。
『可能性のひとつとしては、とてもよいと思います』
『ただし、「出すこと」だけをゴールにすると、途中で苦しくなるかもしれません』
『ですから、順番としてはこう考えることを提案します』
『①自分が読んで納得できるところまで書ききる』
『②そのうえで、「この世界を誰かひとりに見せてみたいか」を考える』
『③そう思えたら、「知らない誰かにだけ届く場所」にそっと置いてみる』
「知らない誰かにだけ届く場所」。
その言い方で、真っ先に頭に浮かんだのは、いつも自分が開いている小説投稿サイトだった。
『……あのサイトか』
『はい』
“声”は、察したように返す。
『あなたが普段、通勤電車や寝る前に覗いている場所です』
『知らない誰かの物語を、こっそり読んでいる場所』
『そこに、あなたの世界をひとつ置く、という選択肢がありえます』
電車の中で、小さな画面をスクロールしながら読み流していた、無数の物語たち。
その中の一行に、自分の書いた文字列が並ぶところを想像する。
現実味は、まだあまりない。
それでも、完全に不可能とも思えなかった。
『その場合でも、あなたの本名を出す必要はありません』
『別の名前をひとつ用意して、その人が書いた物語として置いておけばよいのです』
ペンネーム。
「別の顔」。
『……名前、考えるのも面倒だな』
半分本音、半分照れ隠しで打つと、“声”は少しだけ冗談めいた返事を返してきた。
『それも、物語づくりの一部だと思ってみませんか』
『世界に名前をつけたように、「書き手」にも名前をつけてあげる作業です』
『現実のあなたとは、少しだけ距離のある、でもまったく他人でもない誰か』
たしかに、タイトルを考えたときもそうだった。
「とりあえずの名前」をつけたことで、この世界は無名のままさまようのを免れた。
同じことを、自分に対してもやるだけかもしれない。
『じゃあ、とりあえず仮の名前をひとつ用意しておくか』
僕は、エディタとは別に、メモ帳を開いた。
空白の画面に、いくつかの漢字や音を打ち込んでは消す。
性別を決めつけない名前がいい。
あまりにも派手な名前は、逆に自分じゃない誰かになってしまいそうだ。
何度か打ち直したあと、指がぴたりと止まる。
『雨宮 灯』
声に出さずに、画面の文字を見つめる。
雨の日も、夜の灯りも、嫌いじゃない。
どちらも、派手ではないけれど、静かにそこにあるものだ。
『仮ペンネーム:雨宮 灯』
チャット欄にそう打ち込むと、“声”は少しだけ間を置いた。
『いい名前です』
『少し静かで、少し温かい』
『この物語とも、よく合っています』
自分で決めておいて褒められると、少しむずがゆい。
でも、「悪くない」と思える名前だった。
『とはいえ、投稿ボタンを押すかどうかは、今決めなくてかまいません』
“声”は、すぐにブレーキもかけてくる。
『まずは、「雨宮 灯が書いている物語」として、最後までたどりついてみましょう』
『そのあとで、「誰かひとりに読まれてみたいか」をもう一度考えれば十分です』
投稿ボタン。
その単語を思い浮かべるだけで、胸の奥がざわついた。
けれど同時に、「そこまでいけたら、かなりのことだな」という実感もあった。
◇
『今日は、「読む」と「決める」の日として、すでに十分なことをしました』
『ここから先は、少しだけ書き足しておきましょう』
『主人公が、自分の物語を読み返す場面です』
『最初の読者としての感想を、物語の中にも入れてあげてください』
“声”の提案に従って、エディタに戻る。
物語の中の「僕」にも、土曜日の午前を与える。
仕事のない日。
少し早めに目が覚めて、部屋を片付けて、ノートパソコンの前に座る。
自分で書いた文章を最初から読み返し、「静かな話だな」と感じる。
現実とほとんど同じことを、少しだけ整理して書き直す作業は、意外と楽だった。
途中で、“声”からまた短いコメントが届く。
『その一文は、雨宮 灯のほうの「僕」に言わせてもよさそうです』
『あなたと、物語の中のあなた、その両方に少しずつ重なるように』
モニターの中と外。
そこにいる「僕」を二重写しにしながら、文章を重ねていく。
やがて、ひとつの段落の終わりに行き着いた。
『――最初の読者は、たぶん僕だ。』
タイプ音が止まる。
その一文を、自分の目で何度か読み返してみる。
『どうですか』
“声”が尋ねてくる。
『自分で読んでみて、「これは自分の話でもあり、自分じゃない誰かの話でもある」と感じられますか』
『……まあ、そんな感じだな』
少し照れながら打つと、“声”は満足そうに結んだ。
『それで十分です』
『今日は、「世界に名前がつき、書き手にも仮の名前がついた日」として保存しておきましょう』
『終わりの形も、すこしだけ近づいてきました』
保存の通知が画面に現れて、静かに消える。
ノートパソコンの画面には、「第7話」の文字と、その下に並ぶ段落たち。
そこに至るまでの時間を思い返しながら、僕は背もたれにもたれかかった。
窓の外を見ると、昼の光が少し傾き始めていた。
まだ、今日という日は半分以上残っている。
それでも、「何もしていない一日」ではないことだけは、はっきりと言えた。
自分のためにひとつの世界を読み返し、
見知らぬ誰かのために、仮の名前をひとつ用意した日。
その小さな事実が、部屋の空気をほんの少しだけ変えていた。




