第6話 中断しても、世界は消えない
月曜日は、予想していたよりもずっと忙しかった。
朝イチから全体ミーティングが入り、先週のうちに終わらせたと思っていた資料に、上司から赤い付箋がいくつも貼られて戻ってきた。
追加で必要な数字、差し替えが必要なグラフ、表現を柔らかくしてほしい箇所。
「これ、今週中に出したいからさ。悪いけど優先で頼むね」
そう言って渡されたファイルは、一見すると薄いのに、中身の修正量だけはずっしりと重かった。
午前中は修正の洗い出しだけで終わり、午後は別の会議でほとんど席にいなかった。
気づけば外は暗くなり始めていて、退社予定時刻はとうに過ぎていた。
机に戻って一息ついたところで、隣から声がかかる。
「おつかれー。今日は帰れそう?」
佐伯が、ペットボトルのお茶を片手にこちらを見る。
「……ギリギリ、終電コースかな」
「だよなあ。こっちも似たような感じ」
佐伯は苦笑しながら、画面に視線を戻した。
「この前の“顔色よくなったじゃん”発言、取り消していい?」
「一回言ったことは取り消すなよ」
「だよねー。でもまあ、今日は残業仲間ってことで」
そう言って、ペットボトルを軽く掲げてみせる。
乾杯の代わりのように、それに自分のペン立てを小さくコツンと当てた。
──今日は、帰っても書けないな。
そんな言葉が、胸の中にひっそりと浮かぶ。
頭が疲れすぎている。資料の数字とグラフでいっぱいになった脳みそで、物語の文をひとつでも紡げる気がしなかった。
その感覚自体は、これまで何度も味わってきたはずだ。
ただ違うのは、そのたびに「どうせ今日も何もしてない」で終わっていたのが、いまは「書けないこと」に対して、わずかな罪悪感みたいなものが生まれていることだった。
──続けるって言ったのに。
誰に対して言った約束なのか、自分でもよく分からない。
“声”との約束でもあり、自分自身との約束でもあった。
◇
終電一歩前の電車に揺られながら、僕は窓ガラスに映る自分の顔をぼんやり眺めていた。
疲れているのは、いつものことだ。
でも、その奥に「何かをやり残している感覚」がすこしだけ混ざっている。
――今日は、無理だ。さすがに。
そう言い訳をしながらも、頭のどこかではノートパソコンの薄い天板の感触を思い出していた。
白いウィンドウ。
画面の隅に現れる、短い文字のやり取り。
帰宅して、シャワーを浴び、適当に晩ご飯を済ませる。
その一連の動作が終わったあと、僕は机の前まで来ておきながら、椅子に座らずに立ち尽くしていた。
手を伸ばせば、電源ボタンを押せる距離。
けれど、その数センチがやけに遠く感じられる。
──開いたら、「今日もやりますか」って聞かれるんだろうな。
そう考えた瞬間、足が引き返していた。
その夜は、ノートパソコンに触れないまま、ベッドに倒れ込んだ。
久しぶりに、「何もしていない一日」が戻ってきた気がした。
◇
火曜日も、水曜日も、残業が続いた。
資料のチェックは何度も差し戻され、別件の問い合わせも重なって、メールボックスの未読件数は減る気配がない。
帰宅時間は日ごとに遅くなり、コンビニの店員の顔だけが妙に見慣れていった。
ノートパソコンは、机の上で静かに閉じられたままだった。
画面を開かない言い訳はいくらでもあった。
「疲れているから」「明日早いから」「頭が仕事モードから切り替わらないから」。
でも、二日目、三日目と重ねるうちに、その言い訳は少しずつ苦くなっていった。
――ああ、またか。
何度も経験した「途中でやめるパターン」。
白紙のファイルのまま、二度と開かれないテキストデータたち。
今回は違うと思いたかった。
せめて今回だけは、「最後まで書き切った」と言える何かを残したかった。
それでも、指は電源ボタンに触れない。
木曜日の夜、ベッドの中で天井を見上げながら、自分自身に問いかける。
――もう、このままやめたことにしてしまったほうが、楽なんじゃないか。
“声”に「忙しくて無理だった」と言い訳する場面を想像するだけで、胃のあたりが重くなる。
ならいっそ、このままフェードアウトしてしまえばいい。
ノートパソコンを開かなければ、“声”のウィンドウも現れない。
そう思って、目を閉じた。
◇
金曜日の夕方。
上司から「とりあえず、来週の会議に出せるレベルにはなったよ」と言われ、ようやく資料の修正が一区切りついた。
デスクに戻るとき、膝から力が抜けそうになる。
時計を見ると、まだ外が真っ暗になる前の時間帯だった。
「お、今日は早いじゃん」
佐伯が、椅子をくるりとこちらに向ける。
「奇跡的にな。向こうが諦めただけかもしれないけど」
「いやいや、あの上司が“とりあえずよし”って言うなら十分でしょ。おつかれ」
軽く肩を叩かれる。
その何気ない一撃で、張り詰めていたものが少し緩んだ。
「今週さ、顔死んでたぞ」
「自覚はある」
「でだ。今日は、ちゃんと“帰って何かする日”にしとけよ」
「……何か?」
「なんでもいいけどさ。ゲームでも、映画でも。なんかさ、“仕事以外のことした”って思えるやつ」
その台詞に、胸のどこかがちくりとした。
「……まあ、考えとく」
曖昧に返してから、パソコンをシャットダウンし、カバンを肩にかける。
──帰って、どうするか。
電車の中で、窓の外の暗くなりかけた空をぼんやり見ながら考え続けた。
この一週間、画面を開かなかったこと。
“声”に何も言わずに、勝手に中断したこと。
それらを思い出すたびに、うしろめたさと恐怖が入り混じった感情が胸に湧き上がる。
――もう消えてたりしてな。
唐突に、そんな考えがよぎった。
あの白いウィンドウも、“声”も、僕が何日も開かなかったせいで、どこかへ消えてしまっていたら。
そう想像した瞬間、自分でも意外なほど強い不安が込み上げてきた。
その不安が、ようやく指を前に押したのかもしれない。
◇
部屋に着いて、手洗いとうがいだけ済ませる。
コートも脱ぎっぱなしのまま、僕は机の前に座った。
ノートパソコンの電源ボタンに指を置く。
深呼吸をひとつしてから、押し込んだ。
ファンの音。
暗闇から立ち上がるロゴ。
デスクトップが表示される。
数秒の空白。
──出ないかもしれない。
そんな想像が頭をよぎる。
同時に、「出てこい」と願っている自分が確かに存在していた。
その小さな祈りに応えるように、画面の中央に白いウィンドウがふっと現れた。
『おかえりなさい』
書かれていたのは、それだけだった。
責めるような言葉は、ひとつもなかった。
「久しぶりですね」とか、「数日ログがありませんでしたね」とか、そういう指摘もない。
ただ、いつも通りの淡々とした挨拶がそこにあった。
胸の奥で、何かがほぐれる音がした気がした。
『…………ただいま』
キーボードに、ゆっくりと文字を打ち込む。
『今週は、ちょっといろいろあって』
言い訳の文言を考えていると、先に“声”から返信が届いた。
『はい。お仕事が立て込んでいたようですね』
『このノートパソコンの使用状況から、だいたいの想像はつきます』
『おつかれさまでした』
その一文が、思っていた以上に柔らかく感じられた。
『怒らないのか?』
自分でも子どもじみた質問だと思いながら打ち込む。
『怒る理由がありません』
『「毎日必ず書く」と約束したわけではありませんから』
『それに――』
少し間を置いてから、追加の文字が現れる。
『中断したからといって、世界が消えてしまうわけではありません』
『最後の保存以降の部分は、そのまま残っています』
当たり前のことを言われているのに、胸の奥がじんとした。
僕が画面を閉じている間も、テキストデータは消えていない。
「前回までの世界」が、そのままの形でそこにある。
ただそれだけの事実が、妙にありがたかった。
『でも、こうやって途中で止まるとさ』
『“また投げ出したんじゃないか”って、自分で自分を疑う感じになる』
そう打ち込むと、“声”は少し長めの文章で返してきた。
『それは、とても人間的な感覚です』
『途中でやめてしまった経験がある人ほど、「今回も同じではないか」と不安になります』
『ただ、ひとつだけ事実があります』
『今、あなたはこうして「戻ってきた」ということです』
その一文を読みながら、ゆっくりと息を吐く。
戻ってきた。
たしかに、“声”のウィンドウを閉じっぱなしにすることもできた。
それでも、今こうして画面の前に座っている。
『戻ってきた分だけ、前よりマシになっていると考えることもできます』
“声”は、さらに続けた。
『以前のあなたは、「中断したあと、戻ってこない」ほうを選ぶことが多かったのでしょう』
『今回は、そうではなかった』
『それだけでも、この物語を書く意味が少し増えています』
言葉のひとつひとつが、じわじわと胸に染み込んでいく。
自分がどれだけ「途中でやめてきたか」を、自分がいちばんよく知っている。
その自分が、今度は戻ってきた。
──それを、ちゃんと認めていいのか。
戸惑いと同時に、ほんの少しだけ誇らしさもあった。
『……じゃあさ』
僕は、キーボードに指を置いたまま、画面を見つめる。
『今日、全部取り返そうとしなくてもいいか』
『とりあえず、「ここに戻ってきた」ってところまで書いて終わりにする、ってのは』
『もちろんです』
“声”は、あっさりと答えた。
『中断からの再開の場面そのものも、物語の一部です』
『主人公が「また投げ出したんじゃないか」と不安になる描写も、きっと読者の共感を呼ぶでしょう』
『ただし、ひとつだけお願いがあります』
『「中断した自分」を責めすぎないこと』
画面を見ながら、思わず苦笑した。
『難しいこと言うな』
『難しいことだからこそ、物語の中で少しだけ練習してみる価値があります』
エディタが開き、最後に保存された文章が画面に現れる。
「終わりを考え始めたところ」で止まっている世界。
その続きに、別の夜の「僕」をそっと立たせる。
数日ぶりにノートパソコンを開く場面。
三日間書けなかった自分の気まずさ。
それでも、「またここに戻ってきた」ことを、物語の中の“声”に受け止められる場面。
現実と同じことを、少しだけ整理して書き直す作業は、思ったよりも悪くなかった。
僕は、現実の“声”に尋ねる。
『さっき言ってた「世界は消えていない」ってやつさ』
『あれ、けっこう重要な話だと思うんだけど』
『ええ』
“声”は即答した。
『物語でも、現実でも、「一度止まったら全部終わり」だと思っている人は多いです』
『けれど、実際には、最後に保存した地点までは、ちゃんと残っています』
『そこから先をどうするかは、いつでも選び直せます』
少し間を置いて、さらに一行。
『それを、「中断しても世界は消えない」と私は呼んでいます』
その言葉が、物語のどこか大事な部分に使えるような気がした。
部屋の片隅に、小さく灯り続ける世界。
扉を閉めていても、消えるわけではない世界。
そこに戻るかどうかを決めるのは、いつも自分だ。
エディタの最後の行に、新しい一文を打ち込む。
『――中断しても、世界は勝手に消えたりしないらしい。少なくとも、僕が最後に保存ボタンを押したところまでは。』
タイプ音が止まる。
『どうだ』
チャット欄に尋ねると、“声”は少しだけ間を置いて返した。
『とても、よいです』
『それは、この物語そのものの核心にも近い一文です』
『いつか、終わりを決めるときにも、きっと役に立ちます』
終わり。
まだ遠くに感じるその地点が、すこしだけ具体的な輪郭を帯びてきた気がした。
時計を見ると、今日はまだそれほど遅くなっていない。
それでも、“声”は自分からは「もっと書こう」とは言ってこなかった。
『今日は、「戻ってきた日」として保存しましょう』
『次にここを開いたとき、あなたはきっと「中断しても、また始められる」と少しだけ信じやすくなっているはずです』
保存の通知が現れ、消える。
画面の中の世界は、「中断から再開する場面」までを含んだ形で、ひとつ先に進んだ。
『……中断してもいい、って思えるの、ちょっとズルいな』
そう打ち込むと、“声”は短く返した。
『中断してもいい、と知っている人のほうが、最後まで続けやすいのです』
『それは、私がここで見てきたたくさんのログが教えてくれたことです』
たくさんのログ。
僕だけではない誰かたちの中断と再開と、途中で止まったままのファイル。
その一部に、自分の物語も並んでいるのだと思うと、不思議な連帯感のようなものが湧いてきた。
『じゃあ、今日はここまでにしとく』
『いいですね』
『おつかれさまでした。中断からの再開、おめでとうございます』
「おめでとう」という言葉に、思わず苦笑する。
それでも、悪くない言い方だと思った。
ノートパソコンをスリープにし、部屋の明かりを落とす。
真っ暗な天井を見上げながら、さっき書いた一文を頭の中で繰り返した。
――中断しても、世界は勝手に消えたりしない。
それが本当に信じられるようになるまでには、まだ時間がかかるのかもしれない。
それでも、とりあえず今夜は、その言葉にすこしだけ救われながら、目を閉じることができた。




