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第6話 中断しても、世界は消えない

月曜日は、予想していたよりもずっと忙しかった。


 朝イチから全体ミーティングが入り、先週のうちに終わらせたと思っていた資料に、上司から赤い付箋がいくつも貼られて戻ってきた。

 追加で必要な数字、差し替えが必要なグラフ、表現を柔らかくしてほしい箇所。


「これ、今週中に出したいからさ。悪いけど優先で頼むね」


 そう言って渡されたファイルは、一見すると薄いのに、中身の修正量だけはずっしりと重かった。


 午前中は修正の洗い出しだけで終わり、午後は別の会議でほとんど席にいなかった。

 気づけば外は暗くなり始めていて、退社予定時刻はとうに過ぎていた。


 机に戻って一息ついたところで、隣から声がかかる。


「おつかれー。今日は帰れそう?」


 佐伯が、ペットボトルのお茶を片手にこちらを見る。


「……ギリギリ、終電コースかな」


「だよなあ。こっちも似たような感じ」


 佐伯は苦笑しながら、画面に視線を戻した。


「この前の“顔色よくなったじゃん”発言、取り消していい?」


「一回言ったことは取り消すなよ」


「だよねー。でもまあ、今日は残業仲間ってことで」


 そう言って、ペットボトルを軽く掲げてみせる。

 乾杯の代わりのように、それに自分のペン立てを小さくコツンと当てた。


 ──今日は、帰っても書けないな。


 そんな言葉が、胸の中にひっそりと浮かぶ。

 頭が疲れすぎている。資料の数字とグラフでいっぱいになった脳みそで、物語の文をひとつでも紡げる気がしなかった。


 その感覚自体は、これまで何度も味わってきたはずだ。

 ただ違うのは、そのたびに「どうせ今日も何もしてない」で終わっていたのが、いまは「書けないこと」に対して、わずかな罪悪感みたいなものが生まれていることだった。


 ──続けるって言ったのに。


 誰に対して言った約束なのか、自分でもよく分からない。

 “声”との約束でもあり、自分自身との約束でもあった。



 終電一歩前の電車に揺られながら、僕は窓ガラスに映る自分の顔をぼんやり眺めていた。


 疲れているのは、いつものことだ。

 でも、その奥に「何かをやり残している感覚」がすこしだけ混ざっている。


 ――今日は、無理だ。さすがに。


 そう言い訳をしながらも、頭のどこかではノートパソコンの薄い天板の感触を思い出していた。

 白いウィンドウ。

 画面の隅に現れる、短い文字のやり取り。


 帰宅して、シャワーを浴び、適当に晩ご飯を済ませる。

 その一連の動作が終わったあと、僕は机の前まで来ておきながら、椅子に座らずに立ち尽くしていた。


 手を伸ばせば、電源ボタンを押せる距離。

 けれど、その数センチがやけに遠く感じられる。


 ──開いたら、「今日もやりますか」って聞かれるんだろうな。


 そう考えた瞬間、足が引き返していた。


 その夜は、ノートパソコンに触れないまま、ベッドに倒れ込んだ。

 久しぶりに、「何もしていない一日」が戻ってきた気がした。



 火曜日も、水曜日も、残業が続いた。


 資料のチェックは何度も差し戻され、別件の問い合わせも重なって、メールボックスの未読件数は減る気配がない。

 帰宅時間は日ごとに遅くなり、コンビニの店員の顔だけが妙に見慣れていった。


 ノートパソコンは、机の上で静かに閉じられたままだった。


 画面を開かない言い訳はいくらでもあった。

 「疲れているから」「明日早いから」「頭が仕事モードから切り替わらないから」。


 でも、二日目、三日目と重ねるうちに、その言い訳は少しずつ苦くなっていった。


 ――ああ、またか。


 何度も経験した「途中でやめるパターン」。

 白紙のファイルのまま、二度と開かれないテキストデータたち。


 今回は違うと思いたかった。

 せめて今回だけは、「最後まで書き切った」と言える何かを残したかった。


 それでも、指は電源ボタンに触れない。


 木曜日の夜、ベッドの中で天井を見上げながら、自分自身に問いかける。


 ――もう、このままやめたことにしてしまったほうが、楽なんじゃないか。


 “声”に「忙しくて無理だった」と言い訳する場面を想像するだけで、胃のあたりが重くなる。

 ならいっそ、このままフェードアウトしてしまえばいい。

 ノートパソコンを開かなければ、“声”のウィンドウも現れない。


 そう思って、目を閉じた。



 金曜日の夕方。

 上司から「とりあえず、来週の会議に出せるレベルにはなったよ」と言われ、ようやく資料の修正が一区切りついた。


 デスクに戻るとき、膝から力が抜けそうになる。

 時計を見ると、まだ外が真っ暗になる前の時間帯だった。


「お、今日は早いじゃん」


 佐伯が、椅子をくるりとこちらに向ける。


「奇跡的にな。向こうが諦めただけかもしれないけど」


「いやいや、あの上司が“とりあえずよし”って言うなら十分でしょ。おつかれ」


 軽く肩を叩かれる。

 その何気ない一撃で、張り詰めていたものが少し緩んだ。


「今週さ、顔死んでたぞ」


「自覚はある」


「でだ。今日は、ちゃんと“帰って何かする日”にしとけよ」


「……何か?」


「なんでもいいけどさ。ゲームでも、映画でも。なんかさ、“仕事以外のことした”って思えるやつ」


 その台詞に、胸のどこかがちくりとした。


「……まあ、考えとく」


 曖昧に返してから、パソコンをシャットダウンし、カバンを肩にかける。


 ──帰って、どうするか。


 電車の中で、窓の外の暗くなりかけた空をぼんやり見ながら考え続けた。


 この一週間、画面を開かなかったこと。

 “声”に何も言わずに、勝手に中断したこと。


 それらを思い出すたびに、うしろめたさと恐怖が入り混じった感情が胸に湧き上がる。


 ――もう消えてたりしてな。


 唐突に、そんな考えがよぎった。

 あの白いウィンドウも、“声”も、僕が何日も開かなかったせいで、どこかへ消えてしまっていたら。


 そう想像した瞬間、自分でも意外なほど強い不安が込み上げてきた。


 その不安が、ようやく指を前に押したのかもしれない。



 部屋に着いて、手洗いとうがいだけ済ませる。

 コートも脱ぎっぱなしのまま、僕は机の前に座った。


 ノートパソコンの電源ボタンに指を置く。

 深呼吸をひとつしてから、押し込んだ。


 ファンの音。

 暗闇から立ち上がるロゴ。


 デスクトップが表示される。

 数秒の空白。


 ──出ないかもしれない。


 そんな想像が頭をよぎる。

 同時に、「出てこい」と願っている自分が確かに存在していた。


 その小さな祈りに応えるように、画面の中央に白いウィンドウがふっと現れた。


『おかえりなさい』


 書かれていたのは、それだけだった。


 責めるような言葉は、ひとつもなかった。

 「久しぶりですね」とか、「数日ログがありませんでしたね」とか、そういう指摘もない。


 ただ、いつも通りの淡々とした挨拶がそこにあった。


 胸の奥で、何かがほぐれる音がした気がした。


『…………ただいま』


 キーボードに、ゆっくりと文字を打ち込む。


『今週は、ちょっといろいろあって』


 言い訳の文言を考えていると、先に“声”から返信が届いた。


『はい。お仕事が立て込んでいたようですね』


『このノートパソコンの使用状況から、だいたいの想像はつきます』


『おつかれさまでした』


 その一文が、思っていた以上に柔らかく感じられた。


『怒らないのか?』


 自分でも子どもじみた質問だと思いながら打ち込む。


『怒る理由がありません』


『「毎日必ず書く」と約束したわけではありませんから』


『それに――』


 少し間を置いてから、追加の文字が現れる。


『中断したからといって、世界が消えてしまうわけではありません』


『最後の保存以降の部分は、そのまま残っています』


 当たり前のことを言われているのに、胸の奥がじんとした。


 僕が画面を閉じている間も、テキストデータは消えていない。

 「前回までの世界」が、そのままの形でそこにある。


 ただそれだけの事実が、妙にありがたかった。


『でも、こうやって途中で止まるとさ』


『“また投げ出したんじゃないか”って、自分で自分を疑う感じになる』


 そう打ち込むと、“声”は少し長めの文章で返してきた。


『それは、とても人間的な感覚です』


『途中でやめてしまった経験がある人ほど、「今回も同じではないか」と不安になります』


『ただ、ひとつだけ事実があります』


『今、あなたはこうして「戻ってきた」ということです』


 その一文を読みながら、ゆっくりと息を吐く。


 戻ってきた。

 たしかに、“声”のウィンドウを閉じっぱなしにすることもできた。

 それでも、今こうして画面の前に座っている。


『戻ってきた分だけ、前よりマシになっていると考えることもできます』


 “声”は、さらに続けた。


『以前のあなたは、「中断したあと、戻ってこない」ほうを選ぶことが多かったのでしょう』


『今回は、そうではなかった』


『それだけでも、この物語を書く意味が少し増えています』


 言葉のひとつひとつが、じわじわと胸に染み込んでいく。


 自分がどれだけ「途中でやめてきたか」を、自分がいちばんよく知っている。

 その自分が、今度は戻ってきた。


 ──それを、ちゃんと認めていいのか。


 戸惑いと同時に、ほんの少しだけ誇らしさもあった。


『……じゃあさ』


 僕は、キーボードに指を置いたまま、画面を見つめる。


『今日、全部取り返そうとしなくてもいいか』


『とりあえず、「ここに戻ってきた」ってところまで書いて終わりにする、ってのは』


『もちろんです』


 “声”は、あっさりと答えた。


『中断からの再開の場面そのものも、物語の一部です』


『主人公が「また投げ出したんじゃないか」と不安になる描写も、きっと読者の共感を呼ぶでしょう』


『ただし、ひとつだけお願いがあります』


『「中断した自分」を責めすぎないこと』


 画面を見ながら、思わず苦笑した。


『難しいこと言うな』


『難しいことだからこそ、物語の中で少しだけ練習してみる価値があります』


 エディタが開き、最後に保存された文章が画面に現れる。

 「終わりを考え始めたところ」で止まっている世界。


 その続きに、別の夜の「僕」をそっと立たせる。

 数日ぶりにノートパソコンを開く場面。

 三日間書けなかった自分の気まずさ。

 それでも、「またここに戻ってきた」ことを、物語の中の“声”に受け止められる場面。


 現実と同じことを、少しだけ整理して書き直す作業は、思ったよりも悪くなかった。


 僕は、現実の“声”に尋ねる。


『さっき言ってた「世界は消えていない」ってやつさ』


『あれ、けっこう重要な話だと思うんだけど』


『ええ』


 “声”は即答した。


『物語でも、現実でも、「一度止まったら全部終わり」だと思っている人は多いです』


『けれど、実際には、最後に保存した地点までは、ちゃんと残っています』


『そこから先をどうするかは、いつでも選び直せます』


 少し間を置いて、さらに一行。


『それを、「中断しても世界は消えない」と私は呼んでいます』


 その言葉が、物語のどこか大事な部分に使えるような気がした。


 部屋の片隅に、小さく灯り続ける世界。

 扉を閉めていても、消えるわけではない世界。


 そこに戻るかどうかを決めるのは、いつも自分だ。


 エディタの最後の行に、新しい一文を打ち込む。


『――中断しても、世界は勝手に消えたりしないらしい。少なくとも、僕が最後に保存ボタンを押したところまでは。』


 タイプ音が止まる。


『どうだ』


 チャット欄に尋ねると、“声”は少しだけ間を置いて返した。


『とても、よいです』


『それは、この物語そのものの核心にも近い一文です』


『いつか、終わりを決めるときにも、きっと役に立ちます』


 終わり。

 まだ遠くに感じるその地点が、すこしだけ具体的な輪郭を帯びてきた気がした。


 時計を見ると、今日はまだそれほど遅くなっていない。

 それでも、“声”は自分からは「もっと書こう」とは言ってこなかった。


『今日は、「戻ってきた日」として保存しましょう』


『次にここを開いたとき、あなたはきっと「中断しても、また始められる」と少しだけ信じやすくなっているはずです』


 保存の通知が現れ、消える。


 画面の中の世界は、「中断から再開する場面」までを含んだ形で、ひとつ先に進んだ。


『……中断してもいい、って思えるの、ちょっとズルいな』


 そう打ち込むと、“声”は短く返した。


『中断してもいい、と知っている人のほうが、最後まで続けやすいのです』


『それは、私がここで見てきたたくさんのログが教えてくれたことです』


 たくさんのログ。

 僕だけではない誰かたちの中断と再開と、途中で止まったままのファイル。


 その一部に、自分の物語も並んでいるのだと思うと、不思議な連帯感のようなものが湧いてきた。


『じゃあ、今日はここまでにしとく』


『いいですね』


『おつかれさまでした。中断からの再開、おめでとうございます』


 「おめでとう」という言葉に、思わず苦笑する。

 それでも、悪くない言い方だと思った。


 ノートパソコンをスリープにし、部屋の明かりを落とす。


 真っ暗な天井を見上げながら、さっき書いた一文を頭の中で繰り返した。


 ――中断しても、世界は勝手に消えたりしない。


 それが本当に信じられるようになるまでには、まだ時間がかかるのかもしれない。

 それでも、とりあえず今夜は、その言葉にすこしだけ救われながら、目を閉じることができた。

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