第5話 終わりを決めるのがいちばんこわい
日曜日の夜、気づけば、ノートパソコンの前に座るのが「いつもの場所」になりつつあった。
金曜の夜と、土曜の午前に少し進めたおかげで、物語はゆっくりとだが前に進んでいる。
主人公は仕事と家の往復の中で、“声”と一緒に物語を書き始め、同僚との会話を通して、ほんの少しだけ表情が柔らかくなっている――そんなところまで来ていた。
エディタを開き、最新の行の下にカーソルを置く。
頭の中には、「このあと、どこに向かうのか」というぼんやりした地図のようなものが浮かんでいた。
そこで、ふと気づく。
――この話、どこで終わらせるのが正解なんだろう。
最初に“声”と話したとき、僕は「一度だけなら、最後まで書いてみてもいい」と言った。
その「最後まで」が、どの地点を指しているのかを、まだきちんと考えていなかった。
チャット欄を開く。
いつものように、白いウィンドウの右側に小さなスペースが現れる。
『なあ』
短く打ち込むと、すぐに返事がくる。
『はい』
『どうしましたか』
『この物語、どこで終わらせるのがいいんだと思う?』
しばらく、カーソルだけが瞬く時間が続いた。
『よい問いですね』
最初の一文は、それだけだった。
『どこで終わるかを考えることは、「何の物語なのか」をもう一度確認することでもあります』
『すでに、いくつか候補はあります』
「候補?」
『たとえば――』
“声”は淡々と、いくつかの案を挙げていった。
『ひとつ目。あなたと同僚が、仕事帰りに久しぶりに他愛のない話をして、「明日もまあ、なんとかやれるか」と思えるところ』
『ふたつ目。あなたが書いた物語が、投稿サイトにひっそりと公開されるところ』
『みっつ目。あなたが公開はしなくても、「完成した」と感じてファイルを閉じる瞬間』
どれも「物語としてはきれいに終われそうな場面」だと、頭では分かった。
でも――どこか、引っかかる。
『どれも、きれいすぎる気がする』
そう打ち込むと、すぐに返事が来る。
『きれいに終わらせることが、必ずしも悪いわけではありません』
『ただ、「きれいな場所で終わらせることへの怖さ」が、今のあなたには強いのかもしれません』
図星を刺されたようで、少しだけむっとした。
『きれいに終わらせるのが怖い、ってどういうことだよ』
『ひとつの物語が終わると、「次」が始められるのかどうかを考えざるをえなくなります』
『それを怖いと感じる人も、少なくありません』
画面の文字を眺めながら、どこか胸の奥がざわついた。
――たしかに、終わらせたあとを考えるのが、いちばん怖いのかもしれない。
この物語が終わったら、僕はまた、何もない部屋に戻ってしまうのか。
終電前の電車に揺られながら、「今日も特に何もしてないな」とつぶやくだけの日々に、逆戻りするのか。
そう思うと、「終わり」を決めることが、妙に重たく感じられた。
『じゃあ、終わり決めずに書き続けるってのは?』
半分冗談、半分本気で打ち込んでみる。
『長編化もひとつの選択肢ではあります』
『ですが、最初にお約束したのは「最後まで書き切れるひとつの物語」でした』
『その約束を守ることが、今のあなたには大事だと、私は思います』
約束。
あの夜、白いウィンドウに浮かんだ「一度だけでかまいません。最後まで書き切る物語を――」という文字を思い出す。
『終わりを決めるのが怖い気持ちも、物語の中に入れてしまっていいのですよ』
『主人公自身が、「どこで終わらせるべきか」を迷う話にしてもいい』
「……そんなの、読んでて楽しいのか?」
打ち込んでから、自分で苦笑する。
でも、“声”は真面目なままだった。
『楽しさにもいろいろな形があります』
『派手な事件や驚きだけが、物語の価値ではありません』
『自分の中にある「終わりへの怖さ」を少しだけ言葉にしてみることも、ひとつの読みどころになります』
少しだけ間を置いて、“声”は続けた。
『それに――』
『終わりを怖がりながらも、きちんと終わらせる人の物語は、私は好きです』
その一文が、思った以上に胸に響いた。
終わりを怖がらない人の物語ではなく、怖がりながらも終わらせる人の物語。
それなら、自分にも少しは関係がある気がした。
『……じゃあさ』
僕はゆっくりと指を動かした。
『物語の中で、主人公が「今書いてる物語の終わり方」に悩む場面を入れてみるのはどうだ』
『書く動機とか、終わったあとどうするかとか、そういうのを考えざるをえなくなるシーン』
送信すると、“声”はすぐに賛成した。
『とてもよいと思います』
『「物語を書いている物語」なのですから、その迷いも含めて描く価値があります』
『ただし、読み手が置いていかれないよう、難しくしすぎないようにしましょう』
たしかに、そこは気をつけたい。
画面を見つめながら、僕は深呼吸をした。
――終わりを考える場面。
主人公が、画面の向こうの“声”に、「この話、どこで終わらせるべきだと思う?」と聞く。
それは、ほとんど今の自分と同じ状況だ。
それをそのまま物語に持ち込んでしまうのは、少し照れくさい。けれど、おもしろくもある。
「メタすぎるかな……」
小さく呟いてから、僕はエディタに戻り、物語の中の「僕」を少しだけ未来に進めてみることにした。
◇
物語の中の「僕」も、いつも通り仕事をして、いつも通り終電前の電車に揺られている。
ただひとつ違うのは、頭の片隅で、「自分が書いている物語のゴール」を考えてしまっていること。
仕事のトラブルで残業が続き、なかなか画面の前に座れない日も増えてくる。
そうして数日ぶりにノートパソコンを開いた夜、物語の中の「僕」も、今の僕と同じ質問を投げかける――そんな流れを、少しずつ文章にしていく。
書きながら、ときどきチャット欄に目をやると、“声”が短いコメントを挟んでくる。
『このあたりで、現実の時間経過と物語の時間経過を少しだけ圧縮してもよいかもしれません』
『「残業の続く数日間」を一段落でまとめるなど』
『そうすることで、だれないリズムになります』
「だれないリズム、か」
言われた通り、描写の密度を調整しながら、主人公が「終わり」について考えるきっかけを積み重ねていく。
――忙しくて書けない日が続いたあと、ようやく机に向かう。
――画面の中で“声”が、「今日はどこまで進めましょうか」といつも通りに聞いてくる。
――そこで、「終わりを決めるのが怖い」と、物語の中の僕も言ってしまう。
その場面を書きながら、ふと気づいた。
――今、画面のこっち側でやっていることを、画面の向こう側に写し込んでいるんだな。
モニターの中に、もう一枚のモニターがあるような、不思議な感覚。
頭が混乱しそうになりながらも、一文ずつ積み上げていく。
『ここまできたら、一度、区切り線を引いてもよいかもしれません』
“声”が提案してくる。
『たとえば、「終わりを怖がっている自分に気づいた場面」までをひとつの山とする』
『その先で、もうひとつ小さな山を作りましょう』
『「それでも終わらせる」と決める場面です』
画面の中で説明される「山」という言葉が、頭の中の地図に少しずつ線を描き足していく。
『今日のところは、その「山の手前」まででいい』
僕はそう打ち込んだ。
『終わりを考えるところまで書いて、決心はまた今度で』
『それでもいいですか』
『もちろんです』
“声”は、迷いなく答えた。
『物語の中でも、現実でも、決心には時間が必要です』
『「すぐに決められない自分」を描くことも、嘘をつかない物語の作り方のひとつです』
嘘をつかない物語。
派手さはなくても、自分が読んでいて納得できる物語。
そういう方向に近づいているのだとしたら、それでいいのかもしれない。
エディタ画面に戻り、物語の中の「僕」に、正直な台詞をひとつ置いた。
『――もしこの話が終わったら、また何もない部屋に戻っちゃう気がするんだ』
キーを叩いた指先に、わずかに力が入る。
それが、現実の僕の言葉でもあることを、“声”もきっと分かっている。
しばらくして、“声”のコメントが表示された。
『よい行です』
『それは、あなたが今、本当に感じていることですから』
『このあと、その感覚にどう折り合いをつけるかが、物語の「結」にあたります』
結。
まだ、はっきりとした形は見えない。
けれど、「そこに向かう途中までは、書けた」と思えるところまで、今夜は来た。
時計を見ると、日付が変わる少し前だった。
明日はまた、月曜日が始まる。
『今日は、ここまでにしておきましょう』
“声”が、いつものように区切りを告げる。
『終わりを考え始めたところまで、進みました』
『それだけでも、大きな一歩です』
エディタの保存アイコンをクリックすると、小さなダイアログがあらわれて消える。
画面の中の世界は、そこまでの状態で固まった。
『……終わりを考え始めたところで終わる、ってのも、ちょっと皮肉だな』
そう打ち込むと、“声”はわずかに間をおいてから返した。
『物語の多くは、「次の一歩の手前」で終わります』
『その先をすべて描ききることはできませんから』
『そのかわり、「この先、なんとかやっていけそうだ」と読者が感じられるところまでを描くのです』
『今、あなたがしているのは、その準備です』
準備。
終わりを決めるための準備。
ノートパソコンをスリープにし、部屋の明かりを消す。
ベッドに横になって目を閉じると、物語の中の「僕」と、現実の僕が、同じような姿勢で天井を見上げているイメージが浮かんだ。
どちらもまだ、「どこで終わらせるか」を決められていない。
でも、少なくとも、「終わりを考え始めた自分」をごまかさずに書くところまでは来ている。
それだけでも、少しは前に進んだと言っていいのかもしれない。
そんなことを考えながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。




