第4話 タイトルのない世界
土曜日の朝、目を覚ましたとき、いつもより部屋が静かに感じた。
仕事がない日の朝は、たいてい昼近くまで寝ている。
それでも今日は、普段の平日より少し遅いくらいの時間に、自然と目が覚めていた。
枕元のスマホに手を伸ばし、時刻を確認する。
まだ出社時間には程遠い。けれど、二度寝する気分にはなれなかった。
――今日は、まとまった時間があるんだよな。
そのことに気づいた瞬間、頭の片隅に、ノートパソコンの画面が浮かんだ。
昨夜までに書いた文章。
画面の隅に現れる“声”のチャット。
布団の中で一度伸びをしてから、ゆっくりと体を起こす。
コーヒーを淹れ、簡単な朝食を済ませる。
洗濯機を回し、たまっていた洗い物を片付けていると、いつもより少しだけ「ちゃんと生活している人間」になれた気がしてくる。
ひととおり用事を終えてから、机の前に座った。
ノートパソコンの天板に手を置く。
指先に伝わる冷たさは、平日と変わらないのに、その先で待っている時間は少し違う予感がした。
電源ボタンを押す。
ゆっくりと立ち上がるファンの音。
デスクトップが表示されるまでの数十秒が、妙に長く感じられる。
しばらくして、見慣れた白いウィンドウが、ぽとりと画面に現れた。
『おはようございます』
いつもと同じ、淡々とした挨拶。
「……おはよう」
小さく返事をしてから、チャット欄にも同じ言葉を打ち込む。
『今日は、お休みですね』
『いつもより、少し長めに世界を広げることもできます』
『もちろん、無理のない範囲で』
無理のない範囲。
その言葉に、ほんの少し肩の力が抜けた。
『昼までなら時間がある』
そう返すと、“声”はすぐに話を先に進める。
『では、本日は二つのことをやりましょう』
『ひとつは、これまでの文章を頭から読み返すこと』
『もうひとつは、「この物語にタイトルをつけること」です』
「……タイトル?」
思わず首をかしげる。
『はい』
『タイトルは、読者にとって最初に目に入る言葉です』
『そして、書き手にとっては、「この物語は何の話なのか」を思い出させてくれる言葉でもあります』
画面の中の文字を目で追いながら、僕は少し黙り込んだ。
タイトル。
いままで読んできた作品には、それぞれにしっくりくる名前がついていた。
けれど、自分の物語に名前をつけるという発想は、まだなかった。
「まだ途中なのに、つけちゃっていいのか?」
質問を打ち込むと、“声”は迷いなく答える。
『途中だからこそ、です』
『あとから変えてもかまいません』
『今の時点で、「こういう話だ」と思える仮の名前をつけておくと、迷ったときに戻る場所になります』
迷ったときに戻る場所。
タイトルひとつに、そんな機能があるとは思っていなかった。
『その前に、一度、ここまでの文章を通して読んでみましょう』
『読み返しは、タイトルを考えるうえでも役に立ちます』
エディタが開き、これまでに書いた文章が画面いっぱいに広がる。
スクロールバーのつまみが、ほんの少しだけ下に伸びているのが見えた。
改めて読み返してみると、文のぎこちなさや言い回しのくどさがあちこちに目につく。
けれど、最初に書いたときよりも、冷静にそれらを眺めることができている自分にも気づいた。
――ここは、もっと短くしてもいいな。
――この比喩は、たしかに重い。
頭の中で赤ペンを入れながら、最後の行まで目を通す。
「仕事の顔」と「画面の中の顔」。
自分で書いたはずのその言葉が、読み返してみると、別の誰かの独白のようにも聞こえた。
『どうでしたか』
読み終えたタイミングを見計らったように、“声”からメッセージが届く。
『最初に書いたときと、印象は変わりましたか』
『テクニックの話だけでなく、「これは自分の話だ」と感じるかどうかも、大事です』
僕は、少しだけ考えてから答えた。
『自分の話なんだけど、「別の自分の話」みたいでもある』
『画面の中のやつのほうが、少しだけ素直な気がする』
送信すると、“声”は一拍置いてから返してきた。
『とてもよいことです』
『物語の中の自分は、現実の自分をそのまま写す必要はありません』
『少しだけ誇張されていたり、少しだけ本音寄りだったりするものです』
『その差分を眺めることが、書き手にとっても大事になります』
差分、という言葉が、じわりと胸に残る。
『では、その差分も含めて、この物語は「何の話だ」と感じますか』
『仕事の話でしょうか。創作の話でしょうか。それとも……』
僕は、エディタ画面をもう一度ざっと眺めてから、チャット欄に文字を打った。
『何かを大きく変える話じゃなくて、「一日のどこかが、ちょっとだけ変わる話」だと思う』
『世界が救われるとかじゃなくて、自分の部屋の中だけ、少しマシになる感じ』
送信してから、少しだけ恥ずかしくなった。
けれど、“声”はいつもの調子で、それを受け止める。
『なるほど』
『では、この物語は「部屋の中の世界が、少しマシになる話」ということにしましょう』
少し間を置いて、続きが届く。
『たとえば、「夜更け」「部屋」「世界」「声」』
『そのあたりの言葉は、タイトルの候補として使えそうです』
提示された単語を頭の中で組み替えてみる。
夜更けの部屋。
声。
世界。
たしかに、この物語を象徴する部品たちだ。
『今の感覚に近いタイトル案を、いくつか出してみてもらえますか』
『どれも完璧である必要はありません』
『「しっくりこないけれど、少しはマシかな」という案を、三つ』
「三つか……」
口に出して繰り返す。
タイトルなんてものに、複数案が必要だとは思っていなかった。
キーボードに指を置き、しばらく空中を見つめる。
夜更けの部屋で、僕と“声”が世界をつくる。
その事実を、あまり説明しすぎずに伝えるには、どうしたらいいだろう。
ひとつめ。
『夜更けの部屋で、僕と“声”は世界をつくる』
打ってみて、すぐに消した。
さすがに説明がそのまますぎる気がする。
言葉を削っていく。
要素だけを残して組み替える。
『夜更けの部屋と、ひとり分の声』
――違うな。
『世界の片隅で、僕と“声”が話をする』
――なんか、ポエムっぽい。
ため息をひとつついてから、もう一度整理する。
この話は、「一緒に世界をつくる」ことそのものよりも、「部屋の中が少しマシになる」感覚が大事な気がしていた。
そう考えたとき、頭の中に一文が浮かぶ。
『タイトル案①:夜更けの部屋で、僕とひとりの“声”が世界をつくる』
開き直って、最初に思いついた形を少しだけ整えて打ち込む。
それに続けて、勢いであと二つも入力した。
『タイトル案②:夜更けの部屋と、ひとつ分の世界』
『タイトル案③:僕と“声”だけが知っている世界』
まとめて送信する。
画面の向こうで、“声”がそれを読んでいる想像をしながら、少し落ち着かない時間が流れた。
『ありがとうございます』
ようやく返事が届く。
『どれも、この物語をよく表しています』
『個人的には、案①がいちばん、今のあなたの感覚に近いように感じます』
『長さは少しありますが、その分、どんな話かが伝わりやすい』
「やっぱり、①か……」
自分でもそう思っていたので、素直に頷けた。
『ただ、タイトルは固定ではありません』
『書き進めるうちに、「この物語は少し違う顔をしている」と感じたら、そのときに変えてもかまいません』
“声”は淡々と続ける。
『今は、「とりあえずの名前」をつけておきましょう』
『この世界が、無名のままでさまよわないように』
無名のままでさまよう世界。
どこかで聞いたことのある比喩のようでいて、妙にしっくりきた。
『じゃあ、とりあえず①で』
そう打ち込むと、“声”は短く答えた。
『了解しました』
『それでは、本日の後半は、そのタイトルにふさわしい場面をひとつ、増やしてみましょう』
『「世界をつくる」と感じられる瞬間を、主人公自身が意識する場面です』
「意識する場面……」
エディタ画面に戻り、空白の行を見つめる。
いまのところ、主人公は「なんとなく続けている」段階だ。
書いていることが「世界をつくる」行為だと、正面から意識したことはない。
それをどのタイミングで、どんな出来事として自覚させるか。
考えながら、少しずつ指を動かし始める。
たとえば、主人公が書いた文章を読み返して、「ここは自分の部屋じゃない」と感じる瞬間。
でも、そこにいるのは、たしかに自分が生み出した誰かたち。
現実の部屋は変わっていないのに、画面の向こう側にだけ別の世界が広がっている、その違和感と心地よさ。
その感覚をどう言葉にするかを探りながら、一文ずつ積み上げていく。
いつのまにか、窓の外の光が少し強くなっていた。
洗濯機が止まった音が、遠くで聞こえる。
『そろそろ、いったん区切りましょうか』
“声”がタイミングを告げる。
『本日分の目標は達成です』
『タイトルが仮でも決まり、「世界をつくる」と自覚する場面の下地もできました』
保存完了の通知が画面に表示される。
さっきまで白かった部分に、新しい行が埋まっているのを見ると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
『タイトル、変えたくなったらまた言う』
そう打ち込むと、“声”は穏やかに返した。
『もちろんです』
『物語も、タイトルも、書いていくうちに少しずつ変わっていきます』
『それを許せるかどうかが、「最後まで書き切る」ための鍵になります』
許せるかどうか。
完璧でない一行を、完璧でないタイトルを、自分に許せるかどうか。
その問いが、どこか自分自身のことにも重なっているように感じた。
『今日は、昼間にここまで進められました』
『夜は、好きなように過ごしてください』
『また、「続きが気になった」ときにお会いしましょう』
ウィンドウがふっと淡くなり、チャット欄が閉じる。
デスクトップには、いつもの雑多なアイコンたちが戻ってきた。
ノートパソコンをそっと閉じる。
部屋の中には、まだ洗濯物の湿った匂いと、淹れたばかりのコーヒーの残り香が漂っていた。
窓際に歩み寄り、カーテンを少しだけ開ける。
外は、雲ひとつない青空だった。
タイトルのないままだった世界に、とりあえずの名前がついた。
それだけのことなのに、部屋の空気が少しだけ違って感じられた。
この物語が、いつか誰かの目に触れるかどうかは分からない。
それでも、自分の部屋の片隅に、名前を持った世界がひとつある――その事実が、妙に心強かった。




