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第3話 仕事の顔と、画面の中の顔

翌朝、目覚ましが鳴るより少し早く目が覚めた。


 いつもなら、アラームが鳴ってからしばらく布団の中で現実逃避をしている時間だ。

 けれどその日は、頭のどこかで昨夜打ち込んだ最初の一行がぐるぐると回っていて、うまく二度寝に戻れなかった。


 ――終電一歩前の電車に揺られているとき、いつも同じことを考える。


 あれは、まぎれもなく自分のことを書いた文章だ。

 それでも、文字になって並んでいると、別人の生活を読んでいるようにも感じる。


 布団の中で天井を見上げながら、ぼんやりとそんなことを考える。

 気づけば、アラームが鳴る前に布団から出ていた。自分でも少し驚く。


 顔を洗って、適当にトーストをかじり、スーツに袖を通す。

 いつも通りの朝だ。けれど、いつもと違うのは、頭のどこかで「昨夜の続きをどうしようか」と考えている自分がいることだった。


 通勤電車の中、吊り革につかまりながらスマホでニュースを流し見していると、ふと視線が空中で止まる。


 ――物語の中の彼にも、こうやって電車に揺られる場面を書いたほうがいいのか。


 昨日書いたのは、終電間際の揺れる車内の一コマだけだ。

 そこから日常の描写をどこまで詳しく重ねるべきなのか、なんとなく気になってくる。


 こんなことを真剣に考えながら通勤している自分が、少しおかしくて笑いそうになった。


 会社に着けば、待っているのはいつも通りの山積みのメールと、差し込みの依頼。

 午前中はあっという間に過ぎていった。


「おはよー。なんか今日は顔色いいじゃん」


 昼前、コピー機の前で声をかけられた。

 同じ部署の同僚、佐伯が紙の束を抱えながらニヤニヤしている。


「そうか? 寝不足気味だけど」


「えー、でも前よりマシ。ほら、この前なんか“今月でもう寿命なんで”って顔してたじゃん」


「それは言い過ぎだろ」


 苦笑いしながら返す。

 たしかに、数日前までの自分は、仕事と家の往復に完全に飲み込まれていた自覚がある。


「なんかさ、新しい趣味でもできた?」


「……なんでそう思う」


「勘。なんかちょっと“別のこと考えてる顔”してる」


 どきりとする。

 深夜のノートパソコンと、画面の中の“声”のことを、当然ながら誰かに話すつもりはなかった。


「いや、別に。ちょっとネット見てる時間増えただけ」


「それは前からでしょ」


 ぐさりと刺してくる。

 まあ、小説投稿サイトを眺めているだけの時間が長かったのは否定しようがない。


 話題をそらそうと、佐伯にコピー用紙を渡す。


「ほら、お前の資料、紙詰まってたやつ直しといたから」


「お、サンキュ。やさしいじゃん。……やっぱりなんか変わったなあ」


「だから何がだよ」


「いい意味いい意味」


 佐伯は、にやっと笑って自分の席に戻っていった。


 「変わった」と言われるほど、自分の中に大きな変化があったとは思えない。

 ただ、昨夜、「何もしていない一日」ではなかったと感じられたことが、顔つきに出ていたのかもしれない。


 昼休み。

 いつものようにコンビニ弁当をデスクで広げながら、ふと考える。


 ――物語の中にも、佐伯みたいなやつを一人出してみるか。


 主人公の同僚として。

 世間話をしながら、主人公の状態を時々映してくれる役割として。


 そんなことを思いついた自分に、心の中で苦笑する。

 現実の登場人物をそのまま写し取るわけにはいかないから、名前も性格も少しずつ変えればいい。


 いつのまにか、現実と物語の境界線を頭の中で行き来していた。



 その日の残業は、いつもより少し早く終わった。

 といっても、定時の一時間半後くらいだ。けれど、最近の感覚からすると、かなり早く感じる。


 コンビニで軽めに食料を買い足し、帰り道を急ぎ足で歩く。

 足取りが少しだけ軽いことに途中で気づき、思わず速度を落とした。

 別に誰かが待っているわけでもないのに、急いで帰る姿を誰かに見られたら、なんとなく気恥ずかしい。


 部屋に戻る。

 明かりをつけ、コートをハンガーに引っ掛け、最低限の片付けを済ませる。


 その一連の動作のあと、自然と机の前に座っていた。

 足が勝手に動いた、という言い訳をしたくなるくらいには、迷いがなかった。


 ノートパソコンの電源を入れる。

 ファンの音がしばらく続き、やがてデスクトップが現れる。


 数秒の間をおいて、昨日と同じ、タイトルバーに何も書かれていない白いウィンドウがぽん、と現れた。


『おかえりなさい』


 画面に、たったそれだけの一文が浮かぶ。


「……ただいま」


 思わず口で返してから、キーボードにも同じ言葉を打ち込んだ。


『今日も、お仕事おつかれさまでした』


『いかがですか。まだ続きに付き合えそうでしょうか』


『それとも、今日はやめておきますか』


 そう聞かれると、逆にやるしかないような気がしてくる。


『やる。そんなに時間は取れないけど』


 返すと、“声”はあっさりとそれを受け入れた。


『分かりました。短い時間でもかまいません』


『短い時間を何度も重ねるほうが、長く続きますから』


 白い画面が開き、昨日保存した文章が呼び出される。

 スクロールバーを動かすと、そこには、昨夜の自分が打った拙い文章が並んでいた。


 読み返しながら、午前中の佐伯との会話を思い出す。


『同僚みたいなキャラ、出したほうがいいかな』


 チャット欄に打ち込むと、すぐに返事がくる。


『とてもよいと思います』


『主人公の状態を、別の視点から映してくれる存在になりますから』


『それに、会話の相手がいると、独白ばかりの文よりも読みやすくなります』


 やはり、教科書じみたコメントだ。

 だけど、その指摘は納得できるものばかりだった。


『実在の人物をそのまま出すのは、おすすめしませんが』


 “声”が続ける。


『いくつかの要素を混ぜたり、少し極端にしたりして、「物語の中の人」にしてあげるとよいでしょう』


『先ほど、昼休みにあなたが考えていたことは、その方向です』


「……見てたのか」


 思わず画面を睨む。

 昼間の自分の思考まで覗かれていたような気がして、じわりとした気恥ずかしさがこみ上げてくる。


『正確に言うと、あなたがこのノートパソコンで入力したログや、よく開く画面の傾向から推測しているだけです』


『ですから、「すべてを見ている」と思う必要はありません』


 慰めになっているような、いないような説明だった。


『物語の中の同僚は、どんな人にしますか』


『皮肉屋でしょうか。おだやかな聞き役でしょうか』


『あるいは、あなたが本当はなりたかったタイプの人でもかまいません』


 キーボードの上で指が止まる。


 本当はなりたかったタイプ――。

 そう言われると、自分の中の「こうなりたかった自分」を見つめさせられている気分になる。


 そんな大層なものをいきなり掘り起こす勇気はなくて、僕は少し逃げ気味の案を打ち込んだ。


『軽口たたくけど、ちゃんと仕事はできるやつ』


『ときどき鬱陶しいけど、たぶん嫌いではない』


 エンターキーを押すと、“声”は短く返事をした。


『いいですね』


『では、その同僚を「物語の鏡」にしましょう』


『主人公の変化を、ときどき映してくれる人です』


 「鏡」という言葉が、頭の中に残る。

 たしかに、佐伯との会話は、自分の状態を自分以上に分かりやすく映してくれることがある。


『では、今日の目標はひとつ』


『その同僚が初めて登場する場面まで、書いてみましょう』


『細かい性格は、その場面の会話の中で決めていってかまいません』


「場面まで、ね……」


 思わずつぶやいてから、エディタに戻る。

 昨夜の最後の行の下に、一行空けて、カーソルを置く。


 通勤電車。

 職場の空気。

 コピー機の前。

 昼休みの雑談。


 頭の中で、今日一日の映像を巻き戻す。

 その中から「物語として使えそうなところ」を切り取っていく作業は、想像していたよりもずっと楽しかった。


 もちろん、現実そのままを書くわけではない。

 言い回しを変えたり、出来事の順番を少し入れ替えたり、話を盛ったりしながら、「物語の中の一日」に組み替えていく。


 タイプ音が、途切れ途切れに続く。

 ときどきチャット欄を覗くと、“声”が短くコメントをくれる。


『ここは、会話にしてみてもいいかもしれません』


『この比喩は少し重いので、もう少し軽い表現にできます』


『よい描写です。そのまま進めましょう』


 教師と生徒というほど堅苦しくはないけれど、

 完全な雑談とも違う、不思議な距離感のやり取りだった。


 やがて、「同僚」が画面の中に初めて登場する段落にたどり着く。


 僕は、現実の佐伯とは少し違う名前をつけ、

 口調も少しだけオーバー気味にして、物語の中に放り込んだ。


『なんかさ、お前、前よりマシな顔してるよ』


 画面の中で、「同僚」が笑う。

 その一文を打った瞬間、午前中のコピー機前の会話が頭をよぎり、妙な照れがこみ上げた。


『よいですね』


 “声”がコメントを送ってくる。


『現実で言われたことを、そのままではなく少し変えて使う。とてもよい習慣です』


『あなたの一日が、少しずつ物語の素材になっていきます』


 「素材」という言葉に、少しだけ救われたような気がした。


 ただ消費されていくだけだった平日の一コマが、

 画面の中で、形を変えて積み上がっていく。


 何も残らないと思っていた一日が、

 物語の中では、たしかに何かの一部として残っていく。


 時計を見ると、いつのまにか日付が変わる少し前になっていた。


『そろそろ、区切りにしましょうか』


 “声”がそう告げる。


『今日も一日分の世界が増えました』


『ここまでで、ひとまず第一場面が完成です』


 エディタの画面を眺める。

 行数はまだそれほど多くないけれど、昨日よりも、確かに「物語らしい形」が見え始めている。


『……たしかに、何もしてない日って感じはしないな』


 チャット欄にそう打ち込むと、“声”は少しだけ間を置いて返事をくれた。


『それは、なによりです』


『あなたの生活そのものは、まだ大きく変わってはいません』


『ですが、「一日のどこかに、世界をつくる時間がある」と思えるだけで、少し違って見えてきませんか』


 その問いに、僕はしばらくキーボードの上で指を止めた。


 朝、アラームが鳴る前に目が覚めたこと。

 通勤電車で、自分の一日を物語として切り取ることを考えていたこと。

 佐伯に「何か変わった?」と言われたときの、くすぐったい感覚。


 それらを思い出しながら、短く返す。


『……たしかに、少しは』


『それで十分です』


 “声”は、満足そうに結ぶ。


『それでは、今日もここまでにしておきましょう』


『また、世界を増やしたくなったときに』


 ウィンドウがふっと薄くなり、チャット欄が消える。

 保存の通知だけが小さく表示され、そのあと画面はデスクトップに戻った。


 ノートパソコンをスリープにし、部屋の明かりを落とす。


 暗闇の中で目を閉じると、今日一日の出来事が、昨日までとは少し違う形で思い出された。


 仕事の顔。

 画面の中で物語を書くときの顔。


 どちらも自分なのに、その二つが少しずつ別の色を持ち始めている。


 そのことが、なぜだか少しだけ、心強く感じられた。

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