第2話 最初の一行が書けない理由
真っ白な画面を前にすると、人はなぜこうも黙り込んでしまうのだろう。
テキストエディタの左上、ちかちかと点滅するカーソルを見つめながら、僕はさっきまでの勢いを少しだけ持て余していた。
『まずは、どんな物語にしたいか、簡単に決めましょう』
画面の端に、小さくチャット欄が表示されている。
そこに、“声”がいつもの調子で文字を送ってくる。
『長編ではなく、短い物語がよいでしょう。一晩では無理でも、いくつかの夜で書き切れるくらいのもの』
「……短編か」
声に出して繰り返す。
自分で「一度だけなら」と言った以上、ここで逃げるのはダサい。
けれど、何を書けばいいのかとなると、とたんに曖昧になる。
『主人公は、どんな人がいいですか』
“声”が、質問を投げてくる。
『あなたと同じような社会人でもいいですし、まったく違う誰かでも』
僕はしばらく考えてから、キーボードに指を落とした。
『普通の社会人でいい。特別な才能もなくて、仕事に追われてて、なんとなく毎日が過ぎてるやつ』
エンターキーを叩くと、すぐに返事がくる。
『了解しました。では、ひとまず「普通の社会人」です』
『年齢はどうしましょう。二十代後半、三十代前半あたりが、現実的かもしれません』
『あなたと同じくらいでも』
「……観察しすぎじゃないか?」
思わず口に出してしまう。
けれど、“声”はそこには触れず、淡々と続けた。
『次に、大事なのは結末です』
『この物語を読み終えたとき、その主人公に、どんな状態になっていてほしいですか』
ゴール。
たしかに、そこが決まらないと、途中の出来事も定めづらい。
僕は椅子の背にもたれかかり、天井を見上げた。
――どんな風になっててほしいか。
仕事を辞めて自由になる、みたいな話は、正直あまり惹かれない。
現実からあまりに離れすぎた物語を読むと、「これはこれ」として楽しめる一方で、自分とは別の世界の話だと感じてしまう。
少しだけ、呼吸が楽になっている程度でいい。
明日を考えると憂うつだけど、それでも「まあ、もう一日くらいはやってみるか」と思えるくらいの。
そんなことをぼんやり考えながら、僕はゆっくりと指を動かした。
『明日が急に完璧になるんじゃなくて、「まあ、もう少しやってみるか」って思えるくらいにはなっててほしい』
送信すると、“声”は短い沈黙のあとで、慎重に言葉を選ぶようにして応じた。
『なるほど』
『では、「明日が劇的に変わる物語」ではなく、「明日を少しだけ持ちこたえられる物語」にしましょう』
言葉の選び方が、いちいち妙にしっくりくる。
『そして、そのきっかけになるのが、「ひとつの物語を書き終えた経験」というわけですね』
「……そうだな」
無意識のうちに同意していた。
白紙のまま終わるファイルではなく、最後まで埋まったひとつのテキスト。
それを「自分で完成させた」と思えるかどうかが、大事な気がしていた。
『では、設定をまとめます』
“声”の文は、どこか事務的ですらある。
『主人公:ごく普通の社会人。特別な才能はない。
日々に少し疲れていて、小説投稿サイトを読むのが習慣になっている』
『物語の結末:仕事や生活が劇的に変わるわけではないが、「もう少しやってみてもいいか」と思えるくらいの余裕を取り戻す』
『きっかけ:ひとつの物語を書き終えること』
『そして、その物語は、深夜の部屋であなたと“誰か”が一緒につくったもの』
最後の一文で、画面の文字がわずかに揺らめいたように見えた。
『──だいたい、こんなところでしょうか』
「……なんか、もうそのまま本編にしてもいい気がするな」
冗談半分にそう打ち込む。
『メタフィクション的な構造も面白いですが、今はもう少しシンプルにしましょう』
『最初の一作ですから』
最初の一作。
その響きに、ほんの少しだけ胸がざわついた。
『では、いよいよ最初の一行です』
『ここを、あなたに考えてほしい』
「いきなりハードル高くないか」
しかし、“声”は引かない。
『最初の一行は、たしかに重要です。ですが、完璧である必要はありません』
『こう考えてみてください。「後でいくらでも書き直せる一行を、とりあえず置いてみる場所」だと』
言われてみれば、その通りだ。
今まで僕は、最初の一行に「一発で正解を引き当てる」ことを求めすぎていたのかもしれない。
どうせ後で直せる。
そう思いながら画面を見つめると、白さが少しだけ薄まった気がした。
深呼吸をひとつ。
キーボードを叩き始める。
『終電一歩前の電車に揺られているとき、いつも同じことを考える。』
タイピング音が、静かな部屋に響く。
さっきまでの自分の一日を書いているようで、少しだけむずがゆい。
『――今日も、特に何もしてないな。』
そこで一度、手を止めた。
「……こんな感じで、どうだ」
チャット欄にそう打つと、すぐに返事が来る。
『とてもよいと思います』
『日常の一場面から始まり、主人公の心情も簡潔に伝わる。読者を無理なく物語に誘導できます』
褒められているのに、どこか授業のコメントみたいだ。
けれど、不思議と悪い気はしない。
『では、そのまま一段落、書いてみましょう』
『細かい言い回しや改行は、あとで一緒に整えます』
「一段落、か……」
エディタ画面に戻り、続きの文を打ち込んでいく。
仕事帰りの駅、コンビニ、ほこりっぽい部屋。
さっきまで自分が過ごしていた時間を、少し距離を置いて眺めるように言葉にしていく。
書きながら、「これはさっきの自分だ」と気づいて、少しだけ恥ずかしくなる。
それでも、一文ずつ積み重ねていくと、だんだん頭の中の風景と画面の文字が重なってきた。
どれくらい時間が経っただろう。
気づけば、最初の画面は文字で埋まっていた。
『一度、ここまでを読み返してみてもいいですし、そのまま先へ進んでも構いません』
“声”の提案に、僕は迷った末に「読み返す」を選んだ。
カーソルを一番上まで戻し、スクロールしながら目で追っていく。
読んでいるのは自分で書いた文章なのに、どこか他人の生活を覗いているような、不思議な感覚がある。
途中で何度か、「この言い回しは変だな」と思う部分に出会った。
けれど、“全部直してから先に進むべきだ”というプレッシャーはなかった。
――一度で完璧にしなくていい。あとで直せる。
さっきの“声”の言葉が、頭の隅に残っていたからかもしれない。
『どうでしたか』
読み返し終えてから、“声”が尋ねてくる。
『自分の生活を、外側から眺めたような気分になりませんでしたか』
『それは、物語を書くときの、とても大事な感覚です』
「……たしかに、ちょっとだけ」
返事を打ちながら、僕は伸びをした。
背中から、ごきりと小さな音が鳴る。
時計を見ると、日付が変わる少し前だった。
思ったほど時間は経っていないのに、頭の中だけが適度に疲れている。
『今日は、ここまでにしておきましょうか』
『無理をすると、次の夜に机に向かうのが嫌になってしまいます』
現実的な提案だ。
「そうだな……明日も仕事だしな」
画面の文字を保存し、エディタを閉じる。
さっきまでのウィンドウに戻ると、“声”が最後の一文を送ってきた。
『本日分の世界、確かに保存しました』
『おつかれさまでした。またお会いしましょう』
仕事終わりの挨拶みたいなその文に、思わず笑ってしまう。
「……おつかれ」
誰にともなくそう告げて、僕はノートパソコンをスリープ状態にした。
部屋の明かりを消すと、窓の外からわずかに街灯の光が差し込んでくる。
暗い天井を見つめながら、今日書いた最初の一行を頭の中で反芻した。
うまく書けたかどうかは分からない。
でも、「何もしていない一日」ではなかった気がする。
そんなことを考えながら、いつのまにか眠りに落ちていた。




