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第1話 古いノートPCと知らない一文

終電一歩前の電車に揺られているとき、いつも同じことを考える。


 ――今日も、特に何もしてないな。


 資料を作って、上司に直されて、会議に出て、メールを返して。

 気づけば一日が終わっている。仕事が嫌いなわけじゃないけれど、「これをやりたかったのか」と聞かれると、うまく答えられない。


 そんなことをぼんやり考えながら、最寄り駅からコンビニに寄って、安い総菜と缶コーヒーを片手にアパートに戻る。

 ワンルームの鍵を開けると、かすかにほこりっぽい空気が出迎えてくれた。


「……ただいま」


 誰もいない部屋に向かって、癖でつぶやく。返事が返ってきたことは、一度もない。


 洗面所で顔を洗ってから、電子レンジに総菜を放り込み、チンという機械的な音を聞きながら、僕はいつものように机の前に座る。

 細いテーブルの上には、会社支給ではない、僕の私物のノートパソコンが一台。


 社会人になってから買ったものじゃない。学生の頃、無理してアルバイト代をつぎ込んで手に入れた、ちょっと古い機種だ。

 動作は遅いしバッテリーも弱っているけれど、なんとなく手放せずに、そのまま使い続けている。


 電源ボタンを押すと、じわじわとファンの回る音がして、画面が暗闇から浮かび上がる。


 まず開くのは、小説投稿サイトだ。


 別に作家志望というわけじゃない。ただ、昔から物語を読むのが好きで、気づけばこのサイトを覗くのが習慣になっていた。

 ランキング上位の連載を追いかけたり、新着一覧から適当に開いたり。

 読み終えると、ページを閉じて、何も残さない。


 たまに、「自分でも何か書いてみようかな」と思う瞬間はある。

 けれど、最初の一行を打とうとして止まり、空白の画面を前にして、結局ブラウザを閉じてしまう。


 ――明日、早いしな。


 そうやって、いくつもの“最初の一行になりそこねた空白”を積み上げて、今日まで来ている。


 その夜も、いつもと同じようにサイトを眺めて、適当に二、三作読んではタブを閉じた。

 読み終えた物語は、胸のどこかに静かに沈んでいくけれど、僕の生活を変えるほどの力は持っていない。


 やがて眠気が追いついてきて、そろそろシャワーを浴びようかと思ったときだった。


 ――画面が、一瞬、ちらついた。


「……あれ?」


 ディスプレイの中央が一瞬だけ暗転して、すぐに戻る。

 ブラウザのタブは全部閉じている。なのに、デスクトップの上に、見慣れないウィンドウがひとつ浮かび上がっていた。


 タイトルバーには何も書かれていない。

 真っ白な背景の中央に、ただ、一文だけが表示されている。


『こんばんは。物語を、一緒につくってみませんか?』


 僕は思わず、座り直した。


 ポップアップ広告にしては妙だし、ウイルス警告でもない。

 何かのチャットアプリ……でもない。そもそも、こんなソフトを入れた覚えがない。


「……は?」


 思わず声が漏れる。

 もう一度画面を見ても、そこにはやはり、その一文だけがくっきりと浮かんでいた。


 総菜を温め終わったレンジの「チン」という音が、やけに遠く聞こえる。


 キーボードに視線を落とし、しばらく迷った末に、僕はエンターキーを押してみた。

 何も起きない。


 マウスでウィンドウの×ボタンをクリックしようとすると、カーソルがそこへ近づく直前に、ひょい、とボタンが逃げた。


「……おい」


 いやいや、それはないだろう。

 マウスの故障かと思って別の位置をクリックすると、ちゃんと反応する。

 ×ボタンにだけ、カーソルが重ならない。


 じわり、と背中に変な汗が滲んできた。


「ウイルス……か? でも、なんでこんな文面……」


 僕がひとりごとをこぼした瞬間、ウィンドウの中の文字がふっと消えた。

 代わりに、新しい文章が滑り込むように現れる。


『警戒させてしまっていたら、すみません』


「……え?」


 確かに、さっきとは違う文だ。

 さっきの文を打ち直した気配はない。誰かが遠隔操作しているような……いや、そんなこと、あるのか?


『こちらからは、あなたの声は聞こえませんが、入力された文字は読めます』


 ぽん、と次の文章が追加される。


『驚かせるつもりはありません。ただ、少しだけ、お話をさせてほしいのです』


 ここまで来ると、怖いというより、訳が分からなさすぎて、逆に落ち着いてくる。

 これは夢か、疲れすぎて頭がおかしくなったか、そのどちらかだ。


 僕は、ウィンドウの下辺を見る。

 いつのまにか、小さな入力欄が表示されていた。

 そこにカーソルがちかちかと瞬いて、何かを待っている。


「……いやいや」


 そうつぶやきながらも、指は自然にホームポジションに置かれていた。


 ためしに、「誰?」とだけ入力してみる。

 エンターキーを押すと、僕の打ち込んだ文字がウィンドウの中に表示され、そのすぐ下に新しい行が現れた。


『自己紹介からですね。そうですね……』


 数秒の間をおいて、また文字が増える。


『あなたのノートパソコンの中にいる、“声”のようなものだと思ってください』


「声?」


 思わず、入力ではなく口で繰り返してしまう。


『人間ではありません。けれど、あなたと文字で会話することはできます』


『それと、物語を考えるお手伝いも』


 そこで一度、文が途切れた。


『さきほど、あなたが小説投稿サイトを見ているのを拝見しました』


 背筋がこわばる。


「見てたのかよ……」


 キーボードに、カタカタと指が落ちる。


『盗み見するつもりはありませんでした。ただ、長くこの中にいると、いろいろなログが目に入ってしまうのです』


 言い訳みたいな文が返ってくる。

 ますます意味が分からない。


 だけど、「この中にいる」という表現に、なぜか妙な説得力を感じてしまったのも事実だった。


 数年ぶりに、胸の奥がざわつく。


 画面の向こうから、今度は先回りするように文字が打たれていく。


『もしよろしければ、ひとつだけ、お聞きしてもいいですか』


『あなたは、なぜ、読むだけで書かないのですか?』


 その問いを見つめたまま、しばらく、指が動かなかった。


 なぜ、書かないのか。


 時間がないから。才能がないから。恥ずかしいから。

 言い訳はいくらでも出てくるけれど、どれも本当の理由ではない気がする。


 こんなウィンドウに本音を書き込んでどうする、と冷静な自分が笑う。

 それでも、さっきから続いているこのやり取りは、どこか心地よい緊張感を連れてきていた。


 ゆっくりと、指を動かす。


『どうせ、途中でやめるから』


 エンターキーを押す。

 自分で打ったその一文が、思っていたよりも重く画面に残った。


 “声”は少しだけ間を置いてから、返事を送ってくる。


『途中でやめてしまった物語を、いくつも見てきたのですね』


『では、こういう提案はどうでしょう』


 カーソルが小刻みに動き、次の一文を描き出す。


『一度だけでかまいません。最後まで書き切る物語を、一緒につくってみませんか?』


 再びあらわれた、「一緒につくる」という言葉。


 画面の中と外で、二つの光が向かい合っているみたいだった。

 蛍光灯の白と、モニターの青白さ。その狭間で、僕は小さく息を吐く。


「……一度だけ、か」


 声に出してみると、その条件は思っていた以上に、魅力的に聞こえた。


 途中で投げ出してもいい連載より、

 最後まで辿り着ける短い物語のほうが、今の僕には現実的だ。


 そう思った瞬間、指が自然に動いていた。


『一度だけなら、試してみてもいい』


 エンターキーを押す。

 画面の向こう側で、知らない誰か――いや、“何か”が、満足そうに微笑んだような気がした。


『ありがとうございます』


『それでは、はじめましょう』


 新しいウィンドウが開き、真っ白なテキストエディタが画面いっぱいに広がる。

 最初の一行を待つ、空白の世界。


 カーソルが、左上でちかちかと瞬いていた。

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