第10話 エピローグ:ひとりぶんの感想
投稿してから、三日が過ぎた。
世界は、何事もなかったような顔をして回り続けている。
終電一歩前の電車は、相変わらず混んでいるし、上司の口癖も変わらない。
仕事のメールは減る気配がないし、コンビニの総菜もいつもどおりだ。
――まあ、そりゃそうだよな。
自分の部屋の片隅で、ひとつ世界をこっそり公開したくらいで、社会が変わるはずもない。
それでも、通勤電車の窓に映る自分の顔は、ほんの少しだけ違って見える気がしていた。
「今日も特に何もしてないな」と思う声が、前より小さくなったというか。
◇
日曜の午後、いつものように洗濯機を回して、簡単な昼食を済ませる。
食器を片付け、床に落ちていた書類を積み直して、部屋をひととおり見回す。
最後に残った「やるか、やらないか」の場所に、目を向けた。
机の上、ノートパソコン。
天板に指先を置く。
冷たさは、あの日と変わらない。
――見ないままでもいい。
そんな選択肢が頭をよぎる。
あの投稿ボタンを押した夜から、まだ一度も「結果」を見ていない。
開かなければ、数字も評価も存在しないのと同じだ。
でも、それはさすがに卑怯な気もした。
深呼吸をひとつ。
電源ボタンを押す。
ロゴが消え、デスクトップが現れる。
数秒の間を置いて、白いウィンドウがぽん、と画面に浮かんだ。
『こんにちは』
少しだけ時間帯を意識した挨拶。
「……こんにちは」
声に出してから、チャット欄にも同じ言葉を打ち込む。
『本日は、世界のようすを見に行きますか』
“声”は、余計な前置きもなくそう尋ねてきた。
『……見ないままっていう選択肢は?』
『あります』
即答だった。
『見ないまま、ただ「どこかで誰かが読むかもしれない」と思って過ごすのも、ひとつの楽しみ方です』
『ですが、あなたは今、「見ようかどうか迷っている」段階まで来ています』
『それもまた、ひとつの世界の続きです』
迷っている、か。
たしかに、開かないままでいるには、もういろいろ考えすぎていた。
『……じゃあ、見る』
短く打ち込む。
『ひとりも来てないって結果でも、まあ、それはそれで』
『はい』
“声”は、静かに受け止める。
『では、「雨宮 灯」のほうの画面を、ひとつ開きましょう』
◇
ブラウザが立ち上がる。
ブックマークから、小説投稿サイトの管理ページを開く。
ログイン情報は、もうブラウザが覚えてくれていた。
少しだけ心の準備をしてから、「作品一覧」のページに飛ぶ。
そこに、「夜更けの部屋で、僕とひとりの“声”が世界をつくる」のタイトルがあった。
見慣れたはずの文字列が、少しだけ新しく見える。
視線を右側にずらす。
――PV数:
数字が、そこにあった。
ぜんぶ合わせて、とても自慢できるような数ではない。
ランキング上位の作品から見れば、誤差みたいな桁だろう。
それでも、「0」ではなかった。
何度か瞬きをしてから、もう一度見直す。
見間違いではない。
知らない誰かが、ページを開いた回数。
タイトルを見て、興味を持って、クリックして、そのまま閉じたかもしれない回数。
それでもいい。
少なくとも、「誰にも見られないまま埋もれている世界」ではないと、画面が教えてくれていた。
『……ゼロじゃないな』
チャット欄にそう打ち込むと、“声”から返事が来る。
『はい』
『世界のどこかで、何度か扉が開いたことになります』
「扉」という表現が、妙にしっくりきた。
ページビューという無機質な数字よりも、誰かがほんの数秒だけ足を踏み入れた光景が想像できる。
画面を少しスクロールすると、「評価」や「ブックマーク」の欄が見える。
そこはまだ、ほとんど空白に近い。
『……まあ、そんなもんか』
口ではそう言いながら、どこかほっとしている自分がいた。
「誰にも届いていない」と「届いてはいるかもしれない」のあいだには、思っていた以上に大きな差がある。
◇
そのときだった。
画面の端に、小さなマークが目に入った。
「感想:1」。
数字の横に、見慣れない小さな吹き出しのアイコン。
「……え?」
思わず声が漏れる。
クリックする指先が、わずかに震えた。
感想欄のページが開く。
そこには、短い文章がひとつだけ並んでいた。
> 静かだけど、好きな雰囲気でした。
仕事帰りに読んで、なんかちょっとだけ楽になりました。
たったそれだけの文章。
それでも、胸の奥をじわりと熱いものが満たしていく。
画面の文字が、少しだけ滲んだ。
『……読まれてるな』
キーボードにそう打ち込む。
『はい』
“声”の返事は、それだけだった。
でも、その「はい」の二文字が、やけに重たく感じられた。
『静かだけど、好きな雰囲気、だってさ』
『ええ』
『あなたの物語は、そもそも静かな物語でしたから』
“声”は、淡々と続ける。
『読み手が、その静けさの中に少しのやすさを見つけてくれたようです』
『それは、この世界にとって、とても幸運なことです』
たったひとつの感想。
たった一人の読者。
でも、最初から欲しかったのは、きっとそういう誰かだった。
派手な評価やランキングではなく、
どこかの夜に、見知らぬ誰かの胸のなかで「少し楽になった」と呟いてもらえるくらいの物語。
◇
『返信、する?』
“声”が、珍しくこちらから提案してきた。
『感想を書いてくれた方に、ひとことだけ』
返信欄のテキストボックスが、画面に現れる。
何を書けばいいのか、少し迷う。
凝った言葉を並べる必要はない気がした。
僕は、ゆっくりと指を動かす。
> 読んでくださってありがとうございます。
仕事帰りに読んでいただけたと知って、うれしかったです。
あなたの明日が、少しだけ楽になりますように。
読み返してみると、どこか照れくさい。
それでも、「これ以上でもこれ以下でもない」気がした。
送信ボタンを押す。
画面に自分の文章が並び、それを見て、ようやく大きく息を吐いた。
『……なんか、すげえことした気分だ』
『すごいことですよ』
“声”が、穏やかに断言する。
『あなたは、自分の部屋の片隅からひとつ世界を送り出し』
『その世界を見つけてくれた誰かに、ちゃんと「ありがとう」と言いました』
『それは、どんなに小さくても立派な往復です』
往復。
誰かが世界に足を踏み入れてくれて、
こちらも、その人に向けて一言だけ返すこと。
その短いやりとりが、「ひとつめの世界」にとってのエピローグなのかもしれない。
◇
ノートパソコンを閉じる前に、“声”がもう一度話しかけてきた。
『これで、「夜更けの部屋で、僕とひとりの“声”が世界をつくる」は、本当にひと区切りです』
『世界は完成し、外に出て、誰かひとりに届きました』
『あなたは、それを見届けました』
『……ああ』
自分でも驚くくらい、素直に返事が出た。
『中断しても世界は消えなかったし』
『出してみても、世界は終わらなかったな』
『はい』
“声”は、どこか嬉しそうだった。
『明日もきっと、終電一歩前の電車は走ります』
『上司は同じことを言うでしょうし、仕事の量も急には減りません』
『それでも、この部屋の片隅にひとつ世界があり』
『その世界を好きだと言ってくれた人が、たしかにいる』
『その事実は、もう変わりません』
「変わらないもの」がひとつ増えた気がした。
派手なものではない。
通知の多さでもない。
ただ、自分の中に静かに積み上がっていく重さ。
◇
『また、何か書きたくなったときは』
“声”が、少しだけ問いかけるように言う。
『ひとつめの世界と同じように、ここから始めればかまいません』
『最初の一行を完璧にする必要はありません』
『中断しても、世界は消えません』
『そして、もしかしたらまた、どこかの誰かが静かな夜に読んでくれるかもしれません』
それは、未来への具体的な約束ではなかった。
「必ず次も書け」と言われているわけでもない。
ただ、「またここに戻ってきてもいい」と言われているだけだ。
『……そのときは、また頼む』
僕は、笑いながら打ち込む。
『ひとつめの世界の“声”担当として』
『喜んで』
短い返事。
それだけで、十分だった。
◇
ノートパソコンをスリープにし、部屋の明かりを落とす。
窓の外には、いつもの街灯。
遠くを走る車の音。
ベッドに横になりながら、ふと天井を見上げる。
――最初の読者は、たぶん僕だ。
――二人目は、さっき感想を書いてくれた誰か。
その順番を思い浮かべて、少しだけ笑った。
明日もきっと、仕事はある。
電車も混んでいるだろうし、書類は山積みだ。
それでも、「世界をひとつ作って、誰かひとりに届いた自分」がどこかにいる。
その事実を、胸の内側でそっと撫でながら、目を閉じた。
夜更けの部屋のどこかで、
画面の向こうの世界は、静かな光を保ち続けている。
いつかまた、別の「声」と一緒に、新しい世界をつくりたくなったとき。
その入口が、いつでもここにあることを知りながら。




