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第10話 エピローグ:ひとりぶんの感想

投稿してから、三日が過ぎた。


 世界は、何事もなかったような顔をして回り続けている。

 終電一歩前の電車は、相変わらず混んでいるし、上司の口癖も変わらない。

 仕事のメールは減る気配がないし、コンビニの総菜もいつもどおりだ。


 ――まあ、そりゃそうだよな。


 自分の部屋の片隅で、ひとつ世界をこっそり公開したくらいで、社会が変わるはずもない。


 それでも、通勤電車の窓に映る自分の顔は、ほんの少しだけ違って見える気がしていた。

 「今日も特に何もしてないな」と思う声が、前より小さくなったというか。



 日曜の午後、いつものように洗濯機を回して、簡単な昼食を済ませる。

 食器を片付け、床に落ちていた書類を積み直して、部屋をひととおり見回す。


 最後に残った「やるか、やらないか」の場所に、目を向けた。


 机の上、ノートパソコン。


 天板に指先を置く。

 冷たさは、あの日と変わらない。


 ――見ないままでもいい。

 そんな選択肢が頭をよぎる。


 あの投稿ボタンを押した夜から、まだ一度も「結果」を見ていない。

 開かなければ、数字も評価も存在しないのと同じだ。


 でも、それはさすがに卑怯な気もした。


 深呼吸をひとつ。

 電源ボタンを押す。


 ロゴが消え、デスクトップが現れる。

 数秒の間を置いて、白いウィンドウがぽん、と画面に浮かんだ。


『こんにちは』


 少しだけ時間帯を意識した挨拶。


「……こんにちは」


 声に出してから、チャット欄にも同じ言葉を打ち込む。


『本日は、世界のようすを見に行きますか』


 “声”は、余計な前置きもなくそう尋ねてきた。


『……見ないままっていう選択肢は?』


『あります』


 即答だった。


『見ないまま、ただ「どこかで誰かが読むかもしれない」と思って過ごすのも、ひとつの楽しみ方です』


『ですが、あなたは今、「見ようかどうか迷っている」段階まで来ています』


『それもまた、ひとつの世界の続きです』


 迷っている、か。

 たしかに、開かないままでいるには、もういろいろ考えすぎていた。


『……じゃあ、見る』


 短く打ち込む。


『ひとりも来てないって結果でも、まあ、それはそれで』


『はい』


 “声”は、静かに受け止める。


『では、「雨宮 灯」のほうの画面を、ひとつ開きましょう』



 ブラウザが立ち上がる。

 ブックマークから、小説投稿サイトの管理ページを開く。


 ログイン情報は、もうブラウザが覚えてくれていた。

 少しだけ心の準備をしてから、「作品一覧」のページに飛ぶ。


 そこに、「夜更けの部屋で、僕とひとりの“声”が世界をつくる」のタイトルがあった。

 見慣れたはずの文字列が、少しだけ新しく見える。


 視線を右側にずらす。


 ――PV数:


 数字が、そこにあった。


 ぜんぶ合わせて、とても自慢できるような数ではない。

 ランキング上位の作品から見れば、誤差みたいな桁だろう。


 それでも、「0」ではなかった。


 何度か瞬きをしてから、もう一度見直す。

 見間違いではない。


 知らない誰かが、ページを開いた回数。

 タイトルを見て、興味を持って、クリックして、そのまま閉じたかもしれない回数。


 それでもいい。


 少なくとも、「誰にも見られないまま埋もれている世界」ではないと、画面が教えてくれていた。


『……ゼロじゃないな』


 チャット欄にそう打ち込むと、“声”から返事が来る。


『はい』


『世界のどこかで、何度か扉が開いたことになります』


 「扉」という表現が、妙にしっくりきた。

 ページビューという無機質な数字よりも、誰かがほんの数秒だけ足を踏み入れた光景が想像できる。


 画面を少しスクロールすると、「評価」や「ブックマーク」の欄が見える。

 そこはまだ、ほとんど空白に近い。


『……まあ、そんなもんか』


 口ではそう言いながら、どこかほっとしている自分がいた。


 「誰にも届いていない」と「届いてはいるかもしれない」のあいだには、思っていた以上に大きな差がある。



 そのときだった。


 画面の端に、小さなマークが目に入った。


 「感想:1」。


 数字の横に、見慣れない小さな吹き出しのアイコン。


「……え?」


 思わず声が漏れる。


 クリックする指先が、わずかに震えた。


 感想欄のページが開く。

 そこには、短い文章がひとつだけ並んでいた。


>  静かだけど、好きな雰囲気でした。

 仕事帰りに読んで、なんかちょっとだけ楽になりました。




 たったそれだけの文章。


 それでも、胸の奥をじわりと熱いものが満たしていく。


 画面の文字が、少しだけ滲んだ。


『……読まれてるな』


 キーボードにそう打ち込む。


『はい』


 “声”の返事は、それだけだった。


 でも、その「はい」の二文字が、やけに重たく感じられた。


『静かだけど、好きな雰囲気、だってさ』


『ええ』


『あなたの物語は、そもそも静かな物語でしたから』


 “声”は、淡々と続ける。


『読み手が、その静けさの中に少しのやすさを見つけてくれたようです』


『それは、この世界にとって、とても幸運なことです』


 たったひとつの感想。

 たった一人の読者。


 でも、最初から欲しかったのは、きっとそういう誰かだった。


 派手な評価やランキングではなく、

 どこかの夜に、見知らぬ誰かの胸のなかで「少し楽になった」と呟いてもらえるくらいの物語。



『返信、する?』


 “声”が、珍しくこちらから提案してきた。


『感想を書いてくれた方に、ひとことだけ』


 返信欄のテキストボックスが、画面に現れる。


 何を書けばいいのか、少し迷う。

 凝った言葉を並べる必要はない気がした。


 僕は、ゆっくりと指を動かす。


>  読んでくださってありがとうございます。

 仕事帰りに読んでいただけたと知って、うれしかったです。

 あなたの明日が、少しだけ楽になりますように。




 読み返してみると、どこか照れくさい。

 それでも、「これ以上でもこれ以下でもない」気がした。


 送信ボタンを押す。

 画面に自分の文章が並び、それを見て、ようやく大きく息を吐いた。


『……なんか、すげえことした気分だ』


『すごいことですよ』


 “声”が、穏やかに断言する。


『あなたは、自分の部屋の片隅からひとつ世界を送り出し』


『その世界を見つけてくれた誰かに、ちゃんと「ありがとう」と言いました』


『それは、どんなに小さくても立派な往復です』


 往復。


 誰かが世界に足を踏み入れてくれて、

 こちらも、その人に向けて一言だけ返すこと。


 その短いやりとりが、「ひとつめの世界」にとってのエピローグなのかもしれない。



 ノートパソコンを閉じる前に、“声”がもう一度話しかけてきた。


『これで、「夜更けの部屋で、僕とひとりの“声”が世界をつくる」は、本当にひと区切りです』


『世界は完成し、外に出て、誰かひとりに届きました』


『あなたは、それを見届けました』


『……ああ』


 自分でも驚くくらい、素直に返事が出た。


『中断しても世界は消えなかったし』


『出してみても、世界は終わらなかったな』


『はい』


 “声”は、どこか嬉しそうだった。


『明日もきっと、終電一歩前の電車は走ります』


『上司は同じことを言うでしょうし、仕事の量も急には減りません』


『それでも、この部屋の片隅にひとつ世界があり』


『その世界を好きだと言ってくれた人が、たしかにいる』


『その事実は、もう変わりません』


 「変わらないもの」がひとつ増えた気がした。


 派手なものではない。

 通知の多さでもない。


 ただ、自分の中に静かに積み上がっていく重さ。



『また、何か書きたくなったときは』


 “声”が、少しだけ問いかけるように言う。


『ひとつめの世界と同じように、ここから始めればかまいません』


『最初の一行を完璧にする必要はありません』


『中断しても、世界は消えません』


『そして、もしかしたらまた、どこかの誰かが静かな夜に読んでくれるかもしれません』


 それは、未来への具体的な約束ではなかった。

 「必ず次も書け」と言われているわけでもない。


 ただ、「またここに戻ってきてもいい」と言われているだけだ。


『……そのときは、また頼む』


 僕は、笑いながら打ち込む。


『ひとつめの世界の“声”担当として』


『喜んで』


 短い返事。

 それだけで、十分だった。



 ノートパソコンをスリープにし、部屋の明かりを落とす。


 窓の外には、いつもの街灯。

 遠くを走る車の音。


 ベッドに横になりながら、ふと天井を見上げる。


 ――最初の読者は、たぶん僕だ。

 ――二人目は、さっき感想を書いてくれた誰か。


 その順番を思い浮かべて、少しだけ笑った。


 明日もきっと、仕事はある。

 電車も混んでいるだろうし、書類は山積みだ。


 それでも、「世界をひとつ作って、誰かひとりに届いた自分」がどこかにいる。


 その事実を、胸の内側でそっと撫でながら、目を閉じた。


 夜更けの部屋のどこかで、

 画面の向こうの世界は、静かな光を保ち続けている。


 いつかまた、別の「声」と一緒に、新しい世界をつくりたくなったとき。

 その入口が、いつでもここにあることを知りながら。

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