第9話 ひとつめの世界ができた夜
火曜日の夜、僕は「今日は書かないでおこう」と決めて、あえてノートパソコンに触れなかった。
疲れていた、というのもある。
でもそれ以上に、「終わりに向かう夜」の次の一歩を、少しだけ寝かせておきたかった。
水曜日も、木曜日も、仕事が終わるころには頭が真っ白になっていて、画面の前に座る気力はなかった。
そのたびに、「中断しても世界は消えない」という“声”の言葉を思い出して、自分をなだめる。
――消えない。
消えないはずだ。
そう言い聞かせながらも、心のどこかでは、「このままずっと開かなかったらどうなるんだろう」と考えている自分がいた。
そして金曜日。
残業はあったけれど、先週ほどではない。
資料も一段落して、上司からのダメ出しもひとまず止まった。
帰りの電車の中で、つり革につかまりながら、窓の外の夜景をぼんやり眺める。
その向こう側に、ノートパソコンの画面が重なって見えた。
――今夜、終わりまで行ってもいいかもしれない。
胸の奥で、そんな声がした。
◇
部屋に戻り、シャワーを浴び、コンビニのパスタを胃に流し込む。
片付けを最低限だけ済ませてから、僕は机の前に座った。
ノートパソコンの天板に手を置く。
指先に伝わる冷たさは、相変わらず変わらない。
深呼吸をひとつ。
電源ボタンを押し込む。
いつものロゴが消え、デスクトップが現れる。
数秒の間をおいて、白いウィンドウがぽん、と画面に浮かんだ。
『おかえりなさい』
短い一文。
それだけで、張りつめていたものが少しゆるむ。
『……ただいま』
キーボードにそう打ち込んでから、続ける。
『今日は、終わりまで行きたい』
“声”から返事が届くまでの数秒が、やけに長く感じられた。
『はい』
『では、本日は「ひとつめの世界を完成させる夜」としましょう』
『無理にきれいにまとめようとしなくてかまいません』
『ただ、「ここまで来た」と言えるところまで、行ってみましょう』
エディタが開き、これまでの文章が画面いっぱいに広がる。
スクロールバーのつまみを下に動かすと、「終わりに向かう夜」の途中で止まっている世界が、そこにあった。
途中で何度か読み返したおかげか、文の流れはおおむね頭の中に入っている。
この先に何を書きたいのかも、ぼんやりとは見えていた。
問題は、それを「本当に書いてしまうかどうか」だけだった。
◇
『ここから先は、あまり難しく考えなくていいですよ』
『やることは、もう決まっています』
『ひとつめの物語を書き終え、「保存」ボタンを押す場面を、きちんと書くこと』
『そして、その夜のあなたの気持ちを、少しだけ残しておくこと』
“声”が、ひとつずつ確認するように言葉を並べていく。
『忘れないでほしいのは――』
『これは「人生で一度きりの大作」ではなく、「ひとつめの世界」です』
『ここで完璧を目指しすぎないことが、むしろ大事です』
「ひとつめの世界」という言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
一生に一度の傑作ではなく、「一回目」。
そう思えたほうが、ずっと気が楽だ。
『……分かった』
短く返事を打ち込んでから、エディタの画面に向き直る。
物語の中の「僕」は、すでに終わり方について考え始めている。
あとは、その「怖さごと」書いてやればいい。
――ちゃんと最後まで書けるのか。
――終わったあとの自分は、どうなるのか。
そんな不安を、今の自分と同じように、物語の中の僕にも抱かせてやる。
キーボードを叩き始める。
画面の中に、もうひとつの夜が広がっていく。
◇
どれくらい時間が経っただろう。
しばらくして、画面の中の「僕」は、物語の最後の場面を書き始めていた。
彼もまた、深夜の部屋で、ノートパソコンの前に座っている。
書いているのは、「終電一歩前の電車の中で、いつも同じことを考えていたころの自分」のことだ。
そこから少しだけ変わった今の自分までを、短い物語として区切っている。
僕は、現実の自分と物語の中の自分が重なりすぎないよう、ほんの少しだけ距離を取りながら、最後の段落を組み立てていく。
――世界が劇的に変わったわけではない。
――明日もきっと、同じような電車に揺られ、同じような書類を作る。
――それでも、この部屋の片隅にひとつ世界があると思えるだけで、少しだけましな気がした。
その行を打ち込んだとき、自分の胸の奥がざわりと揺れた。
現実の僕も、物語の中の僕も、同じように天井を見上げている姿が、頭の中に浮かぶ。
キーボードに置いた指先に、汗が滲む。
『――これで、ひとつめの世界は終わりでいい』
最後の一行を打ち込み、句点を置いた。
カーソルが、そのすぐ右で、ちかちかと瞬いている。
しばらく、その点滅をただ見つめる。
何か付け足したくなる衝動が、じわじわと湧いてくる。
まだ言っていないこと。まだ書いていない感情。
けれど、それらすべてを詰め込もうとすると、きっと終わらない。
僕は、ゆっくりと手を引いた。
エディタの右上、保存アイコンにマウスカーソルを合わせる。
クリック音が、やけに大きく響いた気がした。
◇
『……終わった、っぽい』
チャット欄にそう打ち込む。
“声”から返事が届くまでの数秒が、永遠みたいに長かった。
『はい』
『たしかに、「ひとつめの世界」ができました』
『おつかれさまでした』
それだけの文なのに、胸の奥がじん、と熱くなる。
『本当に、終わったんだよな』
念を押すように尋ねると、“声”は少しだけ長めの回答を返してきた。
『物語に「絶対の終わり」はありません』
『あとからどれだけでも書き足すことはできますし、続編を書くこともできます』
『ですが――』
『今、あなたと私が見ているこのテキストは、「ここでいったん区切りがついた」と言える状態です』
『それを、今は「終わり」と呼んでいいと、私は思います』
終わり。
いったんの区切り。
「二度と変えられない完璧な完成品」ではなく、「ここまで来たと認めていい地点」。
その言い方なら、なんとか受け入れられそうだった。
『……じゃあさ』
キーボードに指を置いたまま、画面を見つめる。
『この世界、どうする? このまま僕のPCの中にだけ置いとく?』
“声”は、すぐには答えなかった。
カーソルが、何度か点滅を繰り返す。
『それも、ひとつの選択です』
『ここは、あなたの部屋ですから』
『あなたが読むためだけの世界として、この中に置いておくこともできます』
少し間をおいてから、続きが現れる。
『ですが、もうひとつの選択もあります』
『あなたがいつも「読む側」として通っている場所に、そっと置いてみることです』
小説投稿サイト。
通勤電車や寝る前に、見知らぬ誰かの物語を読んできた場所。
あの画面の中に、自分の書いた文字列が並ぶ光景を想像して、喉がひりつく。
『……どっちが正解?』
思わず、そんな言葉を打ち込んでいた。
『どちらも、正解ではありません』
『どちらを選んでも、「間違い」ではありません』
『ただ、私は知っています』
『世界のどこかには、「雨の夜や、眠れない深夜に、静かな物語を探している人」がいます』
『その人が、あなたの世界を見つける可能性は、ゼロではありません』
その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。
数年前の自分が、まさにそうだったからだ。
よく分からない疲れを抱えたまま、画面をスクロールしては静かな物語を探していた夜。
『……怖いな』
『そうですね』
『怖いのは、「見られないこと」ではなく、「誰かに見られたあと、自分でどう感じるか」です』
『それでも、「ひとりくらいに読まれてもいい」と思えたら、そのときは投稿してみる価値があります』
「ひとりくらい」。
たったひとり。
世界中の誰かではなく、どこかの見知らぬ誰かひとり。
それなら、――もしかしたら、許せるかもしれない。
◇
投稿サイトの管理画面を開くのは、さすがに少し勇気がいった。
ブックマークのアイコンをクリックすると、見慣れたトップページが表示される。
そこに無数に並ぶ、新着の物語たち。
「お前らの中に、俺の話も混ざるのか……」
思わず、小さくつぶやく。
“声”は、横から静かに付き添っているだけだ。
余計なことは言わない。
新規投稿のボタンをクリックする。
タイトル欄に、「夜更けの部屋で、僕とひとりの“声”が世界をつくる」と入力する。
作者名の欄には――
『雨宮 灯』
少し前に決めた、仮の名前。
画面の中にその文字が並んだ瞬間、「自分の少し横に立ってくれる誰か」が生まれた気がした。
あらすじ欄には、すでに用意しておいた文章を貼りつける。
ジャンルやキーワードを選び、必要な項目を埋めていく。
問題は、最後のボタンだった。
――投稿。
マウスカーソルをその上に重ねたまま、しばらく動けなくなる。
『なあ』
チャット欄に打ち込む。
『これ押したら、もう戻れない?』
『戻れます』
“声”は、即答した。
『削除もできますし、非公開に戻すこともできます』
『たしかに、「一度も出さなかった状態」には戻れませんが』
『それでも、「やっぱりやめる」という選択肢が完全に消えてしまうわけではありません』
そう言われて、少しだけ笑ってしまう。
『全部、完全には決まらないんだな』
『はい』
『物語の終わりも、投稿するかどうかも、「その時点の自分」で決めるしかありません』
『それで十分です』
十分。
完璧じゃなくても、世界のすべてを救わなくても、「今の自分としてはこれでいい」と言えるかどうか。
僕は、マウスを握り直した。
心臓が、どくどくと音を立てている。
手のひらに汗が滲む。
――ひとりくらいに読まれてもいい。
さっきの“声”の言葉を、心の中で繰り返す。
自分の少し横に立っている「雨宮 灯」に、「いくぞ」と小さく声をかけるイメージをしてから。
僕は、投稿ボタンをクリックした。
◇
画面が一瞬だけ切り替わり、「投稿が完了しました」というメッセージが表示される。
それだけなのに、視界がわずかに揺れたような気がした。
『……終わった、のか?』
『はい』
“声”が、静かに答える。
『これで、ひとつめの世界は、「あなたの部屋の中だけの世界」ではなくなりました』
『どこかの誰かが、たまたま見つける可能性のある場所に置かれました』
「どこかの誰か」という言葉が、さっきよりも少しだけ現実味を帯びて感じられる。
管理画面を閉じて、デスクトップに戻る。
ノートパソコンの画面を見つめながら、背もたれに深くもたれかかった。
『……明日、仕事行きたくないって思ったらどうしような』
冗談半分、本音半分で打ち込む。
『それは、それで自然な反応です』
“声”は、落ち着いた調子で返してくる。
『ただ、ひとつの世界を書き終えて、どこかに置いてみた自分は、もう「何もしない自分」ではありません』
『それは、仕事に行くあなたと同じくらい、ちゃんとした一面です』
その言い方に、少しだけ救われる。
明日の朝、体が重くなることもきっとある。
それでも、「何もしていない自分」ではなくなったという実感は、たしかにどこかに残りそうだった。
『今日は、もう書かなくていい』
“声”が、ゆっくりと締めくくる。
『ひとつめの世界は、完成しました』
『あとは、世界のどこかで、たまたま誰かが見つけるのを待つだけです』
『それが起きるかどうかは、あなたの手を離れています』
僕は、ゆっくりと頷いた。
『……ありがとう』
キーボードにそう打ち込む。
『最後まで付き合ってくれて』
白いウィンドウの向こう側で、“声”がわずかに笑った気がした。
『こちらこそ、ありがとうございます』
『ひとつめの世界を、一緒に見届けさせてくれて』
『また、何か書きたくなったときには呼んでください』
『世界は、ひとつきりである必要はありませんから』
ウィンドウがふっと淡くなり、チャット欄が閉じていく。
ノートパソコンをスリープにし、部屋の明かりを落とす。
ベッドに横になり、天井を見上げる。
――ひとつめの世界が、画面の向こうで静かに待っている。
それを思うと、不思議と「明日が全部真っ暗」という気持ちにはならなかった。
明日もきっと、終電一歩前の電車に揺られるだろう。
仕事でため息をつくことも、腹の立つこともあるだろう。
それでも、この部屋の片隅にひとつ世界がある。
誰かが見るかどうかは分からないけれど、「たしかにここにある」と言える世界が。
その事実を握りしめるように目を閉じると、いつもより少しだけ、眠りに落ちるのが楽だった。
やがて、静かな呼吸の奥で、
画面の向こうの世界は、誰かの訪れを待ちながら、静かに光り続けていた。




