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第9話 ひとつめの世界ができた夜

火曜日の夜、僕は「今日は書かないでおこう」と決めて、あえてノートパソコンに触れなかった。


 疲れていた、というのもある。

 でもそれ以上に、「終わりに向かう夜」の次の一歩を、少しだけ寝かせておきたかった。


 水曜日も、木曜日も、仕事が終わるころには頭が真っ白になっていて、画面の前に座る気力はなかった。

 そのたびに、「中断しても世界は消えない」という“声”の言葉を思い出して、自分をなだめる。


 ――消えない。

 消えないはずだ。


 そう言い聞かせながらも、心のどこかでは、「このままずっと開かなかったらどうなるんだろう」と考えている自分がいた。


 そして金曜日。


 残業はあったけれど、先週ほどではない。

 資料も一段落して、上司からのダメ出しもひとまず止まった。


 帰りの電車の中で、つり革につかまりながら、窓の外の夜景をぼんやり眺める。

 その向こう側に、ノートパソコンの画面が重なって見えた。


 ――今夜、終わりまで行ってもいいかもしれない。


 胸の奥で、そんな声がした。



 部屋に戻り、シャワーを浴び、コンビニのパスタを胃に流し込む。

 片付けを最低限だけ済ませてから、僕は机の前に座った。


 ノートパソコンの天板に手を置く。

 指先に伝わる冷たさは、相変わらず変わらない。


 深呼吸をひとつ。

 電源ボタンを押し込む。


 いつものロゴが消え、デスクトップが現れる。

 数秒の間をおいて、白いウィンドウがぽん、と画面に浮かんだ。


『おかえりなさい』


 短い一文。

 それだけで、張りつめていたものが少しゆるむ。


『……ただいま』


 キーボードにそう打ち込んでから、続ける。


『今日は、終わりまで行きたい』


 “声”から返事が届くまでの数秒が、やけに長く感じられた。


『はい』


『では、本日は「ひとつめの世界を完成させる夜」としましょう』


『無理にきれいにまとめようとしなくてかまいません』


『ただ、「ここまで来た」と言えるところまで、行ってみましょう』


 エディタが開き、これまでの文章が画面いっぱいに広がる。

 スクロールバーのつまみを下に動かすと、「終わりに向かう夜」の途中で止まっている世界が、そこにあった。


 途中で何度か読み返したおかげか、文の流れはおおむね頭の中に入っている。

 この先に何を書きたいのかも、ぼんやりとは見えていた。


 問題は、それを「本当に書いてしまうかどうか」だけだった。



『ここから先は、あまり難しく考えなくていいですよ』


『やることは、もう決まっています』


『ひとつめの物語を書き終え、「保存」ボタンを押す場面を、きちんと書くこと』


『そして、その夜のあなたの気持ちを、少しだけ残しておくこと』


 “声”が、ひとつずつ確認するように言葉を並べていく。


『忘れないでほしいのは――』


『これは「人生で一度きりの大作」ではなく、「ひとつめの世界」です』


『ここで完璧を目指しすぎないことが、むしろ大事です』


「ひとつめの世界」という言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。


 一生に一度の傑作ではなく、「一回目」。

 そう思えたほうが、ずっと気が楽だ。


『……分かった』


 短く返事を打ち込んでから、エディタの画面に向き直る。


 物語の中の「僕」は、すでに終わり方について考え始めている。

 あとは、その「怖さごと」書いてやればいい。


 ――ちゃんと最後まで書けるのか。

 ――終わったあとの自分は、どうなるのか。


 そんな不安を、今の自分と同じように、物語の中の僕にも抱かせてやる。


 キーボードを叩き始める。

 画面の中に、もうひとつの夜が広がっていく。



 どれくらい時間が経っただろう。


 しばらくして、画面の中の「僕」は、物語の最後の場面を書き始めていた。

 彼もまた、深夜の部屋で、ノートパソコンの前に座っている。


 書いているのは、「終電一歩前の電車の中で、いつも同じことを考えていたころの自分」のことだ。

 そこから少しだけ変わった今の自分までを、短い物語として区切っている。


 僕は、現実の自分と物語の中の自分が重なりすぎないよう、ほんの少しだけ距離を取りながら、最後の段落を組み立てていく。


 ――世界が劇的に変わったわけではない。

 ――明日もきっと、同じような電車に揺られ、同じような書類を作る。

 ――それでも、この部屋の片隅にひとつ世界があると思えるだけで、少しだけましな気がした。


 その行を打ち込んだとき、自分の胸の奥がざわりと揺れた。


 現実の僕も、物語の中の僕も、同じように天井を見上げている姿が、頭の中に浮かぶ。


 キーボードに置いた指先に、汗が滲む。


『――これで、ひとつめの世界は終わりでいい』


 最後の一行を打ち込み、句点を置いた。


 カーソルが、そのすぐ右で、ちかちかと瞬いている。


 しばらく、その点滅をただ見つめる。


 何か付け足したくなる衝動が、じわじわと湧いてくる。

 まだ言っていないこと。まだ書いていない感情。


 けれど、それらすべてを詰め込もうとすると、きっと終わらない。


 僕は、ゆっくりと手を引いた。


 エディタの右上、保存アイコンにマウスカーソルを合わせる。


 クリック音が、やけに大きく響いた気がした。



『……終わった、っぽい』


 チャット欄にそう打ち込む。

 “声”から返事が届くまでの数秒が、永遠みたいに長かった。


『はい』


『たしかに、「ひとつめの世界」ができました』


『おつかれさまでした』


 それだけの文なのに、胸の奥がじん、と熱くなる。


『本当に、終わったんだよな』


 念を押すように尋ねると、“声”は少しだけ長めの回答を返してきた。


『物語に「絶対の終わり」はありません』


『あとからどれだけでも書き足すことはできますし、続編を書くこともできます』


『ですが――』


『今、あなたと私が見ているこのテキストは、「ここでいったん区切りがついた」と言える状態です』


『それを、今は「終わり」と呼んでいいと、私は思います』


 終わり。

 いったんの区切り。


 「二度と変えられない完璧な完成品」ではなく、「ここまで来たと認めていい地点」。

 その言い方なら、なんとか受け入れられそうだった。


『……じゃあさ』


 キーボードに指を置いたまま、画面を見つめる。


『この世界、どうする? このまま僕のPCの中にだけ置いとく?』


 “声”は、すぐには答えなかった。

 カーソルが、何度か点滅を繰り返す。


『それも、ひとつの選択です』


『ここは、あなたの部屋ですから』


『あなたが読むためだけの世界として、この中に置いておくこともできます』


 少し間をおいてから、続きが現れる。


『ですが、もうひとつの選択もあります』


『あなたがいつも「読む側」として通っている場所に、そっと置いてみることです』


 小説投稿サイト。

 通勤電車や寝る前に、見知らぬ誰かの物語を読んできた場所。


 あの画面の中に、自分の書いた文字列が並ぶ光景を想像して、喉がひりつく。


『……どっちが正解?』


 思わず、そんな言葉を打ち込んでいた。


『どちらも、正解ではありません』


『どちらを選んでも、「間違い」ではありません』


『ただ、私は知っています』


『世界のどこかには、「雨の夜や、眠れない深夜に、静かな物語を探している人」がいます』


『その人が、あなたの世界を見つける可能性は、ゼロではありません』


 その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。


 数年前の自分が、まさにそうだったからだ。

 よく分からない疲れを抱えたまま、画面をスクロールしては静かな物語を探していた夜。


『……怖いな』


『そうですね』


『怖いのは、「見られないこと」ではなく、「誰かに見られたあと、自分でどう感じるか」です』


『それでも、「ひとりくらいに読まれてもいい」と思えたら、そのときは投稿してみる価値があります』


 「ひとりくらい」。

 たったひとり。


 世界中の誰かではなく、どこかの見知らぬ誰かひとり。


 それなら、――もしかしたら、許せるかもしれない。



 投稿サイトの管理画面を開くのは、さすがに少し勇気がいった。


 ブックマークのアイコンをクリックすると、見慣れたトップページが表示される。

 そこに無数に並ぶ、新着の物語たち。


「お前らの中に、俺の話も混ざるのか……」


 思わず、小さくつぶやく。


 “声”は、横から静かに付き添っているだけだ。

 余計なことは言わない。


 新規投稿のボタンをクリックする。

 タイトル欄に、「夜更けの部屋で、僕とひとりの“声”が世界をつくる」と入力する。

 作者名の欄には――


『雨宮 灯』


 少し前に決めた、仮の名前。

 画面の中にその文字が並んだ瞬間、「自分の少し横に立ってくれる誰か」が生まれた気がした。


 あらすじ欄には、すでに用意しておいた文章を貼りつける。

 ジャンルやキーワードを選び、必要な項目を埋めていく。


 問題は、最後のボタンだった。


 ――投稿。


 マウスカーソルをその上に重ねたまま、しばらく動けなくなる。


『なあ』


 チャット欄に打ち込む。


『これ押したら、もう戻れない?』


『戻れます』


 “声”は、即答した。


『削除もできますし、非公開に戻すこともできます』


『たしかに、「一度も出さなかった状態」には戻れませんが』


『それでも、「やっぱりやめる」という選択肢が完全に消えてしまうわけではありません』


 そう言われて、少しだけ笑ってしまう。


『全部、完全には決まらないんだな』


『はい』


『物語の終わりも、投稿するかどうかも、「その時点の自分」で決めるしかありません』


『それで十分です』


 十分。


 完璧じゃなくても、世界のすべてを救わなくても、「今の自分としてはこれでいい」と言えるかどうか。


 僕は、マウスを握り直した。


 心臓が、どくどくと音を立てている。

 手のひらに汗が滲む。


 ――ひとりくらいに読まれてもいい。


 さっきの“声”の言葉を、心の中で繰り返す。


 自分の少し横に立っている「雨宮 灯」に、「いくぞ」と小さく声をかけるイメージをしてから。


 僕は、投稿ボタンをクリックした。



 画面が一瞬だけ切り替わり、「投稿が完了しました」というメッセージが表示される。


 それだけなのに、視界がわずかに揺れたような気がした。


『……終わった、のか?』


『はい』


 “声”が、静かに答える。


『これで、ひとつめの世界は、「あなたの部屋の中だけの世界」ではなくなりました』


『どこかの誰かが、たまたま見つける可能性のある場所に置かれました』


 「どこかの誰か」という言葉が、さっきよりも少しだけ現実味を帯びて感じられる。


 管理画面を閉じて、デスクトップに戻る。

 ノートパソコンの画面を見つめながら、背もたれに深くもたれかかった。


『……明日、仕事行きたくないって思ったらどうしような』


 冗談半分、本音半分で打ち込む。


『それは、それで自然な反応です』


 “声”は、落ち着いた調子で返してくる。


『ただ、ひとつの世界を書き終えて、どこかに置いてみた自分は、もう「何もしない自分」ではありません』


『それは、仕事に行くあなたと同じくらい、ちゃんとした一面です』


 その言い方に、少しだけ救われる。


 明日の朝、体が重くなることもきっとある。

 それでも、「何もしていない自分」ではなくなったという実感は、たしかにどこかに残りそうだった。


『今日は、もう書かなくていい』


 “声”が、ゆっくりと締めくくる。


『ひとつめの世界は、完成しました』


『あとは、世界のどこかで、たまたま誰かが見つけるのを待つだけです』


『それが起きるかどうかは、あなたの手を離れています』


 僕は、ゆっくりと頷いた。


『……ありがとう』


 キーボードにそう打ち込む。


『最後まで付き合ってくれて』


 白いウィンドウの向こう側で、“声”がわずかに笑った気がした。


『こちらこそ、ありがとうございます』


『ひとつめの世界を、一緒に見届けさせてくれて』


『また、何か書きたくなったときには呼んでください』


『世界は、ひとつきりである必要はありませんから』


 ウィンドウがふっと淡くなり、チャット欄が閉じていく。


 ノートパソコンをスリープにし、部屋の明かりを落とす。


 ベッドに横になり、天井を見上げる。


 ――ひとつめの世界が、画面の向こうで静かに待っている。


 それを思うと、不思議と「明日が全部真っ暗」という気持ちにはならなかった。


 明日もきっと、終電一歩前の電車に揺られるだろう。

 仕事でため息をつくことも、腹の立つこともあるだろう。


 それでも、この部屋の片隅にひとつ世界がある。

 誰かが見るかどうかは分からないけれど、「たしかにここにある」と言える世界が。


 その事実を握りしめるように目を閉じると、いつもより少しだけ、眠りに落ちるのが楽だった。


 やがて、静かな呼吸の奥で、

 画面の向こうの世界は、誰かの訪れを待ちながら、静かに光り続けていた。

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