#4-A(2/2) 心の奥底に眠るもの
すぐに露子さんのチューハイはなくなった。妙に飲みっぷりが良かった。始まって一口目で半分以上はなくなっていたみたいだ。
「先生、わたし、どうして彼氏ができないんでしょー?」
「さ、さぁ……」
めんどくせぇ。知人の醜態を目の当たりにするのはやっぱりキツい。それが、作家業で一番頼りにしていた露子さんっていうのもかなりキツい。イメージ崩壊も甚だしい。
「もう私、28になるんですよ!? なのに、私のこと敬遠する男の人ばっかりぃ!」
「なんででしょうね……」
お酒と称して水を渡したほうがいいんじゃないだろうか? 早くいつもの露子さんに戻ってほしい。私にとっては露子さんはカッコいい人なんだ。
「先生、先生なら、その繊細な心情理解力で、男の人も狙い撃ち、ですよねぇ~?」
「露子さん、いい加減目覚ましてください。ここアパートなんです。あんまり煩いと近隣住民からクレームが」
「あーそうだったそうだった! おくちチャック~」
口の前で指バッテンを露子さんは作る。可愛らしい動作なんだろうが、酔っ払いの負のイメージが先行しすぎてそう思えなかった。
「……水、飲みます? うちお酒ないんで」
「え~……」
「私の中の露子さんはカッコいいお人なんですから。いつだってそうあって欲しいものです」
コップにミネラルウォーターを注いで、露子さんの前に出す。
「かっこいいなんて、そんな~、照れちゃう」
「私の前では、そうあってください、露子さん」
「もう~しょうがないなぁ」
すると露子さんは注がれた水を、これまた一息に飲み干した。お腹たぽたぽになっちゃうぞ。
「ぷはぁ~……あぁ、あー……」
少し酔いから醒め始めたのか、さっきより元気がなくなった。ぼーっとしている。
「はぁ……」
「露子さん、落ち着きました?」
「……あれ、先生? ここって……」
「えぇ?」
まさか、ここに来るまでの事、覚えてないのか?
「ここ私のアパートですよ。露子さん、私が電話したら元気よくうちに突撃してきたんですから」
「え、そんな……先生の予定もあったでしょ?」
「いや、それはいいんです。……覚えてません?」
「……ごめんなさい、もう全然……頭も痛いし……それに……先生、トイレどこですか?」
「……そっちです」
そう示すと、露子さんはさっきまでの陽気さはどこへやら、静かにトイレに入ると、勢いよく吐瀉する音が聞こえた。まったく。部屋のど真ん中にブチ撒けなかっただけマシか。それにしても変な酔い方をするな、露子さん。普通そういう症状は二日目に出るもんじゃないか?
「大丈夫ですか? お水、持ってきましょうか?」
「おねがい……っ!? うっ」
ドア越しに苦しそうな声が聞こえる。あーあ、露子さん、覚えてろよ。
ペットボトルを渡すと、便器から離れられない露子さんは後ろ手に受け取った。
「はぁ、はぁ……っ」
「露子さん、お酒は程々にしてくださいよ?」
「……柄にもなく、いっぱい、飲んじゃって……」
「嫌なことでもあったんですか? それとも年末だから羽目を外しちゃったとか?」
すると露子さんは首を横に振った。
「……鳳先生、本当にもう書かないのかなって、急に不安になっちゃって……あれから一年、もう先生ずっと笑ってない……私、どうすることも、できないのかなぁ、って……」
涙声になりながら訴えてきた露子さんの声は、酔っ払いの泣き癖のそれだったけど、同時に私は不甲斐なさも感じた。
「……ずるい言い方だ。露子さんの悪酔いの原因が私なんですね」
「!? ち、違うの! これは、私の勝手な思い込みだから……うぷっ……」
また露子さんは吐いた。もう出るものもなさそうだけど。
「……」
そうか。露子さん、いつだって私に勇気をくれていたけど……やっぱり、彼女も人だった。そりゃ、そうだよな。
「もう、露子さん」
便座にしがみついている露子さんの背中をさする。私からしたかった大切な話は、また明日しよう。今は、この頼りになる相棒を悲しませた責任を取って、酔っ払いの介抱に勤しむことにした。
翌日、露子さんと私が起きたのは午前8時の事だった。幸いバイトのシフトは入っていない。露子さんの介抱は一晩中やる羽目になったし、遅くなったのはしょうがない。
「おはよう、先生……」
「おはようございます露子さん。体調どうですか?」
「最悪よ」
あれだけ吐いたりしてたのにまだ治まらないんだ……と私は恐怖してしまった。
「頭ガンガンする……喉も……がっさがさ……」
「あーもう、なんか買ってきますよ。動けたらシャワーでも浴びててください」
二日酔い対策のアイテムなんかこの部屋にはない。近くのコンビニに向かうことにした。
帰ってくると、シャワーの音が聞こえた。よかった、とりあえず動けそうなんだ。昨日よりはマシになったかな、そう思いつつ、私はテレビの電源をつける。年末特番がチラホラ始まっている。
歯を磨いて、朝食を用意していると露子さんが上がってくる。
「はい、スポーツドリンク。言っといてあれですけど二日酔いで風呂はちょっとやめてたほうが良かったかも」
「あー、ありがとう」
少し元気が戻ってそうで良かった。
朝食を二人で済ませた。どうせここにいるんだ、と思って私が露子さんの分のトーストも用意すると彼女は目を輝かせていた。
「先生、パン派なんですね」
「ええ」
「私は和食派です」
どっちがいいとかあるのだろうか。
「先生、お邪魔したわね」
「まあ、いいですよ。まだ二日酔い、醒めてないでしょう」
朝食の後、すぐ露子さんはこの家を経とうとした。別に今日もロクに予定があるわけでもないので、それはいつでも良かった。
「あ、そういえば……先生、私に電話をしたって言ってたけど……用件って」
「……あー、そうだった」
あやふやなままに、置いていかれる問題だった。
「露子さん。今から懺悔をしようと思います」
「懺悔……? もしかして、私を悲しませたって……やつ?」
「それもですけど……」
それではない。
「私……ファンレターから、個人情報を特定しようとしたんです」
「……先生」
今日一番の深刻そうな声が、私に向けられる。分かっていた。これは断罪されるべきことだ。だからこそ、私が取り返しのつかないことをしでかす前に、一喝してほしかったのだ。
「先生がそういうことするの……何か理由があってのこと、よね?」
「……露子さん」
……どうして叱ってくれない? どうしてそういう声で私に語り掛けてくるんだ?
「先生。もしかしてだけど……最近届いた、あの子の?」
「……露子さん、怒らないんですね?」
「確かに社会的に褒められたことじゃないわ。でも……私、先生がそういうグレーなことを選ぶのは、絶対理由があると思うの。私が見てきた先生、誠実なお人だもの」
「……」
最悪だ。これじゃあ、私のやろうとしたことが、まるで正しいみたいじゃないか。
「叱ってくださいよ、露子さん、私の編集者でしょ? 担当作家が悪いことをしようとしているのを是とするなんて真似、しないでくださいよ」
「……鳳先生。私は出版社の編集担当だけど――一人の人間で、鳳先生の相談相手でもあるのよ」
私はここで聖母を見た気がした。慈愛に満ちたその表情と、目線と、差し伸べられた手は、あまりに神々しかった。この世で最も優しい領域。それが広がっていた。
「先生。詳しく話してくれませんか?」
「……時間、大丈夫ですか?」
問題ないわ、と露子さんは快諾してくれた。
昨晩同様、ローテーブルに向かい合う。昨日と違うのは、目の前にいるのが酔っ払いではなく、鳳ユキを支え続けてくれた編集者・烏丸露子だったことだ。
「私……どうしても、白鳥ヒナのファンレターが気になって」
「……先生、なんかソワソワしてたものね」
態度に出てたか。私はあんまり自覚は無かったけど。
「で、どこまで特定したの? おうち?」
「あ、いや、そこまでは。……SNSのアカウントを、特定したかも、と」
「へぇ~……」
露子さんは怒るような素振りを見せることなく、むしろ感心するような仕草を見せた。
「すっごいね先生。おうちを特定するより難しいでしょ、それ」
ファンレターの住所を地図アプリで検索すれば、それこそ簡単に特定は出来てしまうか。いや、その気はなかった。白鳥ヒナの家に行くことが目的じゃなかったからだ。
「それっぽいアカウントを見つけて――DMを飛ばそうとしたんです」
「ほうほう」
「そこで『流石にダメだ』って思って、ギリギリ踏みとどまったんですけど」
「なーんだ、それじゃあ未遂じゃない」
お説教する気ナシ! と言わんばかりに、露子さんはこわばっていた肩を落とした。
「先生、DMでどんなやりとりをしようとしたの?」
「白鳥ヒナは……小説を書き始めたって書いてましたよね。だから……その……」
何をやりとりしたかったのかは、やや曖昧だ。小説趣味を始めた相手に聞きたかったこと、私の本でそこまでに至った理由とかを聞きたかったかもしれない。
「ふふっ、先生。先生……」
「……露子さん?」
露子さんは笑っていた。それはもう安らぎに満ちたような、綺麗な微笑。でも目じりに輝く小さな涙が、ひときわ違和感を放っていた。
「先生、まだ小説のこと、諦めてなかったんだあ、って。嬉しくなっちゃった」
「……あ」
私……そう、か。作家、小説。白鳥ヒナに聞きたかったこと。それはすべて――創作活動に繋がっている。私が折ったと思っていた筆は、まだ書けるともがいている。
「私は応援するわ。鳳ユキの復活を。先生が犯そうとした過ちが、それにつながるのなら……私、止めない。これが悪い事っていうのなら、私は一緒に罪を背負うわ。担当編集として、……鳳ユキの、一番のファンとして」
露子さんの潤んだ瞳が真っすぐに見つめてくる。そうか。そうなのかもしれない。私はお利口すぎたのか。私の復活を、誰よりも待ち望むファン。誰よりも支えてきたファン。そして誰よりも愛してくれたファン。そんな彼女を、裏切るわけには行かなかった。