#2-B 白鳥ヒナの呪い
鳳ユキに手紙を出したあたしは、自分の中につっかえているものが少しだけ取れた気がした。あの文面には、自分でも驚くような言葉がずらりとならんでいた。全てを混ぜた泥をろ過して出てきた言葉は、驚いたと同時に、納得もした。ああ、あたしこんなこと言いたかったんだ、と。
言いたいことがきちんと言えた。ぎっちり埋められた便箋は、もうポストに投函された。じきに届くだろう。……出版社宛てだから、その前のチェックで弾かれなければ、だけど。
それからというものの、あたしはどこか平穏な日々を満喫していた。部屋の鳳ユキの本は輝きをひそめ、PCの文書データの更新日は数日前に止まった。
スッとした。それが私の一番の感想だ。一年間焦がれ続けた気持ちも、もうくすぶるのをやめてしまった。
さあ、何をしよう。そう思った時、ぽっかりと穴の開いた心に気付いた。一年間。たったそれだけなのに、まるで全てを失ったかのような寂しさが心を満たしていた。
「あれ……?」
おかしい。あたし、鳳ユキに遭うまで何をして過ごしていたか思い出せない。なんだろう、なんだった……?
気付けばあたしはまた、ノートパソコンを開いていた。
「……嘘でしょ」
ああ、なんか染みついちゃっている。あたし、なにもかも鳳ユキに染められちゃってる。この数日間は解放感からかクラスの友達と色々遊んだりしたけど、正直一時的な刺激に過ぎなかった。毎日出来るような過ごし方じゃなかった。
頭を抱える。はぁ、と息をつくと現実が見えた。
呪いだ。
あたしは鳳ユキに呪われてしまったんだ。心に刺さって抜けない厄介な呪い。どうしよう。落ち着け、落ち着いて考えよう。もう小説を書くことに未練はない。そう思いながら画面に出ている文章を目で追うと、読点で終わっていた。終わり?
「……あーもう!」
ダメだ。これはダメだ。一度でも書き始めたこの物語をほっぽりだすことに、罪悪感が芽生えてしまっている。あー呪いだ。これが鳳ユキからのステキな呪い。
「最悪……」
冷静になって、次に面白そうな趣味を見つければいいのだ、そう自分に言い聞かせてパソコンを閉じようとする。これはあたしの中のけじめだ。そうだ、ファイルを消してしまえば……! そう思い、ファイルを右クリック、出てきたメニューから「削除」を選ぼうとマウスを動かす。……。
「……」
いやに緊張する。いま落ち着いていないのはすごく自分で分かっている。……っ! こういうのは勢い任せでやってしまったほうが……!
「……くっ」
メニューを閉じる。消せない。あたし、自分の書こうとしているお話に妙な愛着が湧いちゃっている。「消すのは後でもできる」という言い訳も浮かんでくる。……あたしは意気地なしだ。
悶々とした気持ちの中、ただただ虚空を見つめる。あたしに呪いを植え付けた彗星のような作家と、あたしの拙い文章の中で泳ぎ続ける主人公たちが、頭の中に渦巻いて混沌を生みだしている。
「……」
あまりにやるせない気持ちになり、5分、10分と時間が過ぎていく。その間、あたしは魂が抜けたように椅子にもたれて、ただただ虚空を見つめていた。
白鳥ヒナ。この十六年近く、何も大きな夢も持たず、何も頑張らず、流されるように楽しいほうへ舵を切ってあたしは生きてきた。このままそれなりの大学へ行って、それなりの会社に就職して、それなりの人生を送るもんだと思っていた。あの彗星がぶつかってくる前は。
鳳ユキという作家を知ったのは、彼女がブレイクし、テレビにも顔を出していた頃だった。引退宣言をする一か月前だ。それまで読書という趣味とは縁のなかったあたしだったけど、あまりに名前を聞くことが多かったから書店に行ってもその名前が目についてしまった。
クラスメイト、友達……周囲の人も、鳳ユキの本を読んで面白かった、と次々述べた。ここであたしは天邪鬼な心が働いた。そんなに面白いのか? テレビで紹介されたからなんとなしに皆褒めてるんじゃないのか? あたしは正直、貶す目的で鳳ユキの本を手に取ったのだ。それが――。
「はぁ……」
目を開けると、変わらぬ暗闇が部屋を包んでいる。時計を見ると、もう30分はぼーっとしていたようだ。
「……」
パソコンを開くか迷ったけど、気分は乗らなかったのでベッドに横になった。いつもよりも早い就寝時刻。だけどふて寝する以外、考えていなかった。目を閉じると、さっきの走馬灯のような振り返りが続いた。
鳳ユキの本を取ったあたしは、全てをぶっ壊されたのだ。