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#10-A(3/3) 再び羽ばたく意思を

 翌日、目が覚めた頃にはすでに九時を回っていた。寝るのが随分遅かったのだ。始発の電車の音が聞こえていたような気がする。


 狂った日常のルーティンを整えようと洗濯機を回そうとしたとき、家のチャイムが鳴った。


「……朝一から何?」


 未だ目覚め切っていない頭で玄関に出ると、


「おはようございます、鳳先生」

「うわっ!」


 私の頭は強制的にリブートさせられたのだ。


「あら、今起きたところって感じですね」

「……ごめんなさい、ちょっと朝支度させて」


 玄関を閉めようとすると、露子さんは靴を挟み込んでそれを許さなかった。


「いいですよ? 私のことは気にしないで」

「気になりますって!」

「いいからいいから」




 押し問答の末、私は負けた。家に露子さんが入り込む。


「お邪魔します」

「……なんでそんなに朝一で突撃してくるんですか。そもそも『通話』で済ませる予定だと思ってたんですけど」

「私も私でちゃんと先生にお伝えしたいことがありましたから」


 どうやら、あの本は相当ワケありのようだ。


「朝食べました? その様子だと、今起きたように見えます」

「まだですよ。洗濯機回したら食べようかと」

「丁度おにぎり、買ってきたんですよ」


 なんて手際のいい。……じゃなくて、なんでそんなものを持ち込んでいるんだ。まるで私がまだ朝食を食べてないのを分かっているみたいに。


「露子さんの朝食ですか?」

「それも兼ねてです」


 ……まあいいや。洗濯機を回したのち、私はそのおにぎりを頂くことにした。ツナマヨ味、私が一番好きな味だ。


「随分気合い入ってるんですね。私とそんな大事な話をするんですか?」

「そうです」


 ? 大事な……話?


「えぇ? 変なの」

「いいんです。私も覚悟を決めて来ましたから」


 なんか、私とのテンションが噛み合っていない。いったい露子さんは何を話すんだ? 本に関することだけではないような気がするぞ?




 朝済ませるべきことを済ませるともう十時を回る。ようやくひと段落して、待っていた露子さんの前に座る。


「お茶です」

「どうも……?」


 いつの間にやら露子さんは紅茶を淹れてくれていた。カップは流石にうちのやつ(なんでうちの奴を勝手に使ってるんだ?)だったけど、使われてる茶葉は彼女が持ち込んだものだった。


 口に含むと、フルーティーな甘さが広がった。


「美味しいです」

「よかった」


 カップを置いた音、それがこれから始まる話し合いの合図だった。


「で、先生。例の本をどこまで読んだんですか?」

「もう読み終えました」

「あら……」


 悲しいのか嬉しいのか、表情からは読み取れない。ただ何か裏を感じさせる声音に、少し身構える。


「感想を言うのなら」

「待って!」


 私の言葉は(さえぎ)られる。


「……先生、この件はなかったことにしません?」

「え」

「あんな書物のことは忘れて、別の話をしましょう?」


 いやいや、そんなことを言いに露子さんここまで来たのか?


「冗談はやめてください。私はきちんと伝えることがあるんですから」

「……先生怒ってます?」


 何か勘違いをしてるようだ。露子さん、自分の出したあの本を、どうしても見られたくないものだと思っているらしい。


「どうして? 全然怒ってませんよ」

「はて?」

「感謝、してるんですよ。同時に、どうしてあの本のことを教えてくれなかったのか……」

「え、えぇ……?」


 珍しい、露子さんが戸惑うような、浮かれるような声音。途端に、彼女の頬が赤く染まった。


「あの本を読んで、私泣いたんですよ。大げさで、重くて、まるで誰か一人のためだけに書いたラブレターのような文章。……それが、私に刺さった」

「せ、先生……あれは、書いているうちに、自分でもテンションが上がっちゃって、それで……」

「露子さんが編集者やる前のこととか、私に会ってからのこと、私に期待していたこと、今でも期待していること。……知れてよかったです。一年前……いいや、数か月前までの私なら、何一つ響かなかったような文章、内容が、今なら、すごく心の奥まで響いて」

「……」

「ああ、私は露子さんをここまで期待させてしまっている……って困った。もう、私は筆を取ることなんか、ないのに」



 希望を断つその言葉を口にした途端、私の中で、熱を持った何かが溢れた。



「……ないと、思ってたの、に」

「先生……?」



 ああ、おかしいな。私は決めたはずなんだ。もうあの世界に戻ることはない。違う道を行くと。本を出して、いっぱいいっぱい、苦しい思いをしてしまった。危険からは遠ざかるしかない。だから私はそれを拒否していたんだ。……頭の中では。


「私……また、書きたいんだ。頭では『やめたほうがいい』『いばらの道だ』『また誹謗中傷に晒される』って分かっているのに。……心が『それでも』って言ってる」

「……っ、先生……!」

「露子さん、私、ヒナちゃんに会ってから変わったよ。あの子に出会って、話して、……あの子が、私の新作が読めないなんて、って言ってくれたからかな。……気付いちゃったんだ。私、また本を書きたいって」


 視界が揺らいでるけれど、話し相手も目を腫らしてることくらい分かった。


「露子さん、私、また書きたい。新作」

「ええ……ええ……!」


 露子さんはハンカチで目を抑え続けている。私だってハンカチが欲しい。やっと言えた気がする。自分の思っていたこと、閉じ込めていた気持ちが。




 思えば、ヒナちゃんと出会った事だって、おかしなきっかけだったのだ。今ならわかる。私はあの頃から、どこかで救いを求めていたんだ。




 互いにひとしきり泣いた後、もう外には出られないほどの顔になったので、昼食は家で食べた。置いてあった袋ラーメンが、なぜかここ数年で一番の味だった。


「……はい。確かに、先生の復帰の意思を確認しました。手続きは私が主導でしますけど、先生に直接出版社に来てもらう事もあると思います」

「はい」


 そういえば聞きたかったことはまだあった。


「そういえば、私って今出版社でどういう立場なんですか? 露子さんが編集者として、引退した私にコンタクトを取り続けているのは、仕事ですか? プライベートですか?」

「仕事ですよ」

「引退……って言葉はわかりますよね?」


 ああ、と思い出したかのように露子さんは手を打った。


「それは出版社の中では、先生は『休養したい』って話で通しているの」

「えぇ?」

「先生には悪かったけれど……やっぱり私は、鳳ユキを信じたかったから」

「怒られません? それ」

「上司の視線は痛かったけれど、それでもある程度は黙認してくれてたから、大丈夫よ」


 結構この人強引だった……!


「特別視はいけないと誰もが分かっていたけれど、同時にあなたほどの作家さんを、皆どこかで信じていたんじゃないかしら」

「……そうなのかもしれませんね」


 だとしたら、多くの人の期待も、背負うことになる。


「別に気負わなくていいわ。先生、今『なんのために』書くか、そのモチベーションを、忘れないでくださいね」

「はい」


 私の、身近なファン二人。その二人のためでいい。


「じゃあ、今日はパーッと飲みましょうか!」

「げっ、露子さん飲み過ぎないでくださいよ!?」

「祝杯よ、しゅ・く・は・い!」

「いいですけど」




 こうして、鳳ユキは再び筆を取ることに決めたのだ。空が開けて、私はその翼の使い方を、思い出したのだ。あとは――。

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