#2-A 終わりに向かうのに
某出版社前。私が鳳ユキとして活動していた時に頻繁に通っていた建物は、見上げると首が痛くなる。
「……」
今日の私の相手はあの建物の中にいる。
ICカードで入館し、目的の部屋へ。染めた金髪は会社というフォーマルな場所に相応しくないのだろう、すれ違う人達は私に視線を次々投げかけてくる。
第3会議室。少人数用の会議室のドアをノックすると、聞き知った声が「どうぞ」と返ってくる。失礼します、と入るとこれまた見知った顔が一人いた。
「おはようございます、露子さん」
「おはようございます、鳳先生」
会社という場にふさわしいスーツ姿の露子さん。ここで会う時はいつも決まった格好だ。今日の髪型はボブ、と。
どうぞ、と手で示されたほうの椅子に座る。目の前に露子さんが来る位置。
「……調子はどう?」
さっきまでのビジネス風味の口調から一転、それは友人に語り掛けるような口調になった。
「調子……って」
「もう、小説は書かない?」
「……このやり取り、何回目ですか」
「一応よ、一応」
露子さんは私の返答は予想していたと言わんばかりに、優し気な目を向ける。……正直、申し訳ないと思っている。
「もう書かない。書けないとも思っています」
「そう……かなぁ?」
「どうして露子さんが疑うんです?」
ふふん、と得意げな顔で露子さんは続ける。
「私が見たあのダイヤモンドの原石は……まだ眠っていると思うから」
「……私は磨く気がないですけど」
もう決めたんだ。私は書かないと。
「……鳳先生。先生が受けた誹謗中傷はかなりシビアな物だったわね」
思い出したくもない。私に向けられた批判、暴言。作品の批評だったらまだしも、あれは完全に私個人に向けられた、ナイフのように鋭い言葉たちだった。
「あのレベルの中傷は、私や出版社が全力で応じたけれど、どうしても抑えきれなかった」
「……わかっています」
露子さんだって、編集者としてはまだ若い方だ。きっと担当している作家もまだまだ多くはないだろう。そんな中でいきなり爆発的にヒットした作家に向けられた大量の誹謗中傷なんて、とても彼女にどうこうできる物じゃない。会社だってあの時はピリピリしていた。
「……ああ! ごめんごめん、こんな湿っぽい話をしたいんじゃないのよ」
「わかってます」
露子さんはこういうしんどくなる話は避けようとする。私としても、ありがたい。
「今日は、本当に調子を聞きたかったの。どうしたの、その金髪」
言葉の真意をくみ取って、一瞬考えて、素直に返答することにした。
「変装です」
「あーなるほどねぇ」
鳳ユキの全盛期はテレビに出る機会もあった。周りにバレる可能性を少しでも減らすために、私は髪を染めた。
「ずいぶん変わるものねぇ……」
「似合ってませんか?」
「見慣れてないだけかも」
違和感はあるみたいだ。正直変装になっているのならどちらでもいいけど。
「お仕事はどう?」
「コンビニでバイトしてます」
「変わりなく?」
「はい」
まるで保護者だ。露子さんは面倒見がいい。作家時代にはその人柄にとても助けられているから文句は言えない。
「……ねえ鳳先生、お昼空いてる?」
「えっ? ……まあ」
「おすすめのラーメン屋、あるのよ」
……特に断る理由もないけど、こうやって露子さんがお出かけに誘ってくるのは珍しかった。
「スープが美味しいのよ」と言われて来たお店は、今っぽくて露子さんのような女性も狙ってそうな、おしゃれなラーメン屋だった。
テーブルを囲み、互いに注文して少し待つ。
「鳳先生、こってり系がお好きなんですね」
「……外でそう呼ぶのはやめてください、今は」
私はバレたくないのだ。
「ああ、ごめんごめん」
慣れたように露子さんはお手拭きで手を拭く。私もそれにならう。
「先生、最近楽しかったことってあります?」
「……」
ない。この1年、全く楽しかったことはなかったように思う。些細なことですら、その質問のために用意できるものが見つからない。
「……あまり、思い浮かばない?」
「……はい」
露子さんは無理して笑うと、どうしても口元に力が入ってしまうらしい。
「じゃあ、今日がその1つ目になれば、嬉しいわ」
露子さんの顔を見るのが辛くなって、思わず視線を下げた直後に、頼んだラーメンは届いた。露子さんのも一緒に来た。
いただきます、と二人挨拶をして食べ始める。私が頼んだラーメンは……悪くない。
「替え玉も頼もうかな」
露子さんは意外とよく食べるのだ。
二人きっちり完食したのち、露子さんはまたお話モードに入った。
「先生、これからどうするの?」
「……しばらくは、このままコンビニバイトしようと思います」
そう答えると、露子さんはふぅ、と息をついた。
「……いつか、ちゃんとした道が見つかるといいわね」
「え?」
「こうやって来てくれたの、まだ作家として未練があるからでしょ?」
「そんなことは……」
否定しようとしたとき、頭の中で「確かに」と相づちを打ってしまった。私、どうしてこの呼び出しに応じたんだろう。もちろん露子さんと遊ぼうだなんてハッピーな考えからではない。いつものことだからと惰性で来たのか?
「……あなたが応じてくれる限り、私は鳳ユキを諦めないから」
そう言い残すと露子さんは速やかに会計を済ませる。……しかも彼女の奢りで。
ラーメン屋を出て私たちは解散した。露子さんは仕事中だ。ほかの担当作家だっているはず。そんな中、もう冷えていくだけの白色矮星のような私にこれだけ時間を割いてくれるのは嬉しいけど……。
「……」
申し訳なさでいっぱいだ。もう枯れていく木にいくら水を掛けたって、何も変わらないのに。
電車に乗って帰路に就く。よく晴れた空は、やけに眩しく見えた。