#9-A(3/3) 一日旅、露子さんの思い
起きてしまえば夢など忘れる。どうも人間の身体っていうのは、夢を忘れるように出来ているらしい。目を覚ますと、不思議な浮遊感が心を満たしていた。なんだかいい夢を見たようだ。
「趣味か……」
本当に思い出せないのだ。幼少期、学生時代何かしていたかと言われたら特にそれらしいことはしていないのだ。勉強も運動も並。友達と遊んだりも勿論していた。
学生時代はワルい奴ではなかった、と私は思っている。そんな中でハマっていたもの……。
「思い出せない……」
そんなに空虚な学生時代を過ごしたのだろうか? おかしいな、学生時代の記憶が圧縮されてされてされまくって要点しか残ってない。校歌すら思い出せない。
「……」
記憶力は悪い方じゃなかった。勉強だって、ニュースだって、一度頭に入ったことは何かしら残っていたはずなのだ。
「……」
あまり思いつめてもしょうがない気がしてきた。大事なのは今――とよく露子さんは言っていた。その通りだと思う。
諦めてまたベッドに倒れ込む。見慣れた天井。そこに何か手がかりがあるわけもなく。
「実家帰ったら、何か分かるかな」
私の実家。もう随分と帰っていない。遠く遠く、新幹線か飛行機が望ましい距離のそこは田舎だ。果たして今から行くか? と言われたら頷くことは難しい。
「……少し、出かけてみるか」
趣味……改め、何か心を惹かれるものがあるかもしれないと、私は部屋の外に助けを求めに行った。
電車に乗って、何駅か。人混みの中に混ざり、改札を出るとそこに街が現われる。私の知り得る限りで一番都会だと思う。
都会に出てきたときは驚いた。人しかいなくて。見渡す限り建物があって。音がいつも騒がしくて。最初は「凄いところだ!」とテンションが上がっていたけれど、慣れると騒がしすぎて疲れることのほうが多くなった。
歩き続ける人達、その一人が私。いつの間にか歩行者の流れができていて、止まるのが難しい。ああ、なんだか人に酔いそう。今日は平日だけれど、都会に平日も休日もあまり関係ない。
ここらで一番大きな書店が現われる。複数階建てで書店と呼ぶにはあまりにも巨大な建物に、初めて来たときの私は驚きを通り越して書店と認識できなかった。
当然置いてある本の数も膨大で、ここを一日回るだけで朝から夜までかかってしまいそう。
小説のコーナーに無意識に足が向かっている。それを正して、「趣味」のコーナーへと向かう。料理とか園芸とか、そういう本が置いてあるコーナーだ。売れている本は表紙をこちらに向けている。いろいろ見て回るけれどイマイチパッとしない。
「うーん」
足早にそこを出て行って、今度は小難しそうな「資格・実用書」のコーナーへ。勉強用のテキストらしく、さっきの趣味のコーナーよりも目に入る文字量が増える。表紙に絵がないのだ。気になる資格は……今のところないけれど、あまり見たことのない資格の名前が見えて、その本を手に取る。色彩検定と書いてある。
「……」
惹かれず元に戻す。
人の多い、広い書店を歩いてきたからか、なんだか疲れてしまった。ここは親切なことに、買った本を読むのにも使える休憩用の椅子がところどころ置いてある。その一つに座ると、はぁ~、と疲れを含んだ息が出た。
人混みというのはやっぱり疲れる。そう思っているのは私だけではないと、間隔をあけて座っている人たちが無言で言っている。
「……ん?」
商品の入った本棚の側面に、人気作家・ミコトアオサギのサイン会のお知らせが貼られている。サイン会か。私もここじゃないけれどやったことあったな。売れてきたときに。サインなんて書き方すら知らなかったから露子さんと練習したな。結果、自分で納得のいく程綺麗なサインは出来なかった。腕は疲れるし、なんか話しかけてくるファンの人はいたしで大変だった記憶が強い。作家だし、ってことであまりトークが上手くなくてもどうにかなったけれど。
「……」
結局私の琴線に触れるような本は見つからなかった。となると……。
腰を上げて、最初向かおうとしたコーナーへ向かう。小説。私は小説家だったのだ。もしかしたらヒントがあるのかもしれない。
小説のコーナーは今まで見たコーナーの中で一番大きい。何度かここには来たことがあるけど、お目当ての小説はほとんど揃っているからちょっと怖くなったことがある。
最新作、人気作、ロングセラー。様々な表紙たちが目に飛び込んでくる。歴史もの、ミステリー、ライトノベル、若者向け恋愛小説。総合書店の名に恥じないラインナップ。
「ん?」
そこで目にした本――の作者名に思わず目を引かれてしまう。なんでこの人の名前が? それは決して表紙をこちらに向けてアピールしているわけでもない。その本を取り出す。
「『宝物』作者・烏丸露子……」
なんだろう、これは……一体何が書かれているんだ? もしかして同姓同名の作家さんだろうか? いや聞いたことない。もし他人のこれが出ているなら、露子さん私に話題を振って来る気がする。
「……買うか」
表紙買いならぬ名前買い。文庫本サイズで背幅はやや厚め。パラパラとめくってみるとぎっしり文字がページを埋め尽くしている。たまに文字数の少ない本っていうのもあるけれど、これはその類じゃない。
「770円です」
支払いを済ませて、私は読む場所を探す。……けれどどうも近くの椅子は埋まっている。あとこういう場所で読むのはなんだか落ち着かない気がする。仕方がない。疲れたし帰ることにしよう。
家に帰るころにはもう昼になっていた。昼食のカップ麺が出来るのを待ちつつ、買ってきた本をめくる。表紙の裏に書かれている著者紹介を見る。
『烏丸露子 19XX年生まれ。〇〇社の編集者。担当作家は鳳ユキなど。……』
ああ、あの露子さんだ。間違いない。生まれた年はとりあえず伏せておく。それにしても露子さんが本を出してるなんて驚きだ。……と、著者紹介の続きの一文に少し私はフリーズした。
『作家を目指していたが編集者の道を進む』
「……え?」
露子さんが作家を? そんな話は聞いたことがない。むしろ編集一筋とか本人の口から聞いたことがある。
どんな本なんだ。これは彼女の書いた小説なのか。それともエッセイなのか。私は欲求に駆られて、ページを読み進めることにした。
――――。本は4時間で読み終えた。途中、伸びたカップ麺に気付いて慌てて食べたくらいに、没頭してしまった。
内容は自伝のようなエッセイだった。自分の経歴、現在。と簡潔に表せばそうなんだけど。
「……露子さん」
その中身は何というか……露子さんが私にこの本の存在を教えてくれなかった理由が分かった気がした。
書いてある内容の7割以上が、私に会ってからの非日常的な編集者としての日々を綴っていたのだ。そこに描かれている文章の熱量が……とってもハイカロリーな物だ。つくづく書店の椅子で読まなくて良かったと思わされた。
私(鳳ユキ)に会ってから、私の印象、私の文章について、私と過ごした激動の日々、そして――私への展望。
家で読んでてよかったと思ったのが最後の展望の話だ。
「この光り輝く宝物は、もっともっと輝いてほしい」
「誰よりも、私がそれを望んでいる」
……など、もう恋文でも読んでいるかのような気持ちになった。一歩間違えば恥ずかしいと思ってしまいそうな文章がそこにあった。
でも――間違えてなどいなかったのだ。
本の発行日は私が引退して10ヶ月ほど後。それを確認して、私は震える手で背表紙を閉じた。
「――」
天井を仰ぐ。目を閉じる。息を整える。嗚咽は止まない。
その後私は泣けるだけ泣くことにした。
日が暮れてきたころに目が覚めた。自分の気持ちを抑えることなくベッドで泣き続けた結果、寝てしまっていたようだ。でも――目覚めはすごく良かった。胸の中に風が吹き抜けるような、清々しさすらあった。
とりあえずこの本のことを、やはり本人に伝えるのが一番だと思った。メッセージアプリで「今大丈夫ですか?」と露子さんに送る。すると、
「今残業中です」
汗の絵文字と共に返ってきた。忙しいのだろう。だけど何かしら伝えたい。今渦巻いている気持ち、これは後になったら色あせてしまうような気がする。
そう思い、私は机からメモ帳とペンを取り出して、書きなぐる。書いて書いて、メモ紙が埋まって、次のメモへ。次のメモへ、また。
気付けば十枚ものメモ紙がびっしり埋まっていた。必死に書いたから字は汚い。まだ書き切れてないような気もする。だけれど、ともかく伝えたいことは書き切ったと思う。
「仕事終わったら通話しましょう」
約束を取り付けて、私はスマホを置く。いっぱいいっぱい、感謝しなくちゃ。




