#8-A 新しい友達
病院は翌日退院した。家に帰って、バイトはその日同僚の女性に代わってもらった。
家のベッドに寝転がる。昨日の出来事はまだちょっと重く残っている。気を抜いたらまたトラウマの箱が開きそうで少し怖い。そんなことを思っていると睡魔がやってくる。私のトラウマを少し、睡魔に分けることにした。
気がつけばまた日付が進んでいる。さすがにだらしなさ過ぎる、と身体を起こせば部屋に入り込んでくる朝焼けが眩しい。
うん、今日はなんか、心が軽いかも。
露子さんが言っていた。休むときは全力で休むべきと。それは間違いじゃなかった。
バイトは元々休みだった(代わった同僚は「気にしないで」と言ってくれた)ので、溜まった家事を片付けることにした。
……と、その前に。
「一応、ヒナちゃんに連絡は入れておくか」
目の前で倒れて困惑させて、さらに助けを呼ばせたのだ。迷惑をかけた以上、いろいろ話をしなくちゃ。
取り敢えず「先日退院しました」と送る。心配かけてしまった。……既読はつかない。はて? 時計を見ると朝7時。もしや学校か? と思ったが今日は土曜日。休み……いや、どうだろう。そもそも別に休みでも忙しいことだってあるし、部活動という線もあるか。
……まあ、急ぎの用でもないし、メッセージだけ飛ばして、置いておこう。
それでも返信を待っている私はいた。家事が済んでも、昼になっても、一向に既読は付かない。どうしたんだろう。
前回私が目の前で倒れたことが、もしかして彼女にとって結構辛い出来事になった、とか? 私のトラウマを掘り起こすようなことを言った、それを彼女自身が気にしている……っていうのは考えすぎか。私自身、ヒナちゃんが悪いとは思ってないし。
「!」
スマホが震えた。メッセージアプリの通知を知らせる振動に、無駄のない動きでスマホの画面を見ると、そこにあった名前は、
「……露子さんか」
いや、がっかりなんてしてない。してないけども。
露子さんからの連絡は「体調はどう?」というこちらの状況確認の物だった。
「大丈夫です。だいぶ落ち着きました」
そうすぐさま返信する。既読もちゃんとついたのち、「それは良かった」と返ってきた。続いて「いま電話大丈夫?」と来た。文面のみでやりとりする理由は今ないし、電話することにした。
「もしもし露子さん?」
「あー先生! お元気でした?」
どうにも上機嫌だ。
「なにかいいことでもありました?」
「いやぁ、先生が元気そうですからぁ」
私? 私が元気に電話してきたから? 変な人だ。
「この二日、バイトを休ませてもらって、ぼんやりしてたらだいぶ気分もよくなって、どうにか家事を片付けるくらいには元気です」
「あらぁ、それはよかった。ちゃんと全力で休んでくれたんですね」
……露子さんハイテンション過ぎる。まだ昼だぞ? 一応聞かせてもらう。
「露子さん飲んでませんよね?」
「あっ、失礼ですね! こっちは仕事ですよ? お酒はNGです」
流石にタブーは犯してなかったか。
「それで露子さん、電話したかった理由って?」
「いやー、あんなことがあった後だったから、ついね」
「露子さんも忙しいんじゃないですか?」
「いいでしょ? 担当作家を気遣うっていうのは、編集の仕事です!」
それはそうかもしれないけれど。
「あれから白鳥さんとは連絡した?」
「さっきメッセージを飛ばしたんですけど……どうも忙しいみたいで」
「あら」
すると露子さんは、さっきまでのほわほわした声音を少し落ち着かせて、言葉を続ける。
「うーん……もしかしたら、向こうが遠慮しているかもしれないわね」
「遠慮?」
「ほら、経緯を聞いた感じだと白鳥さんが例の話題を振ったから、先生の体調が悪くなったみたいだから」
あー、なるほど。
「白鳥さんが真面目な人なら、そこで先生に対してためらいが生まれてしまったのかもしれないわ」
「そんなことしなくていいのに」
「中高生にとっては、一つ一つの出来事がとても鮮烈に映ってしまうものなの。先生も昔の出来事はすごくインパクトがなかった?」
そうだな。言われてみればそうかもしれない。子供にとって、色んな事が新鮮で、色んな事が大きく見える。16歳ってそんな歳か。
「先生、白鳥さんのことはどう思ってる?」
「あの時は辛かったけど、別に気にしてません。また話したいと思ってます」
「なら先生、ここは一歩踏み出す時よ。先生からアピールをしていくの」
「アピール?」
「積極的にメッセージを送るとか、なんならいきなり電話とか」
いきなり電話はちょっと相手もビックリしてしまうんじゃないろうか。それに、しつこいメッセージは嫌われるんじゃないだろうか。私は嫌いだ。
「うーん……」
残念ながら私にメッセージアプリで語り合うような友達はいない。一体どれくらいの頻度で送ると頻繁なのか、ちょっと分からない。
「どれくらいでしょう」
「んー、そこは先生のペースがあると思います。あまり不自然なペースは相手も戸惑うでしょうし」
「……なんか、露子さん恋愛の先生みたいですね」
「――」
わずかな無音のあと、さっきまでの優し気な声音は消えた。
「私の恋愛が――なんですか?」
例えるならナイフのような、一歩間違ったらケガをしそうな、そんな冷たい声が返ってきた。
「お、落ち着いてください。露子さん人と仲良くなるのお上手そうだなって」
「あら、そうですか……ってやだ! 今の私は忘れてくださいね」
露子さんの声は元の柔らかい物に戻る。それでも、一瞬感じた――言い表せば『殺気』のようなものを私は忘れられなかった。
「とりあえず、私はもう少し、フランクにヒナちゃんに接してみることを考えてみます」
「それがいいでしょう。もうビデオ通話で語り合う仲……それって『お友達』だと思いますから。先生はそう思いません?」
「……そうですかね?」
「大人の関係って『ビジネス』とか『利害が一致』しているとか複雑ですけど……白鳥さんにそういうの、感じてます?」
「いえ」
「ならきっといいお友達です」
なるほど。ヒナちゃんと私はもう友達……なんだな。少し歳は離れているけれど、物書きで繋がった友達――そう考えたら、悪くない気もしてきた。
露子さんとの通話を終えて、私はヒナちゃんへ送るメッセージを考えることにした。……肝心の中身がどうにも浮かばない。送ったとして……見てくれるだろうか? メッセージアプリを無視する方法なんていくらでもある。だから……ああ、いや、考えすぎだろう。私は子供じゃないんだ。恋に焦れる乙女でもないんだ。私の気持ちを送って、少し時間を置こう。……これじゃあ積極的にはならないか。でもいい。私のペースも大事だ。
「私は元気です。ヒナちゃん、あの日の事は気にしてないよ。気が向いたら連絡ください」
「……ん~?」
文面を見直した時、どうにも迷惑メールみたいな文面にしか見えなかったけれど、とりあえずそれで送った。短いけれど、私の気持ちを端的に現せばあんな感じだった。また話がしたい。ここで途切れるのは少し、後味が悪い。
送ってから日が暮れて、気晴らしの散歩も終えて帰ってきたころにスマホが震えた。
「あ」
スマホを震わせたのはヒナちゃんからのメッセージ通知だった。
「忙しかったのかな」
アプリを開くと、
「出なくてごめんなさい。少し考え事をしてました」
となんだか意味深な文章があった。考え事? なら、聞いたほうがいいだろうか。通話が大丈夫か、とメッセージを送ると「OK」のスタンプがすぐに飛んで来た。
「こんばんわ」
「こんばんわ、先生」
ビデオ通話の向こう、ヒナちゃんの顔色が悪そうなのが少し引っかかった。
「ヒナちゃん、考え事ってあったけれど」
「……ごめんなさい」
「え?」
なにか謝罪されるようなこと、あったっけ?
「あたし、前に先生が引退する理由について聞いたの……あれ、……」
「――言ってごらん」
「……ダメなことなら、先生怒ってくれるって思って、聞いちゃったんです」
……なるほど。でも私は予想外に取り乱してしまったから、罪悪感を感じていた……とか?
「あたし、なんか……相手がこういう反応して『くれるだろう』って話し方してた。……あたし、姉貴がいるんですけど、このこと話したら、そういうコミュニケーションはやめろって、メチャクチャ怒られたんです」
元気がないのはそれのせいもあるのかな。確かに褒められたコミュニケーションじゃないけれど……でも、今ヒナちゃんは反省している。そもそも私も気にしていない。
「だから、その……悪いコミュニケーションして、本当にごめんなさい」
「いいよ。私も気にしてないし。それに……」
「?」
「ヒナちゃん、ちゃんと反省出来る子なんだ。すごいじゃない」
「あ、その……」
画面の向こうの彼女がなんだか気まずそうな、恥ずかしそうな、落ち着かない様子を見せている。あまり褒められ慣れてないのだろうか。――褒め甲斐があるな。
「私は嬉しかったよ? ヒナちゃんもしかしてあの日のことで、もう私とは関わりたくないのかもなぁ……とか、思ってたから」
「いえ……先生とは、もっと話がしたいですから」
「うん、私も」
その日の通話は和やかに進んだ。少しだけ向こうの日常の事も聞いた。そして気付いたら……。
「わ、もう11時じゃん!」
「もう遅いね。寝る?」
「はい。先生、また今度話しましょう」
「うん。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
通話を切る。楽しかった、と心臓の緩やかな高鳴りが答えている。周囲の静寂がその回答を引き立たせていた。私も明日はバイトだから寝る。嗚呼、なんだか彼女と話した日の夜はすごく、満ち足りた気分になる。またバイト先で「ニヤけてる」なんて言われるかもしれない。……それでもいいか。
ベッドに横になって目を閉じると、ヒナちゃんと話せたことを噛みしめている自分がいた。そのことを抱きながら眠りに就くのがとても、幸せだった。




