03:託したもの
城へ走ってきたのは、そこが帰る家だという意識が染み付いているからだろうか。
ちょうど人のいない場所に来れたイブは物思いにふけった。
半壊した家の景色を眺める目線がホールの大階段の上に止まる。ロベルトが消えた場所だ。
『騎士道を、忘れるな』
イブは持ち上げた左手をそっと開く。
『おまもり』
昔からお決まりだった母の祈りの感触がまだ残っている。
「守りたかった人はいなくなった。王は知らない人になった。僕はこれからどうすれば……」
途方に暮れて目を閉じかけた、その時。乾いた物音が耳に届いた。
音が聞こえたのは岩壁の方だ。ホールの壊れた大窓が外へ通じている。
「誰かいるの?」
声を掛けるが返事はない。イブは大窓から外へ出て、音を辿るように岩壁の方へ向かい、発生源が崖下にあると分かって下を覗いた。
「……あ!」
割れた一枚岩の巨大な欠片が崖下で岸になっている。そこで、人が巨大なカニに襲われていたため思わず声を上げる。
だが驚いたのはそれだけが理由ではない。その人物が、見たことのある銀色の頭をした男性だったのだ。
「もしかして……!」
彼を助けようとイブは反射的に剣に手をやったが、一度立ち止まった。
あの巨大なカニは泥ガニと呼ばれる魔物だ。闇の瘴気を吸って育ちすぎた水棲生物系の魔物で、釣り人から釣果を盗む癖を持つ。
だが人ひとり挟めそうなほど巨大な右ハサミは平均より大き過ぎるし、人を威嚇して迫る凶暴な姿を見たのはこれが初めてだ。
魔王の復活が魔物に影響を及ぼしているのだろうか。大きい分、普通より硬いであろう装甲に通用する武器が必要だ。
イブは城の中に兵士の槍が落ちていたのを思い出したので、急いで拾って来ると、崖下へ向けて投擲の構えを取った。
「そこを動かないで!」
逃げ出す体勢だった銀髪の青年が動きを止める。
すかさず槍を投げた。
「はっ!」
槍は泥ガニの甲羅に突き刺さる。急所は貫けたようだ。
魔物は断末魔を上げて闇色の灰となって散った。
青年が礼のつもりか手を挙げ、崖を登ってきた。イブは手を貸して体を引き上げてやりながら気付いた。
やはりあの盗賊だ。
「助かったよ。……ん? あんたは――」
「あなただけなの? 母は!?」
崖から這い上がったばかりのずぶ濡れの身に掴みかかる。
青年は面食らったようだが、やがて端整な若い顔を曇らせて立ち上がった。イブへ向けて広げた手を差し出す。
そこにはほんの小さな金色の輪が載っていた。緑色の宝石の粒が台座に嵌まっているので指輪のようだが、イブの小指にも入らない大きさだ。
青年の顔を窺うと、群青色の緊張している瞳が動いて受け取るよう促したので、手のひらから指輪を拾い上げた。
「地下牢に水が入ってきたから一緒に泳いで外に出たんだが、湖が荒れてたせいで、あんたの母親は……。預かったのはそいつと、もう一つある。よく覚えてないが……」
そう言うと、手を寄越すよう手振りで示す。イブが空の手を貸すと、手の甲に指先を這わせ始めた。
線を書き、離れ、曲線を書き。それを何度か繰り返す。
イブは何を書かれたのはすぐに分かった。青年の書いたものはでたらめに近かったが、それでも分かった。
「『おまもり』……」
今までは堪えられていた涙がとうとう溢れた。
これではっきりしてしまった。
母はもういない。
「……うぅぅ……ッ!」
嗚咽を噛み殺して体を折る。
両手を組み合わせ、指輪と最後の祈りを抱きしめた。
「……あんたが行っちまった後、あんたの母親はずっと祈ってたよ。オレが檻を開けてやるまでずっと。オレのためにも、そうしてくれたんだな」
青年は静かに告げて立ち去ろうとした。
「待って!」
イブは急いで涙を拭って顔を上げる。
「どこへ行くの?」
「やることがあるんだ。刑期の残りをこなしてやるつもりはねえ」
「恩人を牢に戻すだなんてとんでもない。必要とあらばあなたの弁護をしてもいい。あなたは最後まで母と一緒にいてくれて、形見を届けてくれたのだから。……その誠実な行いに感謝します。母は僕の唯一の家族でした」
頭を下げるイブを、青年は気まずそうに見やった。
「改めて、僕はイブ。あなたの名は?」
「オレは大した人間じゃねえよ、騎士サマ」
手を振って今度こそ去ろうとする。
イブは自分とほぼ同じ高さにあるその肩をしっかり掴んで振り向かせた。
「騎士に物を聞かれたら答えるものだよ」
「いや、だから……」
「教えてくれるまで離さない」
渋い顔で睨みつけられるが動じない。
と思いきや、青年は素早く顔を背けると、くしゃみを放った。
「……クルス」
イブは目を瞠り、手を離す。
「あ、ごめん。火にあたった方がいいね。さあこっちへ」
「ありがてえ」
青年――クルスはぶるっと震え、広場へ戻るイブについていった。
広場では天幕やテントの設置が進められている。
その作業中だった騎士たちが、イブが連れてきた人物に気づいて声を上げた。
「あっ貴様は!」
騎士たちはどやどやとやってきてクルスに迫った。
「王に聞きましたぞ。ロベルト様と共に本物の我らが王を解放してくださったとか!」
「あ?」
クルスは髪と同じ色の眉を片方動かす。その様子に騎士たちの方が驚く。
「あなたが盗んだ鏡は実は魔王の魔法道具で、本物の国王が封じられていたのです。知らなかったのですか?」
「…………」
天幕群の脇に焚き火が燃えている。イブが火のそばへ行くよう手振りすると、クルスは空いている小さな椅子に座った。
「なるほど。額面以上に危険な仕事だったか」
ため息混じりの独り言からイブは気づく。
「ロベルト様に雇われていたの?」
「名無しの雇い主の正体を知ったのは檻に入れられる時だったぜ。で、オレの報酬は支払われそうか?」
イブの口が一瞬ためらった。
「ロベルト様は亡くなられた。魔王から国を守って……」
「……はっ。一杯食わされちまった」
咄嗟に見つめたクルスの横顔は言葉とは裏腹に故人を悼んでいる。
イブは心に明かりが灯るのを感じた。
そこへ、にわかに空気が変わったかと思うと、背後から厳格な声がかかった。
「そこの盗人よ、こちらを向け。エリスティア王である」
王は側近たちに付き添われ、杖を突きつつやってきた。
イブは真っ先に振り返って跪いた。遅れてクルスが肩越しに相手を確認してから、椅子を降りて同じようにする。
王は側近が用意した折りたたみ椅子に腰掛けて口を開いた。
「面を上げよ。そのほうは我が国の囚人であったクルスという者だな」
「ああ」
「おぬしを魔王の鏡の中から見たので、一度会わねばと思ったのだ。私が国に戻る一助となってくれたこと、心から感謝している。恐るべき魔王の目を掻い潜って宝物庫から魔王の秘密を盗み出したのは見事だった。ついては、この国での罪に恩赦を与える」
周囲に集まっていた城の者たちが歓声を上げた。
クルスは小さく微笑む。
「それと、何か褒美を取らせよう。欲しいものを言ってみよ。このような事態だが、そなたのためにできるだけ望みを叶えようぞ」
「へえ、ただの盗人に親切だな。なら、今回の報酬を――」
「必要ありません、陛下。代わりに僕がこの方と共に行きます」
「えっ!?」
声を上げたのは騎士やメイドたちだ。
クルスも目を見開いて振り返る。
「――なんだって?」
「あなたは母を看取り、形見を託された。きっと他の人だったら母は頼らなかったはず。その証拠に、あなたは信頼されたとおりに僕の元へ辿り着いてくれた。だから僕は母が信じたあなたを信じる」
「えーと、あのな、オレにはまだ別の仕事が残ってるんだ。どんな仕事かは分かるよな?」
「イブよ。この国を離れると言うなら私も聞かせてもらいたい。クルスに着いていくわけを話してくれぬか」
王が話の流れを汲んで問う。イブは考えながら答えた。
「ロベルト将軍が魔王から鏡を奪うようクルスに依頼したのは、クルスに盗みの腕前以上の何かを見出したからだと思うのです。国を守ろうとしたロベルト将軍が選んだ人であり、母が最後に頼った人ならば、これから彼が何をするのか、近くで見てみたいのです」
立ち上がってクルスへと続ける。
「確かにあなたは正義の味方ではない。でも悪党でもない。だからだよ。あなたの元で僕は人生を考え直したい。お願いします」
イブは頭を下げた。
騎士にそうされた側は居心地悪そうに渋面を作る。
「なあ、そりゃ買い被りすぎ――」
「お願い!」
「力押しかよ」
周囲も王さえも、この事態を見守っている。しかし期待している答えは一つだ。クルスもそれを分かっている。だからこそプレッシャーを感じて、なかなか口に出せないのだった。
「分かった」
「本当!? クルスさん、ありがとう!」
イブは頭を上げた。陽光が差したように表情が明るく輝く。
誰もがその美しさに見とれた。人知れず、クルスでさえも。
唯一、王は本心から残念がった。
「おぬしの決めたこととはいえ、若き才能の持ち主がいなくなるのは惜しい。今少し私の支えになってはくれぬか?」
イブは謹んで首を横に振る。
「この決定が全ての人に歓迎されるものではないことは分かっています。けれど、私はロベルト様から教わった騎士道というものを、次は自分なりに貫きたいのです」
すると周囲から騎士たちが進み出て言った。
「国のことは我々もよく存じているつもりです。ロベルト様の分まで励みますので、どうぞ頼ってください!」
「先輩……」
騎士たちはこっそりと親指を立てた。
王はとうとう頷いた。
「そこまでならば、あいわかった。このような事態ゆえ見送ってやれぬのは悔しいが、せめて出立まで故郷でゆっくりしてゆくがよい」
「ありがとうございます」
イブは寛大な心へ感謝した。
王が天幕へ戻ると、改めてクルスへ向き直り、地面に片膝を突く。彼は椅子に戻って背中を温めていた。
「クルスさん、あなたにこの命を預けます。これからよろしくお願いします」
「ん……よろしく」
呆れたような苦笑が今の彼ができる精一杯の愛想らしかった。