隣の席の速水さんが、目を合わせてくれない。
高校入学初日。自分の席に初めて座り、今日から俺も高校生か、と感慨にふける。
さて、まずは近場のクラスメイトに声をかけて、交友関係を築いていこうか――と、隣の席を見てみると、女子生徒が本を読んでいた。
とてつもない美人だった。
サラリと落ちる長い黒髪に、横顔でも分かる整った顔立ち。冷たく光る瞳は、本に釘付けになっている。
教室の喧騒を気にも留めず静かに本を開くその姿は、まるで氷で作られた彫像のようだった。
ダメだ、とても声なんてかけられない。
本を読む姿があまりに絵になりすぎていて、話しかけづらい。それに加え、本人からの『話しかけるなオーラ』を強く感じる。まだ話しかけていないのに、『本を読む邪魔をするな』と言われているようだ。
「お、おはよう」
と、隣の席――ではなく、前の席の男子に話しかける。その男子はこちらを振り返って、挨拶を返してくれた。
こうして俺は、隣の席の美人に話しかけることを、早々に諦めた。
後に行われたホームルームでの自己紹介で、彼女の名前が『速水』であることを知った。
あと、趣味は読書らしい。つまり新たに得た情報は、名前と声が小さいことくらいだった。
それから一週間が経って、クラスの交友グループがなんとなく確立し始めてきた頃。
今朝は意にそぐわず早く起きてしまい、いつもより早い時間に登校してしまった。教室内を見渡すと、俺がよく絡んでるメンツはまだ来ていないようだ。
席に座り、ふと隣を見る。速水さんが相変わらず、一人で本を読んでいた。
「速水さんって、一人でも全然平気なタイプ?」
寝ぼけて頭が回っていなかったとしか思えない。俺はいきなり速水さんに、話しかけていた。
ただ正直、勝手に彼女に対してお節介な気持ちを抱いていたというのもある。
入学二日目辺りまで、速水さんはクラスメイトから何度か話しかけられていたけど、三日目辺りから俺の知る限り、誰からも話しかけられなくなっていた。
つまり速水さんは今、クラスで孤立しかけている。
隣の席でそれを感じ取っていた身として、少し心配な気持ちがあった。それが口をついて出てしまったのだ。
まあ彼女にとってはきっと、余計なお世話でしかないのだろうけど――
「......平気じゃない」
「えっ?」
「平気じゃないわ」
本から目線を外さないまま、速水さんは呟いた。
久しぶりに聞く、小さな、だけど綺麗な声。
あまりに予想外の返答だったので、声をかけたのは俺の方なのに、固まってしまった。そもそも返答があったことに驚いた。なんとなく、無視される気がしていたから。
「平気……じゃないんだ?」
「うん。全然平気じゃない」
そんなつらっと言われると、平気なように聞こえてしまうが……。いや、さっきのお節介な考えとは矛盾するけど、彼女は一人で読書に没頭する孤高なイメージがあったから、やはり予想外だ。
「……でも入学初日から、ずっと一人でいるよね?」
「そうね」
「じゃあやっぱり、平気なんじゃ」
「どうすればいいと思う?」
「はい?」
「だから、どうすれば私は、今の状況を打開できると思う?」
「……もしかして」
ごく、と、俺は唾を飲む。
「めちゃくちゃ悩んでいらっしゃる?」
「……」
肯定も否定しなかった。ということはもう、肯定したも同然だった。
まあ、そうだよな。
一人で本を読む姿があまりにも様になっていたから、勝手なイメージを持っていたけど……。そりゃ高校生活始まって一週間、クラスで孤立しかけていたら、悩むのは当然だ。
「矢代くん」
「えっ?」
急に名前を呼ばれ、俺は驚く。
「私のどこがダメなのか、ちょっと指摘してくれないかしら」
「……はい?」
「隣の席だし、なんとなく分かるでしょう?」
どんどん予想外な方向に話が動いていく。そんなつもりで声をかけたわけじゃないのに。
そして、ちゃんと第三者目線で指摘をもらって反省しようとしてるあたり、真面目なんだろうな。
「じゃあ、単刀直入に言うけど。まずその、話しかけるなオーラをなんとかした方がいいかも」
「オーラなんて私、出してないんだけど」
「……いや、うん」
美人だけど、それ故になんとなく話しかけづらい。速水さんに対してクラス内でそんなイメージが定着しつつあるのを、俺は肌で感じていた。
でもそれは、こちら側が勝手に作り上げたイメージでしかなくて。速水さん自身からしてみれば、「なんのこと?」 といった感覚なのだろう。
「言い方が悪かった。そういうオーラが意図せず出ちゃってるんだよ。速水さんずっと、一人で本読んでるじゃん。正直、話しかけづらいというか」
「どうして? みんなだって休み時間になれば、スマホ見たりしてるじゃない。それと同じよ」
「いや、そうだけど……」
「本、好きなのよ」
「そうなんでしょうけど!」
もしかしてこの人、ちょっと天然入ってないか? それとも意外とユーモアがある人なのか?
「本、好きなのは分かるけど……友達を作りたいなら、積極的に自分から話しかけにいかないとさ」
ぎゅっと、本を掴む指が強張ったように見えた。
「それができたら、苦労しないわ……」
ごもっともだった。今のは全く無駄なアドバイスだったと自分でも反省する。そんなの分かりきっていて、それができないから、悩んでいるのだろう。
それに問題は多分、そこじゃない。だって話しかけづらいとは言っても、最初の内は何人かの生徒から、彼女は普通に話しかけられていたのだから。
「なんか……態度が、冷たい印象を受けるかも」
「……えっ?」
正直、速水さんの希望とはいえ、良くないところを指摘し続けるのは結構しんどかった。
だけど彼女自身は意に介していない様子で、
「もっと具体的に言ってくれないかしら」
と言った。具体的に言うのがしんどいから、ぼかしたのに。
「だから、こう......目をもっと、合わせたほうがいいんじゃないか?」
「......ああ」
「今も本を見てるからさ。人と話すわけだから、本は閉じて、相手の方を見たほうが」
説教みたいになってしまって、更に胸が痛むけど……でもきっとこれが、一番の理由だ。
速水さんは誰から話しかけられても、常に本から目を離さない。
口数が少ないとか声が小さいとか細かい要因もあるけど、やっぱり人と良好な関係を築く上で、致命的なのはここだろう。
「そっか……そうよね」
速水さんは、意外にもあっさりと本を閉じた。パタンと音が鳴る。
そして、こちらを向いた。
「こう?」
初めて目が合う。正面からちゃんと見ると、やっぱり彼女の顔は人形のように整っていて、少しドキッとしてしまう。
「で、できるじゃん」
「ごめんなさい。さっきまではつい、いつもの癖で……」
「癖?」
「うん。私、緊張すると、人と目を合わせられなくて......というより、体全体が凍ったみたいに固まっちゃうのよね」
「どういう仕組み……?」
「もう、カチンコチンになるの。だから端から見たらきっと、『読書する女性を彫った氷像』みたいになってると思う」
「そんな自分をアートみたいに……」
氷像……氷で作られた彫像?
つまり、誰かに話しかけられても本から目線が動かないのは、緊張によって固まってしまっているから? 凍って、氷像になっているから?
一体誰がそんなこと、予想できるというのだろう。それを知らなければ、単に『他人と話すより本を読みたい人』の態度にしか見えない。
そりゃみんな、話しかけてくれなくもなる。
俺は確信する。彼女は全く、みんなの持つイメージとは違う人なのだ。孤高なんかではなく、人付き合いが苦手な、緊張しいの女の子だった。
「……あれ? でもじゃあ、なんで今、急に大丈夫になったの?」
「いやだから、さっきは癖でやっちゃってただけで。今はそもそも、緊張なんてしてないから」
「俺と話すのは緊張しないの?」
「……うん。あれ、そういえば、なんでだろ」
待て。それは不覚にも、ちょっと嬉しいぞ。
それってつまり、このクラスで今、俺に対してだけ心を開いてくれてるってことだもんな?
「分かったわ」
「えっ?」
そこで急に速水さんは、何かに思い当たったような表情を浮かべた。
「どうでもいいからだ」
「……はい?」
「いや、いつも女の子と話すときはどうしても、友達になりたい、気に入ってもらわなきゃ、嫌われたらどうしよう――って、色々なこと考えちゃって、緊張しちゃうけど……男子とは別に、どっちでもいいから。緊張しないんだわ」
「しっかり自己分析できてますね」
「どうも」
それを堂々と、俺という男子の前で言えてしまうことが何よりの証明だな。本当にどうでもいいんだろうな。
そして、彼女の天然説が濃厚になってきた。
「じゃあ、男子とだったら普通に接することができるんじゃね?」
「そうなのかしら。今まで考えたこともなかったけど」
「それはそれですごいな……じゃあ、男子グループに混ざれば?」
「えっ……それはイヤ。男子とばかり仲良くしてたら女子からの印象悪すぎるし、本末転倒じゃない」
それはそうだし、俺も本気では言っていない。ただでさえ女子一人、男子たちのグループに混ざるのは気が引けるだろう。
「とは言ってもさ……友達は欲しいわけだろ?」
「喉から手が出るほど欲しいわ」
「じゃあ、男子ともある程度は仲良くしといた方が」
「だから矢代くん以外の男子とは、仲良くしない」
心臓の音が高鳴った。女子からこんな台詞を言われて、ときめかない男子がいるか?
「……そ、それはまた、なんで?」
「矢代くんは隣の席だし、仲良くしてても不自然じゃないでしょ?」
そういうことね。この人は本当に、ただの天然なのか、実は人の心を弄ぶのがうまいのか、どっちなんだ?
「……あーもう、分かった。綾瀬に相談してみるよ」
まあ、それに騙されてしまう俺も、俺かもしれないが。
「相談? 綾瀬さんに……?」
同じクラスの女子生徒、綾瀬。いわゆるクラスの人気者で、友達が多い。そして、
「同中だったんだ。綾瀬は俺の知る女子の中で一番話しやすいし、誰とでも友達になれるやつだから。あいつに話を通しておくよ」
「……でも私、綾瀬さんとも一回話して、多分嫌われてるんだけど」
「卑屈すぎるだろ。多分誤解してるだけだよ。速水さんの本心を知れば、すぐにあっちから積極的に話しかけてくれるさ」
「でも、絶対また緊張しちゃうわ……」
「最初は難しくても、そのうちなんとかなるさ。まずは氷像になった自分を溶かすことから始めればいい」
「氷像? ふふっ、おもしろい表現するのね」
「あんたが言ったんだよ」
そして今、初めて彼女の笑顔を見た気がする。
まったく、イメージとは恐ろしいものだ。こうして話をしてみると、全然印象が違う。
確かにクールな雰囲気はあるし、ちょっと個性的な面もあるが……それでもやっぱり彼女は、普通の女の子なのだ。
そして近寄りがたいイメージがあったからこそ、さっきの笑顔はギャップがあって非常に、なんていうか……。危うく、好きに――
「矢代くん。どうして私に、そこまでしてくれるの?」
色々速水さんのことを考えている最中にそう言われて、ドキッとした。咄嗟に俺は答える。
「隣の席のよしみだよ」
*
俺の目論見は成功した。
さっそく休み時間に綾瀬に相談すると、彼女はその足で速水さんの席に向かった。
「聞いたよ速水ちゃん! 私と友達になりたいって? それならそうと言ってよー。前話した時はネコみたいな子だなあって思ってたけど、本当はウサギちゃんだったんだね! あ、分かってるよ、大丈夫。緊張しちゃうんだよね? 可愛いとこあるじゃん! あはは、とりあえずLINE交換しよっか?」
と、綾瀬はまくし立てていた。
距離を縮めるのが上手いのか下手なのかわからないが、まあ綾瀬に任せておけばきっと大丈夫だろう。
保護者感覚で遠目から様子を伺っていたが、速水さんは俺の言ったことを守り、ちゃんと本を閉じて話していた。目は泳いでいたように見えたし、話し方もたどたどしくなっていたが、一週間前の彼女に比べたらだいぶマシだった。本当にただ、緊張していただけだったんだな。
それから、数日が経ち。
「綾瀬さんたちと今度、カラオケに行くことになったの」
「へえ、いいじゃん」
「それで矢代くん、今流行りの曲、何か知らない?」
速水さんとは度々、会話するようになった。
何かの相談を受けたり、他愛のない会話をしたり。
「矢代くん。綾瀬さんから、他のクラスの本好きの子を紹介してもらうことになったわ」
「至れり尽くせりだな」
「うん。でね、また緊張しちゃいそうだから、会話の練習に付き合ってくれない?」
「会話の練習ってなんだよ」
「私はあなたをその子だと思って会話する。だから矢代くんは、自分がその子だと思って話して」
「俺の役が難しすぎない?」
名前も知らない別クラスの女子を憑依させられたり。
「三谷さんが、平井くんのこと気になってるらしいんだけど。矢代くん、仲良いかな?」
「……三谷さんの印象、平井から聞いておくよ」
「察しが良いわね。慣れてるのかしら?」
「そうだな。中学の時は仲介業者と呼ばれていたよ」
「あははっ」
「そんな面白くねえだろ」
クラスメイトたちの恋愛に関わってみたり。
またある日、俺が数学の小テストの成績に頭を抱えていると、
「矢代くんって、全然勉強できないタイプ?」
速水さんに、俺が初めて話しかけた時の意趣返しをされた。
「……全然できないね」
「じゃあ、私が教えてあげる」
「えっ。いいの?」
「いいわよ。隣の席のよしみね」
ギブアンドテイクというやつだろうか。椅子を寄せて、俺がミスした問題の解き方を教えてくれたり。
そんな日々が続く中、友人たちから最近言われるようになったことがある。
「お前どうやって速水さんと仲良くなったんだ?」「男子で唯一じゃね?」など。どうやら本当に、速水さんは他の男子とは絡んでいないらしい。
俺はそれに、「たまたまだよ」と答える。これは嘘ではない。たまたま隣の席になれて、『どうでもいい』と思われていて。俺が速水さんと話せるようになった理由は、たったそれだけだ。
だけど、形はどうあれ速水さんにとっての『唯一』になれているのは、悪い気はしなかった。
そして、一ヶ月が経った頃。
「ありがとう、矢代くん」
「なんだよいきなり」
移動教室の間に、速水さんと二人きりになるタイミングがあり、そう言われた。
「改めて、と思ってね。おかげさまで、友達がたくさんできたわ」
「そりゃよかった」
「あの絶望的な状況を打開できたのは、ひとえに矢代くんのおかげよ」
「絶望的って……よっぽど追い詰められてたんだな」
「うん。だから本当に、感謝してるわ」
「いや、こちらの方こそ……ありがとう。速水さんに勉強教えてもらって、助かってるし」
「そう。それは良かったわ」
ニコッと、速水さんは優しく笑った。彼女のことを冷たい人だと思っていた時期が、今となっては懐かしい。
「そういえば、一つ気になってたんだけど」
「なに?」
「どうしてあの日矢代くんは、私に話しかけてくれたの?」
「あの日?」
「最初の日、よ」
初めて話しかけた日のことか。正直一ヶ月も前のことだから、あまり覚えてないのだけど。
確かあの日は、朝早くて……寝ぼけてたから? いやそれもあったけど、それだけじゃないだろう。
心配な気持ちがあったから? 単なるお節介? それとも彼女が美人だったから? 本を読む姿が、美しかったから?
隣の席のよしみ?
全部違う気がするし、全部そうである気もした。だけどその時の感情を総括して言葉にするなら、きっとこうだ。
「速水さんのことが、気になったから」
「……えっ」
「えっ。なんか変なこと言った?」
「ううん、別に......」
彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、またすぐに優しい微笑みを浮かべ、
「あの時、本当に嬉しかったわ。ありがとう」
と、言った。俺は照れてしまって、何も言えなかった。
*
なんだかんだで俺も速水さんもこれで、無事に高校生活のスタートを切る事ができた。これにて、一件落着――
――というわけには、いかなかった。
翌日の朝、自席に着くと、いつものように隣の席の彼女に向けて、俺は声をかける。
「おはよう、速水さん」
「おはよう」
「今日さあ、悪いんだけど、英語の課題みてほし……あれ」
俺はすぐに、速水さんの様子に何か違和感があることに気づいた。
「速水さん、また癖が復活してない?」
「えっ?」
「本じゃなくて俺と目を、合わせなきゃ」
いつもなら俺が話しかけると、本から目を離し、こちらを向いて返してくれるのだが……。
「あっ、うん。これは癖じゃなくて……」
「えっ?」
「その……氷像化してるだけだから、気にしないで」
「どんな日本語だよ」
ていうかそんな風に凍ってしまうのは、緊張している時だけだったはずでは……? でも確かに、速水さんの様子を観察してみると、緊張しているようにも見える。
……なぜ急に。
「その、なんていうか……。ご、ごめんなさい。自分でもよく分からないんだけど」
「お、おう」
「気を悪くしないでね。しばらく私、矢代くんに対しては、こんな感じだと思うから……」
そういえば先ほどから、速水さんの頬がなんだか少し、紅潮しているような……?
ふと、遠くのほうにいる綾瀬が視界に入った。彼女はこちらに視線を向けて、高揚感に満ちた笑みを浮かべていた。なんだその、『面白いことになってきた』とでも言いたげな顔は。
「……どういうこと?」
隣の席の速水さんが、目を合わせてくれない。
その理由が判明するのは、もう少し後になってのことだった。




