08 婚約解消劇
ラピスさまからとんでもないことを言われた五日後──
「……そういうわけで、私は船で見つけた彼女に心を奪われてしまった。私は彼女に出逢って知ったのだ、真実の愛はここにあると……。だからヘルミーネ、きみとの婚約は解消したい」
「そ、そんな……! あなたの婚約者は私です。あんまりですわ」
「きっと償う。だから……」
「う、うう……!」
穏やかな海に面した国、ルシラード王国。
そのヒューベル伯爵家の屋敷にてこんなやりとりがおこなわれていた。
ここはラピスさまの私室。人払いは済んでいて、いまは私たち三人しかいない。
私とラピスさま。そして向かいのソファに座っている、豊かな金髪が見事な麗しい令嬢。
彼女はラピスさまの婚約者のヘルミーネさま。
外見、内面ともに文句なし。けれどラピスさまは彼女と別れたいという。だから私に恋人のふりをしてくれと頼んできたのだ。
『俺の恋人になってくれへん? フローラなら最高やわ』
『な、なにをおっしゃるのですか?』
『いまの婚約者と別れたいねん。せやから恋人のふりをしてくれへんかと思ってな』
『なにか問題がある方なのですか?』
『まさか。ええ女やと思うで』
『でしたらなぜ……?』
ラピスさまは言葉を濁し、『そのうち教えるからいまはなんも聞かんで』としか言ってくれなかった。
だれかを騙すことに抵抗はあったけれど、船から降りた私を待っていたのは設備の整った病院での念入りな治療。そしてヒューベル家での丁重なもてなし。顔が見えないよう、ベールとセットになった高級なドレス……。
受けとれないと思った。でも私が持っているのはぼろぼろの修道服だけ。それに、すくなくとも船で拾ってもらった恩は返さなくてはいけない。
『俺を助けると思って、な?』とラピスさまに諭されて私は仕方なくこの場に同席したのだった。ごめんなさい、とヘルミーネさまに心の中で謝る。
「ああ! 信じて戦地に送りだしたあなたが恋人を連れて帰ってくるなんて……!」
「申しわけない、ヘルミーネ。だが私はもうフローラなしの人生など考えられないんだ」
「もう私に愛情はかけらも残っていないのですの?」
「すまない」
「ラピスさま……!」
ヘルミーネさまは顔を両手で覆ってすすり泣く。
彼女はほんとうにラピスさまのことが好きだったんだ……と思って胸が痛んだときだった。
ヘルミーネさまが両手を膝の上に置き、けろりとした顔でラピスさまを見た。
「──はいっ、では詳しい話はおってご連絡しますわ」
「そうだな。お互いに両親の説得には骨が折れるだろうが、そこは力を合わせて乗りこえよう」
「最初で最後の共同作業ですわね」
「私はいつでも頼ってくれてかまわないよ。他人になったあとでもね」
「……ありがとうございます」
ヘルミーネさまは立ちあがると上品な仕草で礼をする。
ラピスさまと──私に。
「かわいい方ね……」
そして、ベールで顔が見えないはずの私に向けてそう言うとラピスさまの私室をでていった。婚約解消されたとはとても思えない背中で、すがすがしそうに。
私はぽかんとするしかなかった。
「ふう。これでなんとかなりそうやわ、ありがとな」
「い、いったいどういうことですか……?」
「うーん。俺から明かすのは気が引けるけど、フローラには手伝ってもらったもんな。教えとくわ」
彼は言った。親同士が決めた婚約者、ヘルミーネはほんとうは女性が好きであると。同性の恋人もいると。
だがそのことを理由に婚約を解消すれば彼女の家は責任を取らされる。実家の財政を考えるとそれだけは避けたい。
どうすればいいのでしょうか……と相談された彼は答えをだせないまま今回の遠征にでて、帰りに私という拾いものをした。
「俺としては偽装結婚もありかと思ってたんやけどな、男嫌いのヘルミーネとしては男に嫁ぐってだけで苦痛やろ。だからあんたがおってくれてよかったわ。おかげで俺だけが悪者になれた」
「はぁ……」
「時間稼ぎにしかならんのはヘルミーネも俺も百も承知やけどな。ま、あいつなら上手くやるやろ」
私は今回のことを自分なりに整理してみる。
いきなり聞かされた話だったので、私がちゃんと理解できたかは不安だけど。
「ラピスさまはヘルミーネさまのために今回のことを持ちかけてきた、ということであってますか?」
「そう言われるとこそばゆいけどな」
「お優しいのですね」
「んなわけあるか。男と結婚したくないヘルミーネとまだ遊んでたい俺とで利害が一致しただけや」
「……そんなこと言って」
彼があらぬほうを見ているのは照れているのだろうか。
突然恋人になってと言われたときはびっくりしたけど──でも、だれかのための嘘ならついてもいいだろう。ヘルミーネさまも承知のことだったようだし。
これだって、と私は自分の顔を覆うベールにふれる。
「私はなにも言っていないのに用意してくださいましたね。ありがとうございます」
「……礼なんてええわ。街の医者もその傷は治せへんて言ったんやろ?」
「ええ……」
頭の傷はきちんと消毒していればじきに治る。
けれど顔の傷は消えないだろう。そう、病院の医者も言っていた。
「……でも、いいのです。起きたことをくよくよ嘆いても仕方ありませんから。もっとも、私にはなにがあったのかわかりませんけれど……でも、こうして命があるだけでも幸運なのです。なによりラピスさまに拾っていただけましたし」
「…………」
「このご恩は何年かかってもかならずお返ししますからね」
「……なに言うとるん? 恋人助けるんは当たり前やろ。返されても困るわ」
「ふふっ……そうですね」
でも、ヘルミーネさまとの話は済んだのだからそれももう終わりだ。
私は笑ったけれど、ラピスさまは真剣な目で私を見ていた。
私の顔から笑みが消える。
「ラピスさま……?」
「記憶、まだ全然もどってへんのやろ。せやったらこのまま俺の恋人にならへんか」
「え?」
「演技でええわ。演技でも……俺の恋人でおればそれなりの待遇が用意される。
……なにがあったかは知らんけど、顔に傷を負って記憶まで失ったんや。ちょっとくらい甘えてもええと思うで」
私は黙りこんだ。
──記憶をなくす前の私になにがあったのだろう? すくなくとも顔を何者かに切りつけられたことは事実だ。
もしかして……海をさまよっていたのも、自分で身を投げたのだろうか。
そう思うと心臓がばくばくした。私は思わず自分の胸を手で押さえる。
私、私は……自分で死をえらんだの? そんなにつらいことがあったの?
「……っ」
「フローラ? だいじょうぶか?」
「……、はい」
もしそうなら彼の言うとおりちょっとくらい甘えてもいいのかもしれない。
けど。
「……いいえ、だいじょうぶです。ラピスさまには充分よくしていただきました。こんな大きなお屋敷に居候させていただいて、素敵なドレスまで用意していただいて、もうたくさん甘えさせていただきましたわ」
「…………」
「ですから……」
「──なら」
ラピスさまは体を私のほうに向ける。
ソファの背もたれに肘を置いて、紫色の瞳でまっすぐに私を見た。
「俺があんたを好き言うたら、話は変わってくるか?」
「え……?」
「あんたを手放したくない。このまま、記憶を取りもどしても俺のそばにいてくれ」
「ラピス、さま……」
──ああ、彼はどれだけ優しいのだろう。
自分が悪者になって、ヘルミーネさまとの婚約を解消して。挙句の果てに、船で拾っただけの私に恋人になれと言ってくれる。
……私が気を遣わずに甘えられるように。
「ありがとうございます……」
彼は本気じゃない。ただの同情で言ってくれていると、私でもそれくらいはわかる。
名前以外のすべての記憶をなくして。
その上、私の顔は……。
「……ん、なら今日からフローラは俺の本物の恋人な」
彼は微笑んでくれるけれど。
こんなに傷ついた女を愛してくれるひとがいるわけないことを──ちゃんと、私は理解していた。