07 船上の騎士団長(2)
先生──医者は枯れ木のような老人だった。
でも腕はたしかのようで、私に『気分は』『痛みは』と質問しながら私の頭のケガを消毒すると手際よく包帯を新しいものに替えてくれた。
どうしてかはわからないけれど私にはそれがとても新鮮だった。
騎士団と一緒に船に乗っているということは従軍医師だろう。でも、それではなく私には『医者』という存在自体がめずらしく感じられた。記憶がないから、という理由ではない気がする。
「まだ若いのに。気の毒にな」
「…………」
「これじゃ一生残るじゃろうて」
先生にも顔の傷は治せないのだろう。傷自体はもうふさがっているし──あとは、一生残りつづけるだけ、だ。
心臓がきつく締めあげられるみたいだった。また涙が滲みそうになったけれど、私は歯を食いしばって泣きだしたくなるのを必死に耐える。
……負けたくない。
だれにかはわからないけれど、なぜかそうしなければいけない気がした。
「ま、気晴らしに船の中でも散歩するとええ。国につくにはもちっとかかるからな」
「はい……」
そう言われても外にでる気にはなれなかった。先生が出ていったあとで、私はゆっくりベッドに横になる。
ケガのせいで体力を消耗しているのだろうか。すぐにまぶたが下りてきて……
どれくらい寝ていたのだろう。私は目を覚まして、なにげなく横を見る。でもそこにラピスさまはいなくて、かわりに畳まれた白い服が置かれていた。私が寝ている間に持ってきてくれたみたいだ。
──これが、私の服。
ベッドに座り、広げてみる。白いワンピースのようなその服はあちこちほつれていた。洗っても落ちなかったらしい黒い汚れもついている。
これを着たら記憶がよみがえるかもしれない。そう思っていたけれど、どうしてかその服からいやな感じがした。まるでつらい記憶が染みついているような……。
──せっかく洗ってもらったけれど……
なんだか着るのが怖い。私はそれをベッドの上に載せ、ドアのほうを見る。けれどラピスさまがやってくる気配はなかった。
まるでおいていかれたみたい。
船の中には私以外いないのではないか。船は揺れていて航走中なのがわかるし、現実的に考えてそんなはずないのに、急に不安で仕方なくなった。
私は部屋を見回し、薄い掛けシーツを頭からかぶった。だれかに出くわしたときすこしでも顔の傷が見えないように。
肉食獣に怯える小動物はこんな気持ちなのだろうか。ラピスさま以外のだれにも会わないことを祈りながら私はドアを開け、きょろきょろしながら細い通路を通って急な階段を登る。
ドアを開けるとそこは甲板だった。
立っているのは──精悍な騎士。
「どうした!? おまえたちの力はこんなものか!」
ラピスさまはさっきと同じ姿だ。けれど手には本物の剣を持っている。
そして、彼は同じように剣を持った青年たちに取りかこまれていた。青年たちはじりじりと間合いを測っているみたいだったけれど、やがてひとりが思いきったように叫ぶ。
「ヒューベル隊長、参ります!」
「よし──来い!」
私は悲鳴を呑みこんだ。彼が斬られてしまう……!
けれど私が想像したような事態にはならなくて。それどころか、ラピスさまは難なく青年の剣を受けとめると逆に弾きかえした。
「まだです……!」と崩れた体勢からもう一度向かってくる青年の剣をかわし、背後から斬りかかってくるべつの部下の剣を振りむきざまに受けとめる。
「なっ、」
「それで不意打ちのつもりか? 殺気が漏れていたぞ!」
それからはあっという間だった。やけになったように一斉にかかってきた部下たちの剣をラピスさまは小さな子供でも相手にするようにあしらい、「参りました」という言葉を全員から引きだす。
「訓練が足りないな」とラピスさまは座りこんだ部下たちを見て笑った。
「また稽古をつけてやる。模造剣ではなく、本物でな」
「勘弁してくださいよ……」
「ははっ」
部屋にもどろうとしたのだろう、彼はこちらにこようとして私に気がつく。
「フローラ、もう歩いて平気なのですか?」
「は……、はい」
その場にいた全員の注目を浴び、私はシーツで顔を隠した。見られるのが、怖い……。
「こちらへ」と彼は周囲の視線から守るように私の肩を抱き、船尾のほうへ連れていってくれる。そこではカモメが羽を休めているだけだった。
私はシーツをきつくにぎりしめていた手からすこしだけ力を抜く。
細いな、と私の肩から手を離したラピスさまが言う。「すこしずつでも食事をとってくださいね。……力を入れたら壊れてしまいそうだ」
剣を振っていた姿を思いだして私はどきりとする。戦場でも彼はああやって戦うのだろう。
「いつも訓練は本物の剣を使っているのですか?」
「いえ、まさか。ただここには模造剣の用意がないというだけです。本来船上でおこなうのは剣を使用しないトレーニングだけなのですが……何日も体を動かさないでいたらなまってしまいますからね。日に一度、ああやって稽古をするのですよ」
「あぶなくありませんか」
「私は寸止めで終わらせていますよ。部下たちの剣も、いままで切っ先がふれたことさえありません」
──彼はとても強いひとなんだ、と私はそれを聞いて思った。さっきもあきらかに彼の動きだけちがって見えたけれど。
「ですが、ご婦人にお見せするには刺激が強すぎたかもしれませんね。失礼しました」
「いえ、とても興奮しました!」
「え?」
「ラピスさまの強さがあるからこそあのような訓練ができるのですね。剣をさばくラピスさま、素敵でした。機会があればまた見てみたいです」
「…………」
ラピスさまは紫色の目を丸くする。
なにか変なことを言っただろうかと私が不安になっていると、
「っく……ははははは!」
堪えきれなくなったように彼が笑いだした。お腹をかかえて、おかしそうに。
「興奮したて。なんや、そない卑怯やん。おとなしそうな顔しておもろいわぁ」
「……へ?」
「こないなこという女の子初めてやで。っはは……!」
今度は私が目を丸くする番だった。
「ら、ら、ラピスさま……?」
「──っと、しもた」
ラピスさまは咳払いをして表情を引きしめる。……できてないけど。
「いや、失敬。面白くてつい《《素》》がでてしまいました。ふつうのご婦人なら……ふふっ……あんなの野蛮ですわ、すぐにおやめくださいませと仰るものですから」
「い、いまのは……?」
「私の地元の言葉です。ヒューベル家の養子になったときに封印したのですが、たまにこうやってでてしまうのですよ。驚かせましたね、すみません」
「…………」
大笑いしながら訛りのある言葉でしゃべるという、ラピスさまの上品な物腰からはとても想像できない姿だった。でも。
「……私の前では素でいいですよ?」
「え?」
「そっちのほうが親しみやすいといいますか……素顔で接していただいたほうが、私も楽ですから」
「お、ほんま? そう言ってもらえると俺も助かるわ。いやー、伯爵家のご令息で騎士団長ともなるとなかなかしがらみも多くてなぁ。肩凝ってしょうがないんよ」
……だからってこれは速すぎない?
でも彼がいいならいいかな、と苦笑していると「秘密がいっこバレたついでに」とラピスさまが身をかがめて私の顔に自分の顔を近づけてくる。そして──
声をひそめると。
とっさには理解できないことを、私に言ってきた。
「俺の恋人になってくれへん? フローラなら最高やわ」