36 トロフィセ王国への帰還(3)
カリアの手が私から離れた。彼女はぐらりとよろめくと、あわてて踏んばって体勢をもどす。そして頭に血が上ったように叫んだ。
「だっ……だったらその結界を解きなさいよ! この老いぼれ! 余計なことばかりして……!」
「頼んだのはあなたでしょう。──ええもちろん、それはやぶさかではありませんが」
とん、とチズ先生は杖を石の上に突く。
「私のコアはいまどこにありますか?」
「え……」
「答えなさい。私が追放されるときに取りあげた聖女のコアですよ。あれがなければ私は力を使えません。まさか、どこかに捨てたとは思いませんが」
カリアはわなわなと震える。「それは──それは──」
「まさか捨ててしまったのですか?──恥を知りなさい! あなたはいままで聖女としてなにを学んできたのですか!」
「ま、待ってください!」
彼女は首にかけていたペンダントを外した。そしてチズ先生に差しだす。
「私のコアを使ってください。お願いします。こんな顔の傷があったら生きていけません」
「それはあなたものでしょう。他人のコアでは力は使えませんよ」
「いいえ、そんなことありませんわ! だって私はずっとフローラの────」
カリアは口をつぐんだけれどもう遅かった。しんとした静寂の中、大広間にいる全員の視線が彼女に突きささる。
チズ先生はもう一度杖を鳴らした。
「……フローラの? なんですか?」
「ち、ちが……いまのは……」
「あなたはずっと──フローラのコアを使っていたのですか!」
白くなったコアがカリアの手から落ちる。
「ちがう! ちがうちがうちがうぅうう……っ!」彼女は絶叫しながら自分の髪を掻きむしると、私のドレスの裾にすがりついてきた。涙目で懇願してくる。
「お願いフローラ、この傷を治して! 顔にこんな大きな傷があったら私はもう生きていけないわ! 女として終わりよ。ねえ、あなたも同じ女ならわかるでしょう? 治してよぉおお……!」
「……っ、」
私はかっとなって叫んだ。「それくらいの傷で……っ!」
自分の顔の傷を見た私がどれだけ絶望したか。
同じ女なら、カリアにだってわかるはずなのに……!
「おい、カリアを押さえろ! 部屋に閉じこめるんだ!」
「殿下、アルフレッド殿下ぁああ! あなたからもお願いしてくださいませ! 私は、私はあぁああっ! あ──あ、あなたに、ふさわしい女にな、なるために美しくなったのです! い──いつか民が──わ──私を──王妃と呼ぶ日の──ため──に────」
近衛兵に押さえつけられ、カリアは階段を引きずられていく。
それは殿下に追放と婚約破棄を言いわたされた私の姿を彷彿とさせた。
「……くそっ……私はずっと騙されていたのか……」
カリアの悲痛な悲鳴は彼女が見えなくなってからもしばらく聞こえてきていた。それが消えるまでだれも言葉を発することができず、やがてアルフレッド殿下がくしゃりと髪を掻きまわす。
「騙されていた、ですか」くだらないと言いたげにラピスさまがつぶやく。
「自分で考えることをやめただけの間違いではありませんか? フローラさまが何者かに襲われたことや、カリアのコアの色が変わっていたことなど。疑う余地は充分にあったように思われますが」
「……《識別の鏡》が。鏡が、フローラは聖女ではないと告げたんだ」
「それは随分素晴らしいことで」
ラピスさまは私の肩を抱く。殿下からすこしでも遠ざけるように。
「伝承に従って自分の考えを放棄することは楽だったでしょうね。愛する者を信じぬくことよりも、ずっと」
アルフレッド殿下は獣のようなうめき声をあげる。
両手で自分の顔を乱暴にこすり、言いわけをすりつぶすように歯を食いしばったあとで、「……すまなかった、フローラ」とかすれた声で言った。
「……ええ、」
彼の裏切りは私に消えない傷を残した。
けれど、ここで許さなければ【いいえ】私はラピスさまと【綺麗事ね】前に進むことができ【この男はまた裏切ったのよ】な【私を】い
か
【赦さない】
ら
「……フローラさま?」
そばにいる少女の様子がおかしいことにラピスはすぐに気がついた。
「どうかし……」と言いかけ、彼女の表情が自分が知っているものとまったくちがっていることに息を呑む。
白い髪に赤い瞳の少女はふらりとラピスから離れた。大階段の踊り場に立ち、アルフレッドを凛とした眼差しで見下ろす。
「──なにか誤解がございますわ。アルフレッド・ザッケリさま」
「な、なんだ……?」
アルフレッドもフローラの様子がおかしいことに遅れて気がついた。不思議な威圧感を少女に覚えながら、「誤解?」と尋ねかえす。
少女は溜め息をついた。
「ほんとうに私が病んだ大樹を癒せるとお思いですか?」
「な、なぜだ。おまえの力なら治せるだろう?」
「思いだしてください。聖女の力についてのルールです。聖女は、自分自身にはその力を使えないのですよ」
「それがどうした……?」
少女はドレスをつまむと小さく礼をする。
「みなさま初めまして。私はフロウリラ。五百年前の大聖女、フロウリラです。
そして……『生命の樹』のもととなったもの」
「まさか」とラピスが彼女が言いたいことを察してつぶやく。
『禁忌の魔女』が持っていた歴史書の内容を知らないチズは訝しげに眉をひそめ、「な、なんのことだ」とアルフレッドはラピスと少女──フロウリラの顔を交互に見た。
「私がいま申しあげたとおりですわ。聖女は自分自身にはその力を使えない。
大樹はいわば私自身だというのに、私が治せるとでも?」
「な……っ!?」
アルフレッドは愕然とし、彼の動揺は周囲の兵たちにも伝わる。
「ど、どういうことだ」「聖女は大樹を癒せない?」とささやきあう声を聞いてフロウリラはくすくす笑った。
「理解していただけたようでなによりです。私は大樹を癒せない。そして大樹を癒せるような力を持つ聖女はこの国には存在しない。
あなたたちはこのまま滅びてゆくだけということですよ」
「……ま、待ってくれ。おまえは……フローラではないのか?」
「フローラは私の生まれ変わりです。あなたも王族ならばゼグエン帝国のことはご存じでしょう?
五百年前、私はゼグエン帝国の大聖女として傷ついた人々を癒していた。人々に尽くすことが私の喜びだった。ですが他国の人間を癒したことで私は皇帝陛下に密偵の疑いをかけられ、処刑されました。まるでフローラのように……一方的に」
ぎくりとしたようにアルフレッドは目を見開く。なにかを思いだしたらしく、「宝物庫に隠されていた本……」とつぶやいた。
「だがあんなものは忘れてよいと……与太話だと、父上が……」
「自らの祖先の汚点ですものね。子供には知らずにいてほしいと願うのもまた道理。
ですが、それでもあなたの父上はあなたに伝えなくてはいけなかった。自分たちにどれほど愚かな男の血が流れているのか。自分たちの祖先がどのような過ちを犯したのか。もう二度と──同じ過ちをくりかえさないために」
「……っ!」
「この五百年、私は大樹として国を守ってきました。私の婚約者が……たったひとり私を救おうとしてくれたあのひとが……私にそう望んだから。
でも……あのひとの声が聞こえたのです。もういい、と。いままでありがとう、あなたはもうこの国から解放されて自由に生きていいんだ、と。
歴代の聖女たちが大樹に祈りを捧げてきたおかげで、大樹は私が離れても力を保ちつづけることができるようになっていました。
だから私は国の守り神であることをやめて、偉大な力を持たないただの聖女として生まれなおすことにしたのです。
フローラ。すべてを忘れた聖女として」
「…………」
「聖女として生まれることを望んだのはこの国を守りたいと思ったからです。この国は、私がかつて愛したひとが築きあげた国だから。
ですがあなたはくりかえしてしまった。自らの手で私を追いつめてしまった。
真の聖女だったフローラは死にました。あなたの裏切りによって。
真の聖女だった私は死にました。あなたの祖先の狂気によって。
──あなたたちのせいですよ?」




