35 トロフィセ王国への帰還(2)
私が帰還したことはあっという間に広まったらしい。私を一目見ようと噂を聞きつけてやってきた人々が馬車の行く手をさえぎらないよう王国兵が体を張って止める。
私たちとアルフレッド殿下は別々の馬車に乗った。兵士に押さえつけられながらもこちらを見ようと身を乗りだした男性が「あっ」と叫ぶ。
「フローラさま。ほんとうにフローラさまだ!」
「二台目の馬車ですよ、ご覧なさい!」
「フローラさまが復活された! 私たちのためにお帰りになられたのだ……!」
水葬されたはずの聖女の帰還──。
それはトロフィセ王国の人々を異様なまでの興奮状態にさせた。かれらは私が乗った馬車を見ると道端にひざまずき、両手を合わせて大樹への祈りの言葉を唱えた。大泣きしながらうずくまるひともいる。
「……フローラは無実だという私の言葉にだれも耳を貸そうとはしなかったくせに。身勝手な者たちです」
馬車の窓からその様子を見たチズ先生が苦々しそうにつぶやく。
「同意しますね」と向かいに座るラピスさまも冷ややかに応じた。
「フローラさまを牢から救いだすために行動しなかった者たちがよくもああまで歓迎できるものです」
「まったくですよ。ほんとうに調子がいいのだから」
「……ですが」
やはりこの髪は目立つ。ベールを持ってこなかったことを悔やみながら、私も窓の外に視線をやった。
小さな子供たちは床に這いつくばってむせび泣く大人を怯えた目で見ている。
「子供たちを身勝手な大人の犠牲にするわけにはいきません。これ以上影響が及ぶ前に、この国を救わなければ」
王太子から話があるから国民は城の前の広場に集まるように──というお触れを出すまでもなかった。馬車を見た人々はみな泣きながら後をついてきたからだ。
長蛇の列は広場で急きとめられ、私たちは城内に入る。
「条件について忘れないでいただきたい」とラピスさまに釘を刺され、アルフレッド殿下──頬の腫れはだいぶよくなったようだ──は顎を引くようにしてうなずいた。
「わかっている。すぐに二階のバルコニーで演説を……」
しよう、と彼が言いかけたときだった。「フローラ?」甲高い女性の声が上から聞こえてきた。
「フローラ──ほんとうにフローラなの?」
大階段をひとりの女性がよろめきつつ下りてくる。
豊かな茜色の髪に、凛とした美しい顔。そして華やかな深紅のドレス。
カリア・レイクエスト。
私を陥れた張本人が満面の笑みを浮かべて歩いてきていた。
「──その傷……」
一階の大広間に降りたった彼女の顔を見て私はどきりとする。
転んでどこかにぶつけたのだろうか。左目とこめかみの間に赤黒い傷がある。まぶたを開けると痛むのか、左の目は閉じられていた。
待っていたわ、とカリアは私に両手を差しのべてきた。
「名前を聞いたときには驚いたわよ。でもほんとうにあなただったのね。まさかこうしてまた会えるとは思ってもみなかったわ。
──あら、顔の傷はもう消えたの? 私は詳しくないんだけど、向こうの大陸にも聖女がいるのね。きれいに消えてよかったじゃない」
……自分が命じてやらせたことのくせに。
あまりのことに私はなにも言えなかった。かわりに、「カリア、その傷はどうしたのですか」とチズ先生が尋ねる。
「ああ、これですか」とカリアは髪を掻きあげた。
「すこし転んでしまっただけですわ。ご心配なく。ですがアルフレッド殿下がとても気にしてくださって、わざわざ海を挟んだ隣の大陸まで聖女を捜しにいってくださったのですの。聖女ならかならず治せるからって。
──それがあなたでよかったわ、フローラ。ちょっとした行き違いはあったけど、私たちまた仲良くしましょう? ああそうだ。私、殿下と婚約したの。将来は王妃よ。でも変わらず友人でいましょうね」
「カリア……」
「なにかしら?」
「あなたが私になにをしたか……忘れたの?」
カリアは首を傾げる。とても、とても不思議そうに。
「私がなにをしたっていうの?」
「──え?」
「教えて、フローラ。悪いところは私直すわ。だって私よくわからないの。あなたは私を憎く思ってるようだけれど、心当たりがなにもないのよ。
教えて。私、あなたになにもしてないわよね?」
私は再び言葉を失う。
「だって……」となにか絞りだそうとしたけれどそのあとが続かなかった。
カリアはあの青年に命じて私を襲わせた。
だけど。
その証拠は、どこにもない。
「なにをぬけぬけと……」とラピスさまがつぶやいたけれど、彼も物的な証拠がないことには気づいているだろう。
そしてカリアとアルフレッド殿下は婚約済み。おそらくもう大々的に発表されている。
婚約者が真の聖女を陥れたという事実を認めるくらいなら、殿下は『私はなにもしていない』というカリアの主張を支持するにちがいない。
私は彼女が首に下げているコアを見た。
私のものだったコア、深い紅色をしていたはずのそれは真っ白に色褪せていて、もうなんの役にも立たないことは明らかだった。
──カリアを裁くことはできない……?
はっとする。私がアルフレッド殿下に出した条件、それは『国民の前で私を偽聖女と糾弾したことは過ちであったと認めること』と『カリアの策略を公にすること』だった。
カリアが私のコアをすり替えたのではという推測はここにいる全員に伝えてある。
前例がないことだから、トロフィセ王国の住民であるアルフレッド殿下とチズ先生はなかなか信じられないようだったけれど、そう考えれば《識別の鏡》が反応しなかったのもカリアが突然力を持ちはじめたのも説明がつく。殿下はふたつの条件を呑んでくれた。
そのはず──だったけれど。
「……フローラはすこし動転しているようだ」アルフレッド殿下がぽんと私の肩に手を置く。「私の間違いだったとはいえ、自分が偽聖女と責められる日が来るなどとは思ってもみなかっただろうからな。記憶をすり替えてしまっているのだろう。許してやってくれ、カリア」
「いいえ。私は気にしていませんわ」
「……っ!」
──記憶をすり替えようとしているのはそっちじゃない……!
「フローラさまは我が国の聖女です。気安く触らないでいただきたい」とラピスさまが殿下の手を私から外させる。感情を殺しているようだったけれど、彼の憤りは痛いくらい伝わってきた。
アルフレッド殿下は肩をすくめてカリアを見る。
私はもうここまできてしまったのだから、条件など反故にしてあとは力尽くで大樹を治癒させればいいと考えているのかもしれない。
カリアは苦笑いを返すと、「さあ」と私に向けて言った。
「私のケガを治してくださる? 聖女さま」
私は唇を噛んだ。
私にあんなに酷い傷をつけた相手を──この手で癒す?
「フローラ。こんなことに力を使う必要はありませんよ」とチズ先生が言う。
「あら? 治してくださらないの?」とカリアは心外だという顔をした。
「『どんなものにも分け隔てなく』。それがあなたの教えでしたよね、チズ先生? よく憶えていますわ」
「ろくに勉強会に来なかったあなたがなにを……」
「ふふ、あなたはこうも仰ったはずですわ。『それがたとえ罪人であろうと聖女は傷ついたものを癒さなければならない。命に差などないのだから』と──」
「カリア! いい加減になさい!」
私はふっと息を吐きだした。
……チズ先生の教えのとおりだ。この国の聖女は治癒する相手を選べない。それがたとえ私の顔を傷つけた罪人であっても。
私はカリアに手を差し伸べる。「フローラ……」傷ついたような声をあげるチズ先生に、いいのですよ、と首を振った。
カリアはにこっと笑うと私の手を取った。
私は目を閉じる。そして、ひんやりとした彼女の手を通して大聖女の力をそそぎこもうとして────
────
「あれ……?」
……力がなにかに跳ねかえされる感触にまぶたを開けた。
私がまとっている白い光は私の手からカリアの手に移ろうとしてるけれど、なぜかそこから先へと進まない。見えない壁にでも弾きかえされているかのように。
「……え? ど、どうして? どうして私のほうに来ないの?」
カリアも意味がわからないようで戸惑っている。
こんなこといままで一度もなかった。なぜカリアに大聖女の力を使えないのだろう。疑問に思っていると、
「──ああ、そういえば」
なにかを思いだしたようにチズ先生が言った。
「あれはたしか、あなたからのお願いでしたね。カリア」
「え……?」
「憶えていませんか? 大聖堂からの帰り、馬車の中であなたは私にこんなお願いをしたではありませんか」
『フローラは私とアルフレッド殿下の前で死をえらびました』
『まるで、私たちに呪いをかけるように』
『私はそれが怖いのです。なので、できたらチズ先生に呪いを防ぐような結界を張っていただけたらと』
チズ先生にそのときの会話を復唱され、カリアは真っ青になる。
「あ──ああ──」
「だから私はあなたに聖女の力を使って結界を張ったのです。フローラが一切カリアに干渉しないための、ね」




