34 トロフィセ王国への帰還(1)
出発にはどれだけ早くても五日かかった。
マリウスさまにもトロフィセ王国のことをお伝えして、私たちは一日に三人という掟を破って急を要する病人を優先して診てまわった。
その間、あの──アルフレッド殿下は海沿いの宿に泊まったようだ。ようだ、というのはマリウスさまが手配してくださったから。
「せっかく遥々来たのだ、家臣に国を案内させようと伝えたが断られた」とマリウスさまはぼやいていた。
「つまらん。自国が滅びるか否かというときこそ余所を見てまわることに意義があるだろうに」
それだけでなく、ラピスさまに殴られた頬が腫れていてとても他人には見せられないお顔になっているからという理由もあることを知っているのは私たちだけだろう。アルフレッド殿下が事を荒立てることはなかった。
そして国内での大聖女の活動になんとか都合をつけることができて──私たちはトロフィセ王国の船のあとを中型船で追っていた。
マリウスさまがつけてくださった護衛のほか、チズ先生もこの船には乗っている。
ラピスさまの屋敷での一騒動のあとで彼女自身が『トロフィセ王国の様子を見にいきたいのですが』と殿下に直談判したのだ。
彼女がついてきたところでなにも変わらないと思ったのか、アルフレッド殿下はあっさりチズ先生の追放処分を撤回した。
彼はこうやってたくさんのひとの人生を変えてきたのだろう。盤上の駒を動かすみたいに簡単に。そう思うと、なんだか素直に喜べなかったけれど。
「──フローラさま。考えこんでどうなさいました?」
船の後部デッキにでて、海上を見るともなしに見ていたらそばにいたラピスさまが話しかけてきた。
「あ……いえ……」と私は言葉を濁す。
トロフィセ王国の船が見える甲板ではなくこっちのほうにいたことで私の想いはなんとなく伝わったのかもしれない。
ラピスさまは「お辛いお役目だとは思いますが」と静かな声で言う。
「私がフローラさまのそばにおります。なにかあったとき寄りかかれる存在がいること、そのことだけは忘れないでください」
「……はい。もちろんです」
「もっとも、ああいう野蛮なことはなるべくしないようにいたしますが」
アルフレッド殿下の頬を殴りつけたことを言っているのだろう。
「あら、でも」と私はくすりと笑う。
「すっきりしましたよ。もっとやれ、って心の中で思いましたもの」
「……ほんとうですか?」
「はい!」
ラピスさまは私をまじまじと見て、それから耐えきれなくなったように噴きだした。
「そうでしたね──フローラさまはそういうお方だ」と楽しそうに笑う。
「だからあなたに興味を持ったんですから」
船のへりに止まっていたかもめが音を立てて飛びたった。
「この辺りですよ。私があなたを救いあげたのは」と青い空の下を気持ちよさそうに飛んでいくかもめを目で追いかけながら彼が言う。
「そうなのですか?」
「ええ。あのときは驚きました。白い髪をした、顔じゅう傷だらけの少女が流されていたんですからね」
無我夢中でした、と彼は言う。「自分の体に繋ぐロープを用意させる余裕もなかった。私は部下たちに声だけかけると海に飛びこんであなたのもとへ向かった。あなたの体は冷たくひえきっていて……もう息はない、と直感で思いました。
それでも私はあきらめられなくて。甲板に引きかえしたあと、必死に蘇生を試みたのです」
「無駄だとはわかっていました。あなたの肌は氷のように冷え、心臓は完全に止まっていた。
けれどどうしても見捨てることができなかった。なぜかはわかりません。あなたをここで失ったら私は一生後悔する、そう思ったのです。私は必死であなたに息を吹きこみつづけて……」
──呼吸がもどったとき、どれほど嬉しかったか。
「もしあのとき私が甲板にでていなかったら。もしあなたを見逃していたらと思うとぞっとします。……あなたはこんなにも深く私の中に入りこんできてしまったのだから」
「ラピスさま……」
私は彼の横顔を見つめる。潮風が彼の黒い髪を揺らしていた。
「それは私もです。ラピスさまに助けてもらわなかったら私はいま生きていませんし、仮にだれかに助けてもらえたとしても、あなたに出会えないままだったら……」
「……フローラさま」
「あ……だ、だから! ラピスさまに助けてもらえてよかったということです。辛いことも忘れるくらいたくさんの思い出をもらったし……感謝してもしきれないくらいで……!」
あたふたしながら誤魔化していると彼が微笑んだ。潮風で乱れた私の髪を手でなでつけ、「では、お互いさまということで」とやわらかく言う。
「……はい」
自分の故郷。実の両親が眠っている場所だというのにトロフィセ王国に帰るのは辛かった。あそこにはけして消えることのない傷がたくさん残っている。
それでも、ラピスさまが隣にいてくれるのなら。
私はだいじょうぶだと。もう自分の過去に怯えることはないと、そう言いきれる。
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トロフィセ王国の民はふたつに分かれていた。『偽聖女カリアを糾弾する』人々と、『真の聖女の帰還を祈る』人々だ。
糾弾を目的とした者たちは徒党を組み、カリアが隠れている城の前で抗議活動をおこなう。
行きすぎた場合は兵の世話になるが、聖女カリアへの疑念は兵たちも同様であることから派手な衝突はまだ起きていなかった。
また、糾弾する者たちもカリアの顔に傷をつけたという成果を得て溜飲を下げたこともあり、屋敷を襲ったときのような熱狂は見られなかった。
広場に座りこみながら、男たちのひとりがぽつりとつぶやく。
「ああ、フローラさまはよかったなあ」
「まったくだ」"偽聖女を追放せよ"と書かれた看板を掲げた男が同意する。「俺がいつ行っても笑顔で受けいれてくれた。あんなにたくさんのケガ人や病人を診て、大変じゃなかったはずないのにな」
「おれ、おふくろ診てもらった。田舎の医者に匙投げられて、どうしようもなくなってたときにフローラさまの話を聞いたんだ。半信半疑で来たらほんとに治っちまって……おれが王都に移住したのは、すこしでもフローラさまのそばにいたかったからだったのに」
「うちは親父だ。画家なのに指をケガしちまって。もう絵が描けないって絶望してたらフローラさまが治してくれたんだ」
「俺はチビがよく世話になってた。ちっちゃな傷でもぴーぴー泣くガキだったんだけど、フローラさまの顔見たらすぐ泣きやむんだよ。不思議だったな……」
「ほんとうに……フローラさまは奇跡の聖女だったんだ……」
しんみりした空気が広場を包む。やがて、最初に発言した男が「なんでこんなことになっちまったんだろう」と顔をぐしゃりと歪ませて言った。
「俺たちはフローラさまを大切にしなくちゃいけなかったのに。カリアなんかに騙されちまって」
「…………」
「フローラさまに会いてぇよ。ちくしょう。ちくしょう……!」
広場の前では『聖女フローラのために祈る会』の者たちが集っていた。
かつてフローラに仕えていたシスターたちを中心に発足されたこの会は、フローラの復活を信じて祈りつづけることを目的としている。
「さあみなさん、フローラさまのために今日も祈りましょうね」と年配のシスターが枯れはじめた大樹の前に立って言う。
人々はひざまずき、胸の前で固く手をにぎりあわせた。子供から老人まで一心に祈りを捧げる。
「フローラさま、どうかお帰りください」
「フローラさま、どうかお帰りください」と人々が唱和する。
「憐れな私たちをお救いください」
「憐れな私たちをお救いください」
「いま一度大樹を癒し、病みおとろえたこの国をお救いください」
「いま一度大樹を癒し、病みおとろえたこの国をお救いください」
そのうち小さな男の子が泣きだす。「ママ、なんでフローラさまは帰ってこないの? なんで?」と横にいる母親の服をひっぱり、「静かにして」とたしなめられる。
「ぼく知ってたもん。フローラさまは悪くないって! なのになんで牢屋にいれられちゃったの? なんで死んじゃったの?」
「静かに。いまは祈りの時間ですよ」
「フローラさまはきっと怒ってるんだ! だから帰ってきてくれないんだ! フローラさまがほんものの聖女だったのに、牢屋になんていれたから──」
「黙りなさい!」
母親は泣きわめく男の子を大樹の前からどかせようとする。その騒ぎも聞こえないかのようにシスターたちは祈りつづけていた。
「みんなだって!」と男の子は母親の手を振りはらい、置物のように動かない人々を涙目でにらむ。
「たくさんフローラさまに治してもらったのに、フローラさまが牢にはいったら急に悪く言いだしたじゃないか。はじめからわかってた、あのひとはにせものだったって。
そんなのひどいよ! フローラさまはほんものの聖女だったのに。みんな知ってたのに。なのにみんなでいじめて、大樹が枯れたらやっぱり帰ってきてほしいなんて、そんなことするからフローラさまは怒って帰ってきてくれないんだ!」
「やめなさい!」
母親が厳しく叱りつけたときだった。「おい……!」と商人の男が広場へと駆けてきた。
シスターは諫めようとしたが、彼の様子が尋常ではないことに気づいて「なにかあったのですか?」と尋ねる。
男は息を切らせながら言った。
「王太子殿下がもどられたぞ。後ろに馬車が一台ついていってる。その中に──中に──」
「なんですか?」
「フローラさまが! フローラさまが……乗っていらした……!」




