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32 届いてしまった噂



「あ……アルフレッド、殿下……」


 エプロンで左目の辺りを押さえながらカリアは城の廊下を歩く。


 白いエプロンは血で染まっていた。彼女の先に立って歩く近衛兵は顔をこわばらせていて、兵士たちはぎょっとしたあとでそれが王太子の婚約者だと気づいてあわてて壁によって頭を下げた。だがカリアにはそんなもの目に入らない。


「殿下に……はやく……」

「──こちらでございます、カリアさま」


 近衛兵は執務室のドアを開ける。机に座っていたアルフレッドはカリアを見てペンを置いた。


 カリアはふらふらと机の前に膝をつく。


「アルフレッド殿下、どうかお助けください。民衆が暴徒と化して私の屋敷を襲ったのです。優秀なメイドが私の身代わりとなって逃がしてくれたのですが、馬車に乗りこむところで顔にケガを負わされ……」


『この偽聖女が! 地獄に堕ちろ!』


 道端に停まっていた馬車に乗りこもうとした瞬間、屋敷から追いかけてきた男が振りおろした鉈の感触を思いだしてカリアはぞっとした。あとすこし位置がずれていたら死んでいたにちがいない。


「ああ、そうか」

「どうか医者を呼んでくださいませ。この国の医者はいけません、腕の鈍いものばかりです。どうか他国から……」

「そのことだが、解決しそうだぞ」


 え、とカリアはエプロンで隠れていない右目でアルフレッドを見た。


「ユジレット大陸のルシラード王国というところに聖女がいるらしい」と婚約者はカリアの傷が目に入っていないかのように言う。


「どんなケガも病も癒す──この国の聖女と同じだ。そこには既に使者をやった。もうじき連れて帰ってくるだろう」

「聖、女……。この国以外にもいるのですか……?」

「だから安心しろ。おまえのそんなケガなどすぐに治る」

「で、ですが」


 急に痛みが激しくなった。エプロンを押さえている手まで血で濡らしながら、「それまでの間はどうすればよいのですか」とカリアは悲鳴のように言う。


「こんなに血が流れていては死んでしまいます」

「そうか。ならば止血をさせよう」

「おまけに顔です。私は顔をえぐられたのです。ろくな治療をしなければ顔に傷が残ってしまいますわ」

「聖女がくればそれもすべて消せるはずだ」

「アルフレッド殿下……」


 顔は──傷口は熱いのに体が冷えてきた。

 王太子の命令を受けて、骨董品のような救急箱を持って近衛兵がやってくるのもカリアには目に入らなかった。


 なぜ、とつぶやく。


「なぜ一度も私を心配するお言葉をかけてくださらないのですか」

「その必要がないからだ。聖女は必ずくるのだからな」

「その聖女を呼んでどうするのですか?」

「まずは『生命の樹』だ。衰えた大樹を治癒させる。大樹さえ復活すればおまえも聖女の力を取りもどせるだろう。それからおまえの治癒だ」


 慣れない手つきで近衛兵がカリアの目の横の傷にガーゼをあてる。

 そのあとは、とカリアはかすれた声で言った。


「そのあとは? どうするのですか……?」

「──なにを心配している?」

「…………」

「安心しろ。この国の聖女はおまえだけだ。用が済んだらルシラード王国の聖女は国に帰す」

「ほんとうに……?」

「ああ」


 いつかの微笑と同じ笑みをアルフレッドは浮かべる。


「この国が元通りになったら私は即位する。カリア、そうしたらおまえは王妃だ」


 待ちのぞんでいたはずの言葉。

 それなのに、カリアの胸に広がったのはどす黒い不安だけだった。





 海の向こうの大陸にやったという使者は数日後にもどってきた。


 アルフレッドに本能的な恐れを覚えながらも、彼から離れたらまた暴徒に襲われるのではという恐怖からカリアは彼のそばを離れられないでいた。執務室のソファに座って使者の報告を聞こうと耳を澄ませる。


 使者はアルフレッドの机の前に来るなり、床に這いつくばって頭を下げた。


「申しわけございません! 聖女を連れてくるのに失敗いたしました……!」

「……なんだと?」


 アルフレッドの瞳が冷たく光る。「私からの手紙はちゃんと渡したのだろうな」


「無論でございます。他国の人間が大聖女の治癒を受けるには《特別入国証》というものが必要になるのですが、その審査の際に外務大臣に直接渡しました。すると大臣は大聖女の護衛騎士という男に手紙を見せにいって判断を(あお)いだらしく……大臣づてにこう言われました。

『大聖女さまはお忙しい。いまからだと百年待ちだ』と」


 王太子は机を拳で叩く。(くび)り殺しそうな目で使者を睨みつけ、「まさかそれでおめおめと帰ってきたのか?」と尋ねた。


「そ、それ以上は話すら聞いてもらえず……」

「バカを言うな。トロフィセ王国はレトレ大陸の心臓とも言える国だぞ! そこの王太子が直々に依頼したのに来ないなどということがあるか!」

「も、も、申しわけございません!」


 使者はひたいを床にこすりつける。

 その頭を蹴り飛ばしてやろうとアルフレッドが席を立ったとき、「で、ですが。少々気になることがございまして」と使者が早口で言った。


「……なんだ?」

「その大聖女の名前です。私は港より先に入れてもらえなかったので直接確認したわけではないのですが、」



「フローラと。

 大聖女の名はフローラといい、白い髪に赤い瞳をした娘だそうです」





 フローラの名を聞いたアルフレッドはすぐに船旅の支度をした。カリアはついてきたがったが、「どんな危険があるかわからない。おまえは待っていてくれ」と言って城に残してきた。


 カリアを置いてきた理由はべつにある。

 フローラを取りかえすときに横に女がいたら邪魔だから、だ。


「……まさか生きていたとはな」


 大型船は海の上を軽快に進んでいる。甲板にでて、潮風を気持ちよく浴びながらアルフレッドはつぶやいた。


 フローラ。かつてトロフィセ王国にいた聖女で、アルフレッドの以前の婚約者。


 彼女の()()はアルフレッドも確認した。後頭部から血を流した彼女は絶命しているように見えたが、仮死状態だったのかもしれない。

 そして──どんな事情でそこに流れついたかまでは知らないが──べつの大陸で大聖女としてよみがえったとは。面白いこともあるものだ。


 聖女の力を使えるのに《識別の鏡》がフローラに反応しなかったのは不可解だが、事情を調べるのはあとでいい。いまは彼女に会いにいくのが先だ。


「僥倖、だな」

「なんでしょう?」と近くにいた側近の男が聞きかえす。


「だってそうだろう? 赤の他人ならいざ知らず、フローラが大聖女だったのだからな。あれだけ私に惚れていた女が」


 フローラは初々しい少女だった。

 手をにぎっただけで顔を真っ赤にして、婚約を申しこんだときは涙を浮かべて喜んでいた。アルフレッドに夢中になっていたのは間違いない。


 いくら大聖女と呼ばれていても、あの酷い顔の傷では男どころか同性の友人を作ることすら難しいだろう。憐れな娘。

 そこにかつて惚れていた男が手を差しのべれば、彼女はあっという間に当時の気持ちを思いだしてアルフレッドにすがりついてくるはずだ。


「国に連れて帰ってきたら今度こそほんとうに妻にしてやるか。ああ、だがあんな傷があってはダメだな。せいぜい愛人か。それでもあの女には過ぎた身分だろう、喜びのあまり気絶してしまうかもしれないな」


 側近はなにか言いたそうな顔をした。だが結局は一言も言えずに口を閉ざす。


 船は確実にルシラード王国へと近づいていた。

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