31 なにげない幸せ/命取りになったのは
「……他国の方からの依頼がぽつぽつ増えてきましたね」
大聖女としての活動中、ラピスさまの屋敷のテラスで一息つきながら私は彼に言う。
お城に引っ越してからまだ三ヵ月くらいしか経っていないのに彼の屋敷はなんだかすごく懐かしい。スキーニさんが嬉しそうに淹れてくれた紅茶をすすってからラピスさまは、
「レトレ大陸とちがい、ユジレット大陸には聖女と呼ばれる存在はおりません。最初は半信半疑で様子を見ていたのでしょうが、フローラさまの力が事実だとわかって申しこみが増えたようですね」
今日は三人のうちひとりがルシラード王国の外からきたひとだった。元時計技師で、大ケガの後遺症でまったく動かなくなってしまった体を動かしてもらいにきたのだ。
他国のひとでも依頼を受けるまでの流れは変わらない。
まずドミノ先生の診察を受け、彼が大聖女の力がなければ回復が見込めないと判断した患者の情報がマリウスさまに回される。マリウスさまは傷や病状の重さを鑑みて大聖女が診る順番を決め、六日分のリストをまとめてラピスさまに渡し、それに基づいて私たちは国中を回る……というわけだ。
国外のひとは最初に大聖女の治癒を希望する《特別入国証》を国に発行してもらう必要があるけれど、ちがいと言ったらそれくらい。他国のひとだからといって特別対応が変わることはなかった。
──私が気づいていないだけかもしれないけれど……。
「フローラ、ラピスさま、マドレーヌが焼きあがりましたよ。冷めないうちにどうぞ」
杖をついたチズ先生と、丸い形をしたマドレーヌが載ったお皿を持ったスキーニさんがテラスにでてくる。レモンのいい香りがふわりと広がった。
「チズ先生のマドレーヌ!」と私はイスから立ちあがって目を輝かせる。チズ先生はにんまり笑った。
「ここにも同じ食材があって安心しました。──あなたはこれが好きでしたよね、フローラ。貴族の方に献上するものを作りながら、いつか大皿いっぱいのマドレーヌが食べてみたいと言っていましたっけ」
「そ、そんなこと言いましたか……?」
想像したのかラピスさまがくすっと笑う。
「大皿いっぱいではありませんが──」とチズ先生はテーブルの上に置かれたマドレーヌを前に微笑む。
「好きなだけ召しあがれ。レシピは当時のままですからね」
「ありがとうございます!」
「チズ先生、よろしければこちらへ」とラピスさまが腰を浮かせてイスを勧めたけれど、「いえいえ、あなたたちのお邪魔はしませんよ」とチズ先生は首を振った。
「チズ先生、すごくおいしいです! 先生のマドレーヌをこんなに食べられるなんて夢みたい! あ、ひとつ持って帰ってもいいですか? アンにも食べさせてあげたいんです」
「どうぞ。ひとつと言わずいくつか包んであげましょうね」
チズ先生は満足したように室内に入っていく。スキーニさんも紅茶のおかわりを淹れてくれたあとで先生を追いかけた。
「おふたりはお見かけするたびに仲睦まじくなられていますね、なによりです」と冷やかしてから。
「……そ、そうですか?」
「スキーニの言うことなら間違いないでしょう」
「……なら……嬉しいです」
「ええ。私も『大聖女さまに気安く触れるなオーラ』を出しながら任務にあたっている甲斐があるというものです」
「そんなものを出しているんですか!?」
「すこしだけですよ」とラピスさまは笑う。
それから、失敬と言って私の顔に手を伸ばしてきた。指で唇の端をぬぐわれてどきっとする。
「す、すみません! なにかついてました?」
「いいえ。私がフローラさまにふれたくなっただけです」
「……!」
私は顔を真っ赤にするけれどラピスさまは楽しそうに笑っている。
「外でそういうことしないでください……っ!」「では中でやりましょう」「そういう問題じゃなくて!」と言いあう私たちを室内からチズ先生とスキーニさんが微笑ましそうに見ていることに気がついたのは、もうちょっとあとでだった。
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場所は変わり──トロフィセ王国。
頭をケガした青年を治癒できなかったときからカリアはずっと体調不良を口実に治癒行為を中断している。
しかし、この国における聖女の扱いは医療機関そのものだ。なにかあったらまず聖女に。そんな考えが根づいている国民たちは、『聖女の治癒』という自分たちが持っている当然の権利を反故にされて初めは戸惑った。そして時間が経つうち、それは聖女カリアへの疑いに変わっていく。
『なぜ聖女はいつまでも屋敷に閉じこもっているんだ?』
『ほんとうに治癒行為を再開する気があるのか?』
やがてシスターのひとりが『生命の樹』が萎れていることに気がついた。そのことは治癒行為をやめた聖女と結びつけられる。
『『生命の樹』が力を失ったから聖女も力をなくしているのでは』──ではなく。
『偽聖女が力を使った。だから『生命の樹』が影響を受けた』というふうに。
かつてはだれもが無償で聖女の治癒を受けられた。それが、カリアが一部の富裕層しか診なくなったことで国民たちは聖女への不満を抱くようになっていた。
その不満は国の守り神である『生命の樹』が萎れているという不安を解消するための攻撃へと転ずる。
すなわち。
『偽聖女を処罰すれば、『生命の樹』は力を取りもどす』──と。
カリアの屋敷は固く門を閉ざしている。
その前に集まっているのは木の棒や鉈を持った男たち。中にはホウキを持った女も混ざっている。
「門を開けろ!」と一際体格のいい男が屋敷に向けて叫んだ。
「聖女カリア。おまえの聖女としての資格を問いたい。俺たちの前で《識別の鏡》の前に立て!」
「出てこないってことは自分が偽物だって認めるってことだぞ!」
「どうした! なんで出てこようとしない! ほんとうは聖女の力なんて持ってないんじゃないのか!」
口々に叫ぶ男たちに混ざり、ホウキを持った女も声を張りあげる。
「うちの子はねぇ、あんたが治癒しなかったおかげで体に後遺症が残っちまったんだよ! あんたが診てくれりゃなんてことはなかったのに。おかげで一生杖をついて歩かなきゃならない! まだ六歳の子供がだ! どう責任取るんだい!」
「うちの旦那も腕が動かなくなったんですよ。田舎の医者に連れてったら、骨が変にくっついちゃったんだろうって。あなたがすぐに治してくれればこんなことにはならなかったんです!」
「俺のかみさんだって──」
「うちのじいさんだって──」
「国王陛下と妃殿下もあなたが見殺しにしたようなものじゃないですか……!」
「そうだ!」と人々は唱和する。「どうしておふたりを救わなかった! ほんとうにおまえは聖女なのか!?」
「きっとフローラさまなら──」と女のひとりが思いつめたようにつぶやいた。「きっとフローラさまなら、私たちのこともおふたりのことも救ってくれたでしょうに」
フローラ。聖女を騙った罪人の名を聞いて、場がしんと静まりかえる。
……そうだ、とやがてだれかがつぶやいた。
「フローラさまこそが真の聖女だったんだ」
「カリアは偽物だ。それなのに俺たちは騙されていたんだ!」
「偽聖女を出せ! 俺たちの手で吊るしあげろ!」
「俺たちを騙しやがって!」
頭に血が上った男たちは門を乗りこえてゆく。だれかが内側から門の鍵を開け、残りの集団も敷地内へとなだれこんだ。
屋敷の扉に鉈やスコップが打ちつけられ、窓ガラスが無残に割られる。
かれらが建物の内部に侵入するのも時間の問題だった。
「──あんた、私の身代わりになって」
「え?」
カリアは自室ですべて聞いていた。
室内にいるのはカリアとメイドのふたりだけ。両親は親戚を頼って夜の間に国外へ逃げた。ほかの使用人たちも逃げるように辞めていった。
残ったのは聖女の側近の男と、このぼんやりした顔のメイドだけ。
側近の男は暴徒から聖女を守るために階段の前で待ちかまえている。メイドはなにを言われたかわからないという顔をした。
「私のドレスを着るの。はやく」
「はぁ。なんででしょうか」
「メイドなんてあいつらには格好のエサでしかないわ。見つかったらめちゃくちゃにされるわよ。でも聖女の私ならだいじょうぶ。あいつらも滅多なことはできないはず。私がかわりにメイド服を着てあげるから、あなたは自分の身を守るために私の格好をしなさい」
「あのー……さっき、カリアさまは『私の身代わり』と」
「聞き間違いでしょう」
ほらはやく、とカリアはメイドを見下ろした。
「はぁ……」とメイドは腑に落ちない顔をしていたが、やがてのろのろとメイド服を脱ぐ。
「はやくしなさい!」
頭の回転が悪いこのメイドがカリアは嫌いだった。いまなぜこの屋敷が襲われているか、彼女に聞いてもなにもわかっていないにちがいない。
だからこそ使い道がある。
屋敷に置いておいても邪魔なだけの彼女を雇っておいたのは、背格好がカリアに似ているから。それだけの理由だった。
「──ほら、ウィッグもあるわ。あら素敵。よく似合っているじゃない」
「嬉しいですぅ」
ふたりは服を交換した。カリアはこのときのために用意していた赤髪のウィッグをメイドにかぶせ、自分も黒髪のウィッグをかぶる。そしてお互いにスカーフで顔を隠した。
メイドは一生着る機会のない豪華なドレスに目を輝かせ、ドレスの裾をつまんでその場でくるりと回ってみせた。小さな子供のように。
(バカな子。……でも、役に立ったわね。最後の最後に)
階下からは側近の男と暴徒たちが戦っている音が聞こえてくる。もう長くはもたないだろう。
「あなたはここにいなさい。私はドアの前であなたを守るから」
「はーい。カリアさま、がんばってくださいね」
「ええ、お嬢さま。さようなら」
カリアがメイドの真似をしてそう言うと、主人の格好をした彼女はおかしそうにけらけら笑った。自分が生贄になったとは知らずに。
カリアは部屋をでると廊下の奥へ向かう。物置にある隠し扉から細い階段を下りて、地下道を通り、庭の物置の中へと出た。
屋敷からは壁や家具が好き放題壊される音が聞こえてくる。この混乱に乗じて宝石を盗むやつもいるにちがいない。
カリアは舌打ちしたが、かまっている場合ではなかった。正面の門のほうには野次馬が集まっているので裏口から外へ出ることにする。
(アルフレッド殿下のところまで行けば……)
城に逃げこめばだれも手出しできないはずだ。それからのことは逃げきったあとで考えればいい。
「おい、こいつは偽物だぞ!」
「本物はどこだ!?」
側近は早々と降参したと見える。カリアの部屋の窓からそんな声が聞こえてきた。
替え玉はすぐにバレたらしい。まあいい、あのメイドにはたいして期待していない。あの女がどうなろうとどうでもよかった。
(こんなところで終わるわけにはいかないわ……)
使用人用の小さな門をでたときだった。
「あ」騒ぎが気になってやってきたのだろう、道に立っていた女の子とばっちり目が合った。
彼女は不思議そうにつぶやく。
「カリア、さま?」
──その声は庭を見回っていた暴徒のひとりの耳に届いた。
「カリアだって?」と訝しそうにやってくる足音を聞いて、カリアは女の子を突き飛ばして走りだす。彼女が持っていた果物がごろごろと地面に散らばった。
「きゃあっ!」
(どうして!? どうしてこんなタイミングで……!)
「カリアさま、待って! カリアさまはほんとうに具合が悪いんですよね? 待ってください、カリアさま! カリアさま……っ!」
彼女の声を聞きつけて屋敷にいた暴徒たちまでが裏庭へと集まってきて、「あの女はあっちに逃げたぞ! メイドの格好をしてる!」という男の先導でカリアを追いかけはじめる。
(あの子さえいなければ……っ!)
その女の子がかつて、体調を崩したと言って大聖堂での治癒を途中でやめて帰るときに花をくれた子だということにカリアが気づくことはなかった。永遠に。