20 魔女との別れ
シドさんに『天恵の花』の話を聞いてから私は一睡もせずラピスさまの帰りを待ちつづけた。
「すこしは寝ないとおまえが倒れるぞ」とシドさんは呆れたけれど、ラピスさまだって寝ていないにちがいない。だいじょうぶですと私は答え、暇さえあればラピスさまのために祈った。
そして三日目の朝──。
表にいるシルバがあおんっと吠えた。怪しいひとを見つけた声ではなく、客を歓迎するような声。
私は家の外へと飛びだす。
「こら、シルバ。そう飛びつかれたら歩けないだろう」
「ラピスさま!」
シルバがラピスさまの腰に飛びついてちぎれそうな勢いで尻尾を振っていた。あちこち傷だらけの彼は、私を見て「ただいま、フローラ」と笑う。
「おかえりなさい……っ!」
私はラピスさまに駆けよった。
ラピスさまは懐から一輪の花を取りだして私に見せる。白地に紅いラインが入った、想像よりも小さな花だった。百合の花に似ているけれど香りは果実に近い。
「『天恵の花』というんだ」とラピスさまはすこしやつれた顔で笑った。
「これを煎じて飲めばどんな傷痕も消えるとシドが言っていた。……フローラ。あなたはもう、顔の傷のことでだれかに引け目を持たなくてよくなるんだ」
「そのために──危険な旅を?」
「危険なんて。あなたを想えば、そんなものないも同然だ」
私は彼の手を取った。せめて傷を癒せるよう力を込めようとしたとき、「あかんわ、フローラ」と私がなにをしようとしているか察したらしいラピスさまが手を引きぬいた。
「いえ、これくらいさせてください。私のためにラピスさまはこんなに傷だらけになられたのですから」
「これくらい舐めときゃ治るわ。いらんいらん。あのときは特別やったけど、自分の力は自分のために使い」
「ですが……!」
ラピスさまは私の頭をぽんとなでる。「フローラの気持ちはちゃんと伝わっとる。ありがとな」
そしてお腹を見せて地面に転がりはじめたシルバに「なにやっとんねん」と苦笑すると家の中に入っていった。かわりに私がシルバのお腹をなでつつ、ラピスさまが言ったことを考える。
──大聖女の力。それは、だれかのためのものではないということ……?
でもこの力は自分には使えない。他人の傷と病を癒すものなのに。
「……なぞなぞみたいね、シルバ」
銀色の狼は気持ちよさそうに私になでられている。
家の中にもどると、シドさんが奥の実験室に入っていくところだった。
「薬ができるには半日くらいかかるらしいわ」とラピスさまが私を振りかえって言った。
「俺はそれまで寝るな。タイムリミットがあったからずっと動きっぱなしやってん」
「ええ、わかりました」
と言ってもこの家に客用のベッドはない。毛布にくるまって、積みあげられた本の間で座って眠るしかないのだけれど。
私は自分が借りている毛布を彼のところに持っていく。ラピスさまはリビングの壁に背をもたせかけ座っていた。
私が毛布を渡すと、「フローラもこっち来ぃや」と言う。
「え?」
「シドから聞いたで、一睡もせず俺のこと待っとったてな。ほんま健気やなぁ」
「私が勝手にしたことですから……」
いいから、と彼は自分の隣を手で叩く。
すこし迷ったけれど私はラピスさまの隣に座った。彼は私の体にも毛布をかけてくれる。
「こうしてくっついとるとぬくいな」
「そ……、そうですね……」
「緊張しとる?」
「……はい。すみません」
「謝らんでええよ」
彼は私の肩に腕を回してくる。「緊張するってことは男として見られとるってことやろ?」
「え、えっと、あの」
「せやからかえってほっとしたわ。俺はな……本気で……」
「え……?」
「…………」
「……ラピスさま?」
「睡魔や……。睡魔がきたで……」
彼の体がすこしずつ私に寄りかかってくる、と思ったらがくっと彼から力が抜けた。
どうやら眠ってしまったようだ。すぐそばで聞こえる寝息がくすぐったい。
「……ありがとうございました、ラピスさま」
私は自分の前にある彼の手を両手でそっとさする。
ラピスさまの傷がはやく治りますように、と祈りを込めて。
そして宣言通り半日で『天恵の花』を使った薬が完成した。
試験管に入った薬は透明で、透きとおった紅色が中で螺旋模様を描いていた。匂いはなにもしない。
シドさんを見ると黙ってうなずいた。私もうなずき返し、薬を一気に飲み干す。
「っ……、痛……」
薬が胃へと流れおちた途端、顔じゅうが熱く痛みだす。私は立っていられなくてしゃがみこんだ。かちりと音を立てて試験管が床に落ちる。
「フローラ、だいじょうぶか!?」
私の悲鳴を聞いてラピスさまが実験室に飛びこんでくる。そして私のそばにひざまずいて肩に手を置いてきた。
「あ……ああ……っ!」
私は両手で自分の顔を覆う。熱い──痛い──!
「フローラ。フローラ……!」
……やがて潮が引くように熱と痛みが私の顔から消えていった。
私が痛みを感じなくなったことを見てとって、「ベールを」とシドさんが言う。
私は自分の顔を隠していたベールを外した。
何度か瞬きをして、隣にいるラピスさまを見つめる。
薬が効いたかどうかは確かめなくてもわかった。
「……よかった……」
感極まったようにラピスさまが言って、私を力強く抱きしめてくれたから。
私が思わず泣きだしてしまうくらいに。強く。
あとからシドさんが手鏡を渡してくれたけれど、私の顔の傷はひとつ残らず消えていた。
「これで借りは返したぞ」。そう言うとシドさんは荷造りをはじめた。夜の闇に乗じて新しい栖に移るという。
私たちも引きあげることにした。いつものように村で一泊して、朝早く帰る予定だ。
魔女の家の前で私たちは向きあう。シルバは言葉はわからなくてもなにか察したらしく、お別れを言うように私とラピスさまの足の間を一周してシドさんのもとへともどった。
「手紙くらいは出してやる。またなにかあったら訪ねてこい」
「シドさん、ほんとうにありがとうございました」
「礼なんていらない。それ相応の対価はもらったからな」
黒いローブをまとった魔女は私たちに背を向ける。「じゃあな」と片手をあげると、シルバと一緒に家の中へ入っていった。
私たちは顔を見合わせる。
「帰るか、フローラ」
「……はい」
差しだされた彼の手を私はにぎりしめる。
「ラピスさまがおっしゃったことを考えてみたのですが」と夕闇の森を歩きながら私は彼に話しかけた。
「なんやったっけ」
「自分の力は自分のために使うべき、です。でも聖女の力は他人にしか使えません。どういう意味なのだろうと考えていたのですが」
よろけた私をラピスさまが支えてくれる。すみませんと謝って、私は彼の顔を見上げた。
「ひとり、どうしても治したい方がいるのです。いつも微笑んでいらっしゃる、とても素敵な方。私はその方のそばで思いました……聖女の力があればこのひとを治せるのに、と」
「…………」
「私はその方にこれからもずっと微笑んでいてほしいのです。だれかの願いではなく、私自身の願いとして。その方のために力を使うことは──自分のためになりませんか?」




