16 病床のチレット夫人
その夜、私はおそろしい夢を見た。
──ダメ、もう足が……!
私はたくさんのひとたちに追われている。
必死に走って逃げるけれど、でも足がもつれて転び、ついに捕まってしまう。
──さあ立て、国を惑わした魔女め!
──ちがいます! 私はただ……!
──抵抗するな! この場で首をかっ斬るぞ!
私は引きずられてゆく。牢の中へ。
私は引きずられてゆく。断頭台へ。
私は……
「フローラ、起きろ! だいじょうぶか!」
「う……」
ラピスさまに揺りおこされて私は悪夢から目覚める。全身にじっとりと汗をかいていた。
「うなされとったわ。ひどい夢やったらしいな」
「ええ……」
ラピスさまは私の夢をシドさんがよみがえらせた記憶にまつわるものだと思ったようだ。深く聞いてこようとしない。
私もそのせいで悪夢を見たのかと思ったけれど、夢の中の景色と私の記憶の中の景色にはちがいがあった。建物などが随分古かったような……。
──でも、夢なんてそんなものかな。
カーテンの外は暗い。村にはまだ朝はきていないようだ。
私はラピスさまに「もうだいじょうぶです」と言ってシーツをかけなおし、悪夢のことはそれ以上考えることをやめた。
あとにして思えば。
このときの夢こそが、私のほんとうの正体への手がかりだったのに。
ドミノ先生と看護師さんと一緒に馬車で往診にでかける。
今日は貴族の屋敷が中心だ。近くにいる医師よりもドミノ先生に診てほしいと頼むひとたちが多いという。
先生の往診鞄を見ていると、ラピスさまの屋敷で彼に治療してもらったことを思いだす。私のケガはもうすっかりよくなった。強くさわらなければ痛まないほどに。
三軒目はチレット公爵夫人のところだった。
彼女は体が石のように重くなって動かなくなっていく難病にかかっており、自分ひとりでは体を起こすこともできない。もう一年以上ベッドの上だという。
それでも夫人は唯一自由な顔を動かし、診察が終わるときには必ず笑顔でお礼を言う。素敵な方だ、と思わずにはいられなかった。
「──ねえ、フローラさん」
私たちが引きあげようとしたとき、夫人にそう声をかけられた。「はい?」と私が振りかえると、夫人は笑顔で、
「よければすこしお話できないかしら」
「ええと……」
「そんなに引きとめないわ。先生と看護師さんはお茶でも飲んで待っていらして。ダメ?」
私はドミノ先生を見る。
私の仕事は簡単な手伝いだ。看護師さんがいれば支障はないと判断したらしく、先生はうなずいた。
「ありがとうございます、先生」とチレット夫人は目を細める。
ドアが閉まる音を聞きながら、私はさっきドミノ先生が座っていたベッドの横のイスに座った。
「手をにぎってくれるかしら」と夫人に言われ、私は彼女の手を両手でにぎる。
……冷たい。
その手が冷えきっていてどきりとした。見た目はふつうの手なのに、氷のように冷たくて石のように硬い。
思わず彼女の手をさすると、「ああ、気持ちいい」と夫人はまぶたを閉じた。
「フローラさんに手をにぎってもらうと楽になるってみんなが言っていますよ。ほんとうなのねえ」
「みんな、ですか?」
「患者仲間。私みたいに動けなくなっちゃったひとはいないけどね、みんなここへやってきていろんな話をしてくれるの」
チレット夫人にはきっとたくさんの友人がいるのだろう。
病気などわずらっていないかのようにいつもにこやかで、私やドミノ先生への気配りも欠かさない。
それだけに、どうして彼女がこんな重い病に……と思うと辛かった。悪人ならかかってもいいというわけじゃないけれど。
そして夫人にはまだ小さなお子さんがいる。ベッドの上からしか我が子の成長を見守れないというのはどんな気持ちなのだろう。どれほど苦しいだろう。
私の心情を汲みとったように、「──そうねえ」と夫人はつぶやく。
「この病気になって一番苦しいのは、やっぱりデニーと遊べなくなってしまったことね。ドミノ先生が感染症じゃないと明らかにしてくださったからいいものの、それがなかったらいまも離ればなれになっていたと思うわ」
私は今年で二歳になるデニーのきらきらした瞳を思いだす。
私たちがここにきたとき、彼は乳母の腕に抱かれたまま手を振ってくれた。乳母にはよく懐いているけれど、それでもママがいい、ママじゃなきゃいやだと暴れるときがあるらしい。
私がその話をすると、「私もほんとうはデニーにこの部屋にずっといてほしいのだけれど……」と、夫人は初めて笑顔を消して目を伏せた。
「でも、私はもうじき死ぬでしょう?」
「そんな……」
「いいの、わかっています。ドミノ先生はいつも真剣に診てくださいますし、食事にも気を遣ったほうがいいと毎回ちがうレシピをメイドに渡してくださいます。それでも……私は来年の春を迎えられないでしょう」
「……そんなことおっしゃらないでください。デニーくんが悲しみます」
「そうね。だから、私が死んだときすこしでも悲しまないように私から離れる練習をさせているの」
「…………」
「これもすべて神さまが定めたことです。私たちはそれを受けいれないといけない。
でも……それでもね、デニーのことを考えると胸がぎゅっと痛むのよ。もう一度あの子を抱きしめたかった。あの子が大人になっていくところをそばで見ていたかったって。仕方ないことなのに、考えれば考えるほど胸が痛んで。
それでフローラさんに手をにぎってもらったの。ああ、楽になった。ありがとう」
私は首を振り、チレット夫人の手をにぎりしめる。こんなことしかできないのが苦しい。私に病気を治す力があれば……
──"聖女"
その二文字が頭に浮かんできて私ははっとした。
もし私が聖女なら。海の向こうの国で、人々の病気を治していたのなら。
私の力さえもどれば──チレット夫人を治せる……?
「フローラさん? どうかした?」
「……いえ、」
まだ確定じゃない。下手に希望を持たせることは残酷だと私は口をつぐむ。
それでもチレット夫人になにか言ってあげたくて、「あなたはきっと治ります。だいじょうぶですよ」と彼女の手をきつくにぎりしめて言った。
チレット夫人は優しく微笑んだ。他愛ない夢の話でも聞かされたみたいに。
往診があった日の真夜中のことだった。
だれかがヒューベル邸の扉をどんどんと激しく叩いている。チレット夫人のことが気になって眠りが浅かった私はそれで起きてしまい、ゲストルームの外にでた。
吹きぬけになった二階から玄関ホールを見下ろす。
真夜中の来客なんて物騒だ。執事長が警戒した様子で扉を開けた。
飛びこんできたのは短い黒髪の男性。
執事長に向けてなにやら異国の言葉でまくしたてていたが、「こちらの言葉でしゃべってくれ」と言われて我に返ったように話しなおした。
「頼む。ラピス殿と会わせてくれ」
「何の用だ?」
「緊急なんだ!」
自室からでてきたラピスさまが大階段を下りていく。
「どうした」と問う声がホールに響きわたった。
「ラピス殿!」
「あっ、おい!」
執事長の制止も聞かずに男性はラピスさまのもとへ転がるように走っていく。
「ヤンか……」とラピスさまは手燭で男性の顔を照らした。その顔はひどく腫れていて、私は小さく悲鳴をあげる。
ラピスさまはちらっと私を見た。すこし考えたあとで「フローラもこちらへ」と私を呼ぶ。
私が彼の近くまで行くと、「このひとがヤンだ。サンザシ共和国出身の薬師」と紹介してくれた。
「だが、深夜にその顔で飛びこんでくるとは穏やかじゃないな。なにがあった?」
「シドの存在を嗅ぎつけられた」
「……なんだって?」
「顔、殴られて。話さないと指を一本一本折っていくって言われて……すまねえ。吐いちまった。あいつら、キルケの森に向かった」
「あいつらというのは?」
「サンザシからきた魔女討伐隊だ。あいつら──」
「シドを、今度こそ殺すつもりだ……」