12 『禁忌の魔女』
魔女が住んでいるというキルケの森はルシラード王国から見て西にある。
ラピスさまの愛馬──名前はアレクサンダーで、マリウス王子さまから賜ったという。すらりとした美しい白馬だ──にふたりで乗っていこうとラピスさまは言った。
魔女が自分を訪ねてきた者にたいしてどのような態度に出るかわからない。部下をぞろぞろ引きつれて無用な警戒心を抱かせることは避けたい、と。私ももっともだと思った。
「フローラはなにもしなくていい。もっとリラックスしていてくれ」
「は、はい」
そうは言っても、アレクサンダーにふたりで乗るとラピスさまが私を横から抱きしめているようなかたちになって、服越しに伝わってくる彼の体温にどきどきした。とてもリラックスなんてできない。
アレクサンダーは羽でも生えているみたいに軽快に草原をかけた。途中、休憩をはさんで十時間。ようやく私たちは鬱蒼とした森の前にたどりついた。
「だいじょうぶか、フローラ」と先に降りたラピスさまが私をかかえるようにして降ろしてくれる。
腰やお尻が痛かったけれどまさかそんなこと言えない。だいじょうぶです、と私はドレスの裾やベールを直しながら答えた。
「ここからはアレクは連れていけないな。待てるか?」
ラピスさまに問われ、アレクサンダーは一声鳴いてみせる。まるで言葉がわかっているみたい。
彼は愛馬の顔をなでてやると手近な木にアレクサンダーを結びつけた。
「さあ、行こう」とラピスさまが革手袋をはずして私に手を差しだす。
きょとんとしていると彼が苦笑した。
「手ぇ取ってくれや。ここからは足場が悪いさかい、繋いどかんと転ぶで」
「あっ、そういうことなのですね」
「まったく……」
森の中は根っこが飛びだしていたりところどころぬかるんでいたりで歩きにくいことこの上ない。
森を歩くとわかっていたから彼がブーツを用意してくれたけど、それでも体のバランスを崩しかけることが何度もあった。そのたびにラピスさまが支えてくれたけれど。
「大変やろ、もう背負っていこか?」
「だ、だいじょうぶですから……」
「お姫さま抱っこも受けつけとるけど」
「だいじょうぶですってば……!」
地図を頼りに道なき道をゆくこと二十分。
急に視界が開けて、木でできた家が現れた。一階建てのこじんまりとした家。
「……あれか?」
「そう、ですね……」
ごくごくふつうの家だ。変な装飾もなければ怪しい染みもない。
私たちは顔を見合わせて──
ワォンッ、という犬の声に息を呑んだ。
彼はすぐに声の出所を突きとめ、「フローラ、私の背後に」と私を自分の背中に隠す。
「あれは……」
犬かと思ったがどうやら狼のようだ。
銀色の毛並みを持つ獣は木立の間から姿を現すと、鋭い牙を剥きだしにしてラピスさまに向けてうなる。いかにも強暴なその姿にどきりと心臓が跳ねた。
「森の先住者か。おまえの栖に無断で上がりこんだことは詫びるが……」彼は腰に差した剣の柄に手をかける。
「こちらにも事情がある。私と彼女に危害を加えようとするのなら──斬るぞ」
ラピスさまの殺気を感じたらしく、狼の表情が一変した。
立ちどまってこちらを見ていたかと思うとぱっと尻尾を巻いて逃げていく。
その先にはひとりの女性がいた。
「……その地図。ヤンの紹介か」
狼は彼女の足元にぺたんと座りこむ。
黒髪を短く切った妙齢の女性。黒いローブをまとった彼女こそが──
「『禁忌の魔女』だな?」
ラピスさまの問いかけにふんと彼女は笑った。
「私は自分の知識欲を満たしただけだ。禁忌など知らん」
『禁忌の魔女』はシドと名乗った。
彼女は家に私たちを招き、適当に座るよう言った。でもイスは彼女が座っている一脚だけだし床には本がうずたかく積みあがっていて座る場所なんてどこにもない。
仕方ないので私たちは立ったまま話をすることにした。
頭を打った衝撃で記憶をなくしてしまったこと。もどる兆しが見られないこと。だから、記憶を取りもどせるような薬を調合してほしいこと……。
私が話を終えると、シドさんは退屈そうにあくびをする。
「記憶を取りもどす薬は作れる」
「ほんとうですか!」
「でも、私は魔女だ。タダ働きなんてしない。ひとつ願いを叶えたらひとつ代償をもらう。意味がわかるな?」
「金ならいくらでも払おう」と私に隣にいるラピスさまが言う。「ほかに欲しいものがあるなら、どんな手を使っても入手すると誓う」
シドさんは首を横に振った。
「ご主人、依頼人はあんたの奥さんだ。奥さんの願いの代償は奥さん自身に払ってもらわなきゃあならない。
だから──フローラ、と言ったな──フローラ、あんたに聞きたい。あんたは私になにを差しだせる?」
「──私は……」
「なにもありゃしないだろう。記憶をなくし、名前以外持っていないあんたには私という魔女に差しだせるものがなにもない。そうだな?」
私は肯定するしかなかった。きれいなドレスはラピスさまに買ってもらったものだし、病院で稼いだお金はいつかヒューベル家に返すためにとっておかなくてはいけない。
なにか代償を。そう言われても、私にはシドさんに渡せるものがなにもなかった。
「ならばこうしよう」とシドさんは人差し指を立てる。
「ベールの下の、その傷。私がその傷を治してやる」
私はびくっとした。傷があることはベールに覆われて見えないはずなのに。
「治せるのですか……?」
「一度には治せない。だから、一回につきひとつ消してやる。そして……そのかわりに、あんたは忘れている辛い記憶をひとつ思いだすんだ」
「────」
「私が傷を治す。その代償にあんたは忘れていればよかったような忌まわしい記憶を思いだす。どうだ? いい取り引きだろう?」
「そんなことをしておまえになんの得があるんだ」とラピスさまが詰問する。シドさんは澄ました顔で答えた。
「わからないのか? 私が魔女と呼ばれているわけは、他人の感情をもてあそぶことが好きだからでもあるんだよ」
「おまえ……!」
「もちろん決めるのはそっちさ。人間の脳は不思議なものだ、どんなきっかけで記憶がもどるかわからない。私に頼らず自力で思いだすのもありだろう」
「思いだせるのは辛い記憶、だけなのですか……」
「私が呼びおこすのはな。だが、それに付随してまともな記憶もよみがえることは充分ありうる」
「…………」
「傷も消えて記憶もよみがえる。いい取り引きだと思うが?」
ラピスさまが私の肩に手を載せた。
「……フローラ。こんな話に乗るべきじゃない、帰ろう」
「…………」
「フローラ……?」
すみません、と私は彼に謝る。彼の心配は痛いほど伝わってきたけれど。
「その取り引き──受けさせてください」
魔女はにやりと笑った。
私の答えを聞くなり、薬を調合するからとシドさんは奥の部屋に移動してしまった。
どれくらいかかるかもわからない。見るともなしに本の背表紙を見ていた私に「ほんとうにいいのか」とラピスさまが話しかけてくる。
私はうなずいた。
「いまはどんな手がかりでもほしいのです」
「辛い記憶であっても、か」
「はい……」
彼はなにか言おうとしたけれど、けっきょくはなにも言わずに口を閉じる。
記憶がもどらなくてもヒューベル家にいればいい──そんな意味のことを言おうとしたのではと私は思った。彼は優しいから。
どれくらい待ったのかはわからないけれど、やがて奥のドアが開いてシドさんが私を手招きした。いってきます、と私は心配そうなラピスさまと別れて奥の部屋へ行く。
奥の部屋には試験管やら天秤やら巨大な鍋やら、いかにもな道具が点在していた。シドさんは「ほら」と透明な液体が入った試験管を私に差しだす。
「これでひとつ傷が消える」
「……あの、このタイミングで言うのも変なのですが」
「なんだ?」
「私たちは夫婦ではありません。私は、ラピスさまの家でお世話になっているだけの居候で……」
「はあ? 嘘だろ?」
「ほんとうです」
「だって、あの男はどう見てもこいつにべた惚れ……」とシドさんはぶつぶつ言っていたけれど、「まあいい、とにかく飲め」と手を振った。
私はうなずく。
薬はなんの匂いもしなかった。これで効くのだろうか、と思いながら試験管に口をつける。
甘い……リンゴのような味が口の中に広がった。そして、
「う……っ」
数秒後、顔が焼けるように熱くなる。
手から試験管が落ちて床に転がった。私は両手で自分の顔を覆い、
「あ……ああ……っ!?」
──その熱が引くのを待って。魔女が、手鏡を私に向けた。
私はおそるおそるベールをはずし、自分の顔を鏡に映す。
「……ほんとう、に……」
左頬にあった一筋の傷がきれいに消えていた。
ほんとう、だったんだ。『禁忌の魔女』の力は。
「さあて」
ほかの傷は変わらず顔にある。でもひとつ消えただけでも涙がでるほど嬉しくて、喜びに浸ろうとしたときシドさんがそれを断ちきるように言った。
「代償をもらわないとな。あんたの忌まわしい記憶をひとつ、よみがえらせてやろう」
彼女は私に向けて手を伸ばす。
よみがえった記憶は──。