10 記憶の手がかりを求めて(1)
そんなどたばたはあったけれど、ほかにトラブルらしいトラブルもなく毎日は穏やかに過ぎていく。
医者に診せるのは二日で一回でいいと言われていた。新しく仕立ててもらった藍色のドレスとベールを身にまとった私はドミノ先生の治療を受ける。
彼の傍らで大型の鞄から器具を取りだしている看護師の女性を見ているうちにふと思った。
「ドミノ先生──私を病院で雇っていただくことは可能でしょうか?」
「きみを?」と小太りの先生は聞き間違いかというふうに瞬きをする。
「きみは記憶を失っているでしょう。それで働くなんて無理ですよ」
「でも、いつまでもそんなこと言っていられません。ヒューベル家の方々にずっと甘えているわけにもいかないのです。いずれ……この家をでないと」
「きみはラピス殿の恋人だと伺いましたが」
「そ……れは」
ヘルミーネさまとの婚約を解消した理由が私である以上、それを表立って否定するわけにはいかなかった。
「それはたとえばの話です。ええと、もしかして、ですが……」私は慣れない嘘をつくことにする。
「私、記憶をなくす前は病院にいたのかもしれません。白衣とか、薬品の匂いとか。なんだかとても懐かしい気がするのです」
「ふむ……」
「最初は無給でかまいませんわ。一人前になれたらお給料をください。私、なんでもやりますから」
「……そういえば、あなたは修道服を着ていらしたんですってね?」
私と先生のやりとりを聞いていた看護師さんが口をはさんでくる。
『第一騎士団長が海で拾った恋人』のことは国中の話題になっているようだった。はい、と私はうなずく。
「修道院でしたらお金がない人々を治療することもあったかもしれませんね。うちで働くことで記憶が刺激されるかも。ドミノ先生、私は賛成です。人手はいくらあっても足りませんし」
「……そうか。きみが言うなら、私はいいよ。でもラピス殿にも聞いておかないとな」
「ありがとうございます!」
さっそく私は王宮での勤めを終えて帰宅したラピスさまに話をする。
いずれお給料をもらってヒューベル家のお世話にならなくてもいいようにしたい、ということは伏せて。
「病院……。そうか。その看護師の言うとおりだな。あなたはシスターとして奉仕していたのだろうし、記憶を呼び覚ますきっかけになるかもしれない」
「ですよね!」
「この街にも教会はあるが……もし仕える神がちがった場合、面倒なことになるからな。病院というのはいい判断だ」
そこまで考えていなかった。「そ、そうですよね」と私はあわててうなずく。
「すぐにドミノ先生に返事を」とラピスさまはそばにいた従者に命令をした。
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その翌日からフローラは国で一番大きな病院で働きはじめた。彼女の立場は看護補助者だがやるべきことは無限にあり、朝から夕方まで院内を駆けまわっていた。
彼女が勤めはじめてから一週間後の昼、任務の合間を縫ってラピスは病院を訪れる。
「あー!」と待合室にいた少年が彼を見るなり大声をあげた。
「団長、久しぶり! 今日はどこの国と戦うの?」
「今日は視察だ。おまえは?」
「かあさんの薬もらいにきたんだ」
彼は騎士に憧れている平民の少年だ。年に一度おこなわれる剣術大会ではかならず観客席にいて、だれよりも大きな声でラピスを応援してくれる。
その功を称えて、彼のことは第一騎士団の特別応援団の団長に任命してある。
「そうか、えらいな」とラピスは彼の頭に手のひらをぽんと置いた。
「ねえ! 団長はヘルミーネさまと別れちゃったんだよね?」
「……声がでかいぞ」
「でもかあさんはよかったって言ってたよ、ヘルミーネさまにはじじょーがあるからって。それにね──」
「それに?」
「あのねーちゃん、すごく不思議な力あるんだ。俺の友達が大ケガしてここにきたんだけど、あのねーちゃんが手にぎってくれたらあっという間に痛くなくなったって言ってたよ。すげえよな」
「フローラか……」
「そ、あのでっかいマスクのねーちゃん!」
ここではフローラはベールのかわりに大きめのマスクをして過ごしている。それでも隠しきれない傷とめずらしい髪と目の色に初めはだれもがぎくりとするが、彼女の優しい笑顔や献身的な姿を見ているうちに気にならなくなるようだった。
「だからさ、みんなよかったねって言ってたよ。あのねーちゃんがこのまま団長の奥さんになってくれたら、俺、嬉しいもん」
「そりゃどうも」
ラピスは少年と別れ、近くを通った看護師にフローラの居場所を知らないか尋ねる。彼女は頬を赤らめながら、「フローラなら三階にいると思いますよ」と教えてくれた。
三階は入院患者のための大部屋がならんでいる。これをひとつひとつ探すのは一苦労だなと思ったとき、一番手前の部屋からフローラの声がした。老人と話をしているらしい。
「あんたに背中をさすってもらえると痛みが取れるよ。すまないねえ」
「いえいえ」
「ああ、そうだ。手術の話だけどね、やっぱり受けることにしたよ。どうせ老い先短いのにやっても無駄だと思ってたんだけどねえ」
「それ、ほんと!?」と看護師の声がする。「あんなにいやだいやだ言ってたのに。どうしちゃったんですか?」
「フローラさんの顔を見てたら気が変わったんだよ。こんなに素晴らしいひとがこの世にいるなら、一日でも長く生きてみようかと思ってね」
「私たちがいくら説得してもその気にならなかったのに……」
「手術がんばってくださいね、サジーさん」
「ほっほっ」
「あの頑固なおじいさんを。すごいわね、フローラ」と看護師に肩を叩かれながらフローラがでてくる。ラピスに気づき、あ、と足を止めた。
「あら、今日は随分お早いお迎えですね?」とにやにやしながら看護師が言う。時間さえ合えばラピスはフローラを病院まで迎えにきて一緒に屋敷へと帰ってきていた。
「たまたま時間ができたんだ。邪魔はしない、すぐに帰るよ。元気そうに働いているきみの顔を見れてなによりだ」
「はい……」とフローラは恥ずかしそうにうつむく。
その白衣の胸ポケットには小さな白い野花が刺さっており、「それは?」とラピスは聞いた。
「あ、これは入院中の女の子が庭で摘んできてくれたんです。あとで押し花にしようかと思って」
「可憐な花だな。きみによく似合ってるよ」
「そ、そうでしょうか」
「はいはい、イチャつくなら外でやってくださいねー」
看護師に呆れられたのでこの場を去ることにする。
「それじゃあ、フローラ。がんばって」と片手をあげると彼女はこくりとうなずいた。
彼女の記憶はまだもどる兆しさえ見せていない。
それを『よかった』と思うのは──身勝手がすぎるだろうか。
(もし思いだしたら。……フローラは、きっと国に帰ってしまうやろな)
もしかしたら彼女には婚約者がいたかもしれない。
いや──スキーニから朝食室での出来事を聞いたが、彼女は貴族の娘だった可能性がある。記憶をなくしたのに作法通りの紅茶の飲み方ができたのはそれが体に染みついていたからだろう。ならばいないはずがない。
たとえ顔の傷のことがあっても……もし自分がその立場だったら、けしてフローラを捨てることはしないだろう。彼女をいっそう大切にするはずだ。
婚約者はいま、消えたフローラを血眼になって探している……。
そう考えるとどうしても願ってしまう。このまま彼女の記憶がもどらなければいいのに、と。
(フローラは記憶を取りもどそうとしてがんばっとるのに。ひどい男やな、俺は)