わたくしと貴方は政略です。そこに愛はありません。
「君は私の事を好きじゃなかったと言うのか!」
いきなり、王立学園の教室の席に座っていたら、目の前に来て怒鳴られた。
婚約者のフリッツ・ブックエード公爵令息だ。
マリディアーナは眉を寄せてため息をつく。
「わたくしと貴方の婚約は政略ですわ。そこに愛も恋もあったものではないでしょう」
マリディアーナ・パレントス公爵令嬢、歳は17歳。
銀の髪のそれはもう美しき令嬢だ。
マリディアーナには政略で2年前から婚約しているフリッツ・ブックエード公爵令息という同い年の男性がいる。
ただこのフリッツという男、凄く思い込みが激しいのだ。
授業が始まる前だというのに、いきなり怒鳴り込んで来て。
一体全体なんだと言うの?
マリディアーナはそんな気持ちだった。
フリッツは目の前に来て喚きたてる。
「私は君の事を愛しているぞ。毎日毎日、朝晩送り迎えをして、毎日毎日花を贈り、婚約者としての役目を果たしている。君はそれに応えるべきだっ!」
マリディアーナはため息をついて、
「どのようにわたくしは応えればよろしいのでしょう…」
「私が愛を囁けば、その倍、いや3倍愛の言葉を囁いて欲しい。それが愛し合う婚約者というものではないいのか?」
「いえ…人前でそのような事を行う事こそ貴族として恥ですわ」
フリッツは額に手を当てて、
「ああああっ。君には失望したよ。いつもそうだ。私の思い通りにはならないっ…」
「失望して下さって結構ですわ。わたくしは名誉あるパレントス公爵家の娘です。家名に泥を塗る真似なんて出来ませんわ」
そこにいきなり割り込んで来た令嬢がいた。
「フリッツ様が可哀そうですわ。わたくしならフリッツ様を癒して差し上げますのに」
あの女はライバル派閥の公爵家のレーナ・ミルトウス公爵令嬢だ。
フリッツはレーナの腰を抱き寄せて、
「ああああっ。レーナ。君ならば私の思いに応えてくれるはず」
「勿論ですわ。わたくしフリッツ様を愛しておりますもの」
二人は身を寄せ合い、人前にもかかわらず熱いキスをする。
教室中の生徒達がその様子に釘付けになった。
そこへ先生が来たので、皆、それぞれ席に戻ったのだが。
マリディアーナはイラついた。
万事この調子なのだ。フリッツという男は。
そんなフリッツに言い寄るレーナ。
フリッツは難癖をつけては、マリディーナは愛が足りない。レーナは自分を愛してくれる。と見せびらかして。
フリッツなんかと結婚したくない。
なんとか婚約を解消できないかしら。
そう、マリディアーナは思っていたのだけれども、政略で結ばれた婚約。
多少の事では解消出来ない。
今日もフリッツと共に馬車に乗って帰途につく。
フリッツはマリディアーナに向かって、
「マリディアーナは愛が足りない。もっと私に愛を示すべきだ。今日だって、レーナは可愛らしく私に愛を示してくれたと言うのに」
馬車の中で小言しか言わない。
相手をするのも疲れるので、馬車の窓の外を眺めてやり過ごした。
しかし、あまりにも煩いので、
「黙ってくださる?」
「マリディアーナ。愛する婚約者が話しているのだぞ。その態度はなんだ!」
「ですから…わたくし達の婚約は政略で、そこに愛などありませんわ。何度言えば気がすむのです」
「嫉妬をしろ。嫉妬を…他の女性といちゃついて、マリディアーナを私はないがしろにしたんだ。もっと嫉妬をしてほしい」
「嫉妬など、公爵令嬢として、あるまじき態度ですわ」
「私は君のそういうところが」
「馬車が着きました。ご機嫌よう」
胃が痛くなるような一日が終わった。
あまりにもフリッツの態度が酷いので、本当に婚約解消したかった。
だが、パレントス公爵家とブックエード公爵家は事業提携しているのだ。とてもではないが婚約解消することが出来ない。ブックエード公爵夫妻はとてもいい人で、会うたびにマリディアーナを可愛がってくれた。
とある日、ブックエード公爵夫人に個人的に呼ばれて、二人きりでお茶をした。
「わたくし、貴方がわたくしの義娘になる日を楽しみにしているのよ」
「ありがとうございます」
「でも、何か悩みがあるのではなくて?」
「愛が足りない愛が足りないとフリッツ様が。事ある毎にレーナ・ミルトウス様と仲良くする姿を見せつけるのです」
「あの…愚息がっ…」
バキッと公爵夫人の手元から、扇が割れる音がした。
「オホホホホ。迷惑をかけているのね。フリッツが」
「政略でなければ、わたくしは婚約解消をしたいくらいです」
「それならば、婚約者を変更するのはどうかしら。今度、もう一人の息子が隣国の留学から帰ってくるの。フリッツの一つ上の兄のブライトよ。この公爵家を継ぐ気はないって…王太子殿下に気に入られていてね。側近にどうかって言われているのだけれども…あの馬鹿息子にこの公爵家を継がせるくらいなら、ブライトに継いで貰わないと公爵家が滅びるわっ!」
バキッ。ボキッツ。扇が粉々に砕けたようだ。
マリディアーナは疑問に思う。
「でも公爵夫人はフリッツ様の事を…」
公爵夫人は頷いて、
「それはもう可愛くて仕方ないわよ。でも、わたくしはこの公爵家を守る義務がありますから。甘やかしすぎたのかしらね…今度、ブライトに会って頂戴。良いわね?パレントス公爵様にはわたくしからお話を入れるわ」
「ありがとうございます」
フリッツと結婚しなくてすむ。マリディアーナはほっとしたのだけれども。
まさか、フリッツがあんな行動に出るとは思わなかった。
いつもフリッツが迎えにくるのだが、今日からはパレントス公爵家の馬車で学園に行くことにしたマリディアーナ。学園に着いて馬車から降りたところをフリッツに腕を掴まれた。
「兄上と婚約ってどういうことだ?愛はないのか?私への愛は?」
「わたくしと貴方は政略でしたわ。愛が無いと何度も言っておりますでしょう」
「認めない。マリディアーナは私を愛するべきだ。マリディアーナの相手は私だ。もし、兄上と結婚すると言うのならこの手で」
いつの間にか取り出したのか、きらりと光るナイフを手に、襲い掛かってきたフリッツ。
登校途中の生徒達が悲鳴を上げる。
「やめないか。フリッツ。心配してきてみれば。お前はどこまで恥さらしなんだ!」
フリッツによく似た背の高い青年がフリッツのナイフを持った手首を抑えていた。
フリッツは叫ぶ。
「兄上っ。マリディアーナは渡さない。マリディアーナは私の物だ!」
「過ぎたる愛は相手の負担になるって解らないのか?フリッツ」
ナイフを取り上げると、フリッツはマリディアーナに向かって叫んだ。
「愛してるんだ。誰よりも。あんなレーナなんて女は君に嫉妬して貰いたかったから、仕方なく。マリディアーナがいけない。私を愛さないマリディアーナが!」
マリディアーナは一言。
「わたくしと貴方とは政略です。何度言わせるのです。愛は一切ありませんわ。家と家が結ばれればよいのです。それでも、フリッツ様との婚約は解消したいですわ。貴方の妻になんて絶対になりたくありません」
フリッツは膝から崩れ落ちた。
ブライトは頭を下げてきた。
「弟が迷惑をかけたね。改めて婚約解消の話し合いをすることになろう。私が新たに君の婚約者になりそうだが、それでもかまわないか?」
「わたくしに選択権はありませんわ。両公爵家がそう決めたのなら、わたくしは従うまでです」
泣き叫ぶフリッツはブライトに馬車に押し込められて、行ってしまった。
マリディアーナは思う。
愛は元々なかったけれども、フリッツとだけは結婚したくない。
だから…わたくしは今日程、清々したことはないわ…
それから話し合いの末、フリッツとの婚約は解消されて、ブライトが新たに婚約者になった。
フリッツは廃籍されて、領地の片隅の小さな屋敷に幽閉されたそうだ。
マリディアーナを殺そうとしたのだから、二度と社交界に出てくることも、マリディアーナに会う事もないだろう。
ブライトはとても紳士的で、マリディアーナに優しくて、マリディアーナの話をよく聞いてくれる。こんなに話が通じる人と付き合う事が楽だとは思わなかったと日々幸せを感じるマリディアーナ。
政略だから愛は無いと言っていたけれども、ブライト様とならわたくしは…
ブライトが優しくマリディアーナの顔を覗き込み、
「どうしたのかい?顔が真っ赤だ」
「いえ、何でもありませんわ…ブライト様。わたくし、貴方様の事を愛しております」
「私もだよ。マリディアーナ。二人で幸せになろう」
後にブライトと結婚したマリディアーナは、沢山の子に恵まれ幸せに暮らしたと言う。
そして二度と、領地の小さな屋敷に幽閉されたフリッツの事を思い出す事もなかった。
彼は一人寂しく閉じ込められた屋敷の中で暮らし、長く生きた後、亡くなったと言う。