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新たなる世界の果てで、

作者: タカクラ


 どんよりと曇った朝だった。

 それなりに暖かい春なんだろうけど、ガラス越しに見る灰色の街は、なんだかやけにうそ寒い。

 時計の針は、九時半を回っていた。

 目覚ましを使わなくなって、そろそろ三ヶ月。慣れてはきたが、それにつれて生活のサイクルもめちゃくちゃになってきている。

 とりあえず、外にでられる格好になるのに、一時間。まあお昼前には、『会社』に着けるだろう。

 コンディションは最悪。吐き気に目眩。偏頭痛。胃ももたれた感じだし、全身が怠い。

 昨日も一昨日もそうだった。もういつからだったかはっきりしない。まあつまり、いつも通りってコト。気にするほど悪いワケじゃない。

 要は疲労。まずはこの、疲れの抜けきらないくたびれた躰をリフレッシュさせないと。

 バスに湯をためるのは面倒だから、シャワーでいいや。

 のろのろとベッドから這い出て、味気ないグレイのブラインドを降ろす。パジャマ代わりの男物のシャツを脱ぎ捨て、ふらふらとバスルームに潜り込んだ。



 マルトミ・オンライン・サービス。

 正式名称は丸宝電気通信産業株式会社。

 吉祥寺の駅から線路沿いに十分ほど歩いたところにある、小さな会社だ。

 三階建てのビルは持ちビル。まあそれなりには儲かっているようだ。給料の払いもいいし、そこそこのレベルの機材も揃えてくれている。

 ここでバイトを始めてから二年。お小遣い稼ぎのつもりで、正社員になることなんて微塵も考えていなかったのに、人生なんてわからないものだ。

 社員として登録されてから三ヶ月。大学も休学し、ロクに休暇も取らずに通い詰め、今日だってこんなコンディションなのにまたここに来てしまった。

 たまには休んだ方がいいよ。ほら、肌だってこんなに荒れてる。ストレスが食欲に来て、運動不足もあって体重だって気になってるじゃない。服だって買いに行ってないし、最近つきあい悪いって、友達も離れ始めてる‥‥

 ここしばらく、頭の中ではそんなことばかりが渦巻いている。

『なにをムキになってるの?』

『どうしてそこまでやんなきゃいけないの?』

 繰り返す、自問自答。

『私がやらなきゃいけないことなの?』

 ううん、そうじゃない。むしろ私より上手な人、アテになる人達が頑張っていることだわ。もしかしたら私、ミイラ取りがミイラになって、かえって迷惑をかけることになるかもしれない。

『怖い?』

 怖いわ。恐ろしいし、できることなら関わりたくなんかない。

『なら、やめちゃう?』

 そうしたいと思うときも、あるわ。

 なら……

 ……ん。

 ここで頷き、部屋へ帰って寝てしまえば、どれほどラクになれるだろう。

 なのに私は、首を縦には振らない。

 頷いてしまってもかまわない。誰も咎めはしないし、むしろそれを当然のことと見るだろう。

「ふう……」

 ため息を一つ。そして、ガラスのドアの前に立つ。

 自動ドアが左右に割れた。行き届いた空調が、外とは段違いに澄んだ冷たい空気でビル内を満たしている。

「おはようございます」

 右手の受付カウンターには、すっかり顔馴染みの警察官。私と同い年という若さで、人当たりの良さそうな屈託のない笑顔を見せる彼は、カウンターの陰で常に臨戦態勢で待機している。

「おはようございます」

 挨拶を返しながら、カウンターに設置されている識別端末にIDカードを通し、吐き出されたジャックを首筋に運ぶ。

「きょうは長いのね」

「ええ、交代が遅れてまして。まああと三十分なんですけど」

「大変ですね」

「なに、おかげで三回もあなたの顔を見れましたからね。ついでに残業手当も頂けるんだから、皆さんに比べたらラクなモンです」

 彼は笑いながら、そんなことを言った。歯の浮くようなお世辞、というわけでもないようで、実はもう何度も食事に誘われたり、休みの日を聞かれたりしている。正直、悪い気はしない。どちらかといえば、嬉しいと言ってもいいくらいだ。以前の私なら、喜んで誘われたことだろう。

 男の人と食事をしたり、デートをしたり。私だって人並みに、そういうことはキライじゃない。

 無機質な音が、照合終了を知らせた。

「はい、OKです」

「ありがとう」

 礼を言い、IDカードを受け取る。奥の扉が開いた。それはエレベーターなのだけれど、これこそがこのビルの本当の入り口と言っていいだろう。この間改修され、防弾の三重ドアになったエレベーター。階段は封鎖されていて、これ以外、上のフロアへ上がる方法はないのだ。

「やっぱり赤も似合いますね」

 ドアの閉じ際、唐突に彼が言った。

 一瞬なんのことかわからず、私は曖昧な笑みでそれに応えた。

 それがきょう着てきたワンピースの色だと気づき、以前にそんなことを言われていたのを思い出したのは、再びドアが開いたときだった。



 七つ、横並びに設置されたデスクは、三つがすでに占拠されていた。私のデスクは一番左端。ディスプレイはIDカードと連動して、すでにオンになっている。表示されているのはプラカードを持ち、『GOOD MORNING』というセリフつきのスヌーピー。プラカードはタイム・テーブルになっていて、当日までの過去一週間の、出社/退社時間が記されている。

 出社時間は十二時十四分。夕べの退社時間が0時五分。日付で言えば、いずれも今日だ。それでも十二時間九分のインターバルがあるから、規約違反にはならない。

「おはよう。きょうはまた、えらく早いね」

 沢渡部長だ。わざわざ執務室から出てきたらしい。自分こそ、夕べも帰らなかったのだろうに。

「おはようございます。やり残しがありましたから。片づけないと落ち着かなくて」

「そうか……しかし、熱心なのはいいが、あまり無理をしないでくれよ」

 血色の悪い顔をして言うセリフじゃないですよ。部長こそ、たまには帰ってお子さんの顔を見てらしたらいかが?

 喉まで出かかった言葉。

 私は危うく、その残酷な言葉を吐き出すところだった。あぶない、あぶない。

「はい。部長も」

 笑顔を作り、当たり障りのない返事を返す。彼もまた笑顔を作ったけれど、なんだかぎこちなく見える。考えすぎだろうか? ううん、心からなんて、笑えるわけがないんだ。私も、沢渡部長も、もう半年近く本当の笑いを忘れている。

 日常的な作り笑い。

 淡々と過ぎていく時間の中で、いつか慣れてしまうんだろうか?



 パーソナル・コードを入力し、アクセス・ケーブルをリンクすると、ネットワークとの接続プログラムが自動的に立ち上がる。このプログラムはROMとして、ハードレベルでコンピューターに組み込まれている。トラブルを避けるため、ウィルスの影響を絶対に受けないように、徹底してリード・オンリー化されているのだ。

 ヴァージョン・アップのたびにハードごと取り替えなければならないから、コスト的にはかなり大変なはずだ。でも、二次災害、三次災害は、絶対にあってはならない。いや、現実的には、極力減らさなければならないのだ。

 当局も相当ナーバスになっているらしく、驚くほど気前がいい。

 ディスプレイには、まず現在の作業状況がネットワークの全域データとして表示される。

 これまでの約四ヶ月。サルベージ・プロジェクトの立ち上げから現在までの、百十八日分。その間の成果が全被害のおよそ五パーセントと、具体的な数値と並行して表示されている。

 総被害件数。

 救出者数。

 確認済み被害者数。

 追加被害者数。

 被害端末数。

 追加被害端末数……

 五十項目にものぼる数値の羅列は、見ている間にも刻々と変化している。世界中で、何万もの人が努力している経過が、二十四時間、間断なく示されていく。

 五パーセントという数字が大きいのか、小さいのか。少なくとも、三ヶ月前に達成されて以来、このポイントが変わっていないのは確かだ。成果は上がっているはずなのに、新たに明らかになっていく被害、新たに生じる二次、三次被害が、ポイントの上昇にブレーキをかけている。

 目にするたびに気が滅入る。

 この数字が、見るたびに上昇してくれていれば、少しは励みになるかもしれないのに。

 無駄ではないはずの努力を、無意味なものに見せてしまう数字の魔力。デジタルの悪夢は、こんなところにまで影響している。

 こうしてため息をつくのも、いつの間にか、日課みたいになっちゃったな。

 ディスプレイの上に立ててある、ミッキーのミニ・ミラー。映ってる顔が、馬鹿みたいにくたびれている。すごいぶす。笑わなきゃ。それが作り物でも、笑えば、ちょっとは見られる顔なんだから。

 辛いのは、アンタだけじゃないんだから。

 世の中には、たぶん、もっともっと苦しんでいる人だっている。下を向いて楽になるつもりじゃないけど、そんな人達のことを考えたら、落ち込んでばかりはいられないでしょ?

 目を閉じて、息を整える。

 ゆっくりと、深呼吸を三つ。

 もう一度目を開けると、鏡の中に、少しはましな顔をした私がいた。よし。

 キーボードに、もう一つのコードを打ち込む。十六桁の数字。二つの、誕生日。

 ディスプレイの色調がゆらぎ、意識とプログラムの正常同調を示すグリーンのOKサインへと変化する。

 感覚変換終了。リンク、成功。

 そして私は、巨大なネットワークの世界のとばくちに立った。悪夢のように様変わりした、人の創りし、新しい世界の入り口に。



 ゲイトと呼ばれるネットワークの入り口は、視覚的にはホテルのロビーのようにデザインされている。

 落ち着いたベージュ系の絨毯と壁。いくつかのソファ。通路の先にはたくさんの扉があり、その手前には大きなカウンターがある。

 中にいるのは受付プログラム。擬人化された受付役は、かつての面影もうかがえないほど、粗い粒子で表現されている。タロウと呼ばれている『彼』は、日本向けに調整された受付役で、名前も制作元のライブラリ・アメリカ社で付けられたものだ。

「おはようございます。調子はいかがですか?」

 流暢な日本語が響く。実際のところ、タロウが日本語を使っているのか、それとも英語を使っているのか、私にはわからない。もしかしたら、そのどちらでもないコンピューター言語を、高性能なインターフェースが濾過して伝えているのかもしれない。いずれにしてもここにいる限り、全てのものはコンピューター言語で構成されている。だからその差は、変換の段階でしかない。

「同調に異常はありませんか? よろしければ確認プログラムを動作いたしますが?」

 質問調でも、これは任意ではなく義務事項だ。入る前の確認と、入ってからの確認。どちらも大切だけれど、ウエイトは後者の方が重い。こうした多重チェックのシステムが確立されたのは、事故の生み出した功罪の一つだろう。これで万全とは言えないが、だいぶマシにはなっている。

「マニュアルで」

「かしこまりました」

 同調に到るまでのシステムは、オートマティックに立ち上がる。解除のプログラムも、ここに来てタロウに告げれば、自動的に実行される。でも、いつもそれですむとは限らない。時にはタロウを介することなくネットワークから抜けたり、逆に直接ポイントを指定して同調する必要に迫られることもある。マニュアル・プログラムの確認は、この仕事に携わる者にとっては、ダイバーのボンベ・チェック並に大切なことなのだ。

 確認プログラムは、実際に同調を解除するわけではなく、その動作状況を調べるために存在する。マニュアル・プログラムは重要な存在であるにも関わらず、システムROMではなく通常プログラムとして管理されている。状況によっては、システムROMとの繋がりが途切れてしまい、いざというときに使えないということもあるからだ。それなら常に帯同できる通常ツールの方が、なにかと都合がいい。

 ネットワークを管理するメイン・システムは、事実上管理能力を失している。今やただ単に稼働し、現状維持をし続けているに過ぎない。人間で言えば、メイン・システムの喪失は脳死にあたり、その後も存在し続けるネットワークは、機械的に脈動し続ける肉体というところだろう。

 そう喩えると、ゲイトは強引に接続された代替脳にあたる。しかしその出来は、本物の脳とパーソナル・コンピューターほどの違いがある。ライブラリ・アメリカの誇った多層処理スーパー・コンピューターの代わりになるほどのものは、NASAの活動を無期限に停止するか、超大国の軍事力を麻痺させるかしないことには手に入らない。

 ゲイトの能力は、巨大なネットワークを相手にするには非力すぎ、あまりにも不安定だ。唯一の入り口と言っても、嵐の中をリフトで山に登るようなもので、とてもじゃないが全幅の信頼を寄せる、なんてワケにはいかない。

 非常手段はいくつでもあった方がいい。

 解除プログラムに異常は認められなかった。

「連続作業は九〇分以内と規定されています。あなたのコンディションから、今回の滞在は六〇分以内が望ましく思われます」

「ありがとう、気を付けるわ」

 タロウが会釈する前を通り、私は最初のドアにキーを差し込む。

 ドアはエリアを指定し、キーは座標を記憶したツールだ。最初のドアは極東エリア。座標無指定なら、ファー・イースト・ストリートに繋がっている。

 その座標は、そこからほど近い雑居ビルの一室にあった。



 インターナショナル・ネットワーク・サーヴィス=ライブラリ・アメリカ。

 このネットワークはI.N.S.L.A.という省略表記の英語読みで、インスラと呼ばれている。

 インスラの発音は、ラテン語だと『島』という意味になるらしい。つまり機械の中の新たな大地、新天地という意味も持たせてあるわけだ。きっと英語文化圏の人に

は、気の利いたネーミングと映るのだろう。

 ライブラリ・アメリカ社は、その名が示す通り、元々はデータ・ライブラリを本業とするネットワーク・カンパニーだった。

 集めた情報を閲覧料と引き替えに公開する、ネットワークにおける図書館とも、合法的情報屋とも言えるようなビジネス。ネット・ビジネスとしては基本的な商売だ。

 今でもその側面は色濃く残っているけれど、ネットワーク自体を運営し始めてからは、やはり主催者としてのイメージが強い。しかしインスラが世界最大のネットワークにまで成長した理由は、この側面によるところが大きかった。

 インスラの公式マニュアルには、『インターネット時代より、よりよい環境を目指してコンピューター・メーカー各社との技術協力関係を緊密に維持し、ソフト・ハード両面においてたゆまぬ研究開発を続けた結果、画期的なコンピューター・システム及び新世代インターフェースの誕生を導いた』と記されている。

 画期的なコンピューター・システムとは、インスラそのものとも言える超多層演算処理装置であり、新世代インターフェースとは、感覚変換を用いて人とコンピューターを接続する、ダイレクトリンク・インターフェースのことである。

 完成は今から十五年前にさかのぼり、実用化まで五年の時を要した。

 ダイレクトリンク・インターフェースは、そのインパクトから当初様々な物議をよんだ。一番問題にされたのは、当然のことながらその安全性についてだった。

 健康面については、専門家は自信を持って危険はないと主張した。インパクトの強さに反して、技術的にはそれほど難しいことではなかったのだ。それでも迷信的に恐怖を主張する人達は当然のようにいて、世間が容認に動くと、これもまた当然のように無視されるようになった。

 生命の危険のほかに誰もが恐れたのは、脳とコンピューターを結ぶことで、逆に脳を覗かれるのではないかということ。あるいは、知らないうちに意識をいじられた

り、記憶を変えられたりするのではないかということだった。

 しかしこれも、技術者達は否定した。人間の意識を完全に数値/データ化することは、不可能だと言って。

 ダイレクトリンクは、あくまで表層思考を信号化するに過ぎない。読み出し専門のインターフェースである、として。

 それは確かに、単体で、通常のコンピューターを相手にした場合、間違いではなかった。実用化第一号は高速至便なインターフェースとして、実に高い評価を得た。

しかし、同時にデビューした新ネットワーク『インスラ』においては、それだけではすまなかった。

 インスラを管理するスーパー・コンピューターは、超多層演算というまったく新しいシステムを持って機能するコンピューターだった。

 複数の数式を同時処理できる装置は、これまでにもあった。演算の高速化には欠かせない発想であり、いくつの処理を同時に行えるかが、スペックの分かれ目とも言えた。そして超多層演算は、現時点でその頂点に位置するシステムだった。

 同時処理数の飛躍的増加。その処理能力は、同規模の装置四十機分にも相当する。

さらにオリジナルの言語を用いることで、各々の処理を相互に関連させた演算を行うこともできる。これもまた、同時に。

 より複雑に入り組んだ数式の同時高速処理。

 この能力こそ、当時データ産業を営んでいたライブラリ・アメリカが、ひたすらに求めていたものだった。

 肥大する一方のデータ・バンク。データが増えれば増えるだけ検索プログラムも大きくなり、検索そのものも含めた処理は重くなる一方だった。より快適な動作環境を確保するためには、ハードの超高速化、入力デバイス及びインターフェースの改善は、同業他社との競争を勝ち抜くために、どうしても必要なものだったのだ。

 圧倒的な性能は、即時採用を決断させた。

 そして同時に、世界制覇を目標とする独自ネットワークの開発を決定させるほど、その潜在能力は優れていた。

 一号機から発展させた大型超多層演算コンピューターは、世界でも確実に頂点に立てるスーパー・コンピューターになった。その後同型機種がNASAとペンタゴンにも納入されたことで、それは実際に証明された。

 大量のデータを同時に扱えるスーパー・コンピューターは、ネットワークに新しい概念の世界を創り上げた。メインシステムは仮想世界の総合的な骨組みを作り、ピラミッド状に子機を配していくことで、内部の肉付けを管理していく。データのIN/OUTには窓口としての孫機を、さらに中継としてのリレー・コンピューターを介して各個人の端末とを接続する。個人端末は従来型のものでかまわない。ダイレクトリンクにさえ対応していれば、個人端末は最低限の識別と、リレー機としてのソフトを走らせる以上の能力は、必要としないのだから。

 メイン・システムによる子機の同時管理は、タイムラグ/処理待ちを完全に排し、世界観の共有に欠かせない『現象の同時性』を約束する。

 億単位を同時管理する夢のヴァーチャル・リアル・ワールドは、こうして実現された。

 超多層処理コンピューターの実用化から四年。今から六年前に、インスラはスタートしたのである。

 理論は完璧だった。

 リスクはどこにも見えなかった。

 五ヶ月前、最悪の事故が発生するまでは。

 予想を超える性能がもたらした悪夢。

 ライブラリ・アメリカ・シンクタンクと国連災害対策本部が各機関に発送した『サルベージ・プロジェクト』概要書類には、事故の根元要因がこのようにまとめられている。

「超多層処理機構と、その専用プログラムは、結果的に脳機能と高い類似性を示した。位相シフトの処理性能で差別化を図り、安全性を確保していたが、インスラ管理プログラムの自己容量調整機構の上位シフト(偶発的に肥大したバグがシステム処理を圧迫し、規定位相では処理が重くなったため、回避として処理層を増加させた)により、事故当時、その差別範囲が危険域まで接近していた」

 人の脳が持つ同時処理性と、超多層処理コンピューターの同時処理性。間をつなぐ高性能インターフェース。

 事故はその同時性の恩恵を受け、世界中で、完全に同時に発生した。

 超多層処理コンピューターの支配域は、子機、孫機、リレー機、個人端末、ダイレクトリンク・インターフェースを通して、同程度の性能を持つ処理装置…奇跡の生体コンピューター…人の脳に及んだ。

 データは逆流・融合の渦に翻弄され、そしてアクセスしていた約三億の人間が、ソフト的にインスラと融合した。

 インスラとリンクして存在する無数の枝ネット、間接的に接続、あるいは電話回線でのみつながる独立系草の根ネットもあわせると、およそ七億という人間の意識が、コンピューターに浸食されたのだ。

 当初、強制退去が当然のように実行されたが、それがデータの損失を生むことがすぐに確認された。ほとんど同時に約二千万人が被害を受け、そのうち一割が脳障害で身体不全を引き起こし、死亡した。残りのうち八割が重度の精神障害か記憶障害、あるいはその両方に陥り、残りの一割の人たちは、幸運にも軽度の障害ですんだ。しかし例外なく障害は発生し、それ以上の幸運は確率的に絶望と、簡単に予測できた。

 実験的にシステム・ダウンも試みられたが、結果は同じだった。

 データは複雑に絡まりあっている。七億の知恵の輪を解かなければならない。

 二十四時間後、全てのネットワークは閉鎖された。

 多くの人間を、接続したまま。

 そして救出作戦……サルベージ・プロジェクトが実行に移されるまで、一ヶ月の時間を要したのである。

 それから四ヶ月。事態の深刻さは増しながら、状況はほとんど進展を見ていない。



 およそ半日ぶりに訪れたビルの風景に、見た限り変化はないように思われた。

 フロアは全部で八層。地下層はなく、ここは四階の二号室にあたる。このフロアまでは、前回までに探査を終えていた。

 空き室だったこの部屋には、中央に細い針が突き立ててある。監視用探査針。元々インスラのデバッガー達のために用意されていた、解析用ツールの一つだ。

 針は、エレベータは無効化され、全ての入り口はシールされ、在来プログラムの保全が損なわれていないことをしめしている。

 OK。うまくいっている。問題は残り、この上のフロアだ。

 前々回、一つ厄介なサルベージを片づけたあと、偶然見つけたゆらぎだった。

 融合しているデータは、外見的特徴の変わっているもの、機能的特徴の変わっているもの、そして変化が潜伏し、一見では判別できないものがある。融合した結果、機能不全にでもなっていてくれればやりやすいのに、不思議なほどその割合は少なく、ほとんどが活動性のバグへと変わっている。つまり多くは、一目でそれとわかるかわりに、おとなしくしていてはくれないのだ。

 しかし、一見しただけではわからないものも、けして少なくはない。なにげなく突き立てた探査針。その解析データの微妙なゆらぎ。普通なら無視できる程度のものでも、今は全てチェックの対象と考えた方がいいだろう。

 念には念。なにもなければ二日のムダでも、それだけでこのブロックの無事が確認できるなら、大きな意味では有効のはずだ。

 階段に向かい、上層へ上がる。

「ナツヘノトビラ」

 短いフレーズは、シール・プログラムのパスワード。解くのではなく、使用者だけを通すパスだ。

 ビルの案内表示によれば、上四層はレンタル・ルームとなっていた。一応会議用、ということになっているけれど、利用状況を確認すると、名義はほとんどが個人かサークルのようで、あまり上等な使われ方はしていなかったようだ。

 階段を上がりきると、通路はシャット・ダウンされていた。私の張ったシールじゃない。どうやら基本的に閉められていて、入り口は限定されていたらしい。

 うさんくさい。

 針を打ち込んでみると、ビルのシステムに改造された痕があった。システムに干渉しても、このシャッターは開かないって仕掛けだ。

 明らかな違法改造。小さいから見逃されてしまいがちだけど、よくあるパターンではある。

 針を通して、シャッターを解除する。一般ユーザーや素人ビジネスマンはともかく、一応プロの私にとっては、この程度ならどうとでもなるレベルだ。

 システムを修復することもできるけれど、それは少々手間だから、安易な方法を選んだ。ここのシャッターをデリートし、代わりにシールをしておく。最終的にはビル全体をシールしてしまうのだから、状況に大差はない。

 そうして五階に足を踏み入れると、そのうさんくささが倍増する景観に出くわした。

 薄暗く、ぶち抜きに改装されているフロア。所々に明滅する、原色の光。いくつも並ぶ筐体オブジェクト……

 会議室なんかじゃなかった。

 これは、違法アミューズメントだ。

 大手企業の管理する大がかりなものではなく、インディーズ・アミューズメントなんて呼ばれている小規模のゲーム・センターだ。

 インディーズは、ソフトの作りも管理も荒い。不良オブジェクトの巣窟みたいなもので、インスラが正常な頃からデバッガー泣かせだった。インディ・エリアというだけで、ある意味では要注意だろう。

 それも無届けの違法とくれば、かなりヤバい。

「お客様……」

 薄闇の向こうから、すうっと影が現れる。人のよさそうな微笑の貼りついた、タキシードの男。店員、というところか。もちろんこれもまたタロウのように、疑似人格を付与されたプログラムに過ぎない。もしかしたら常駐していたかもしれない人間の店員は、今はいない。私達のような人間以外、今のインスラは普通にアクセスできるネットではないのだ。

「ご来店には正規のルートをご利用いただかないと困ります」

 侵入ルートをチェックするプログラム。エリア内を検索するプログラム。店員プログラムは、そのどちらとも連動しているらしい。

 反応を確かめたくて、とりあえずだんまりを決め込む。針を打ち込むことも考えたが、片っ端からシールして、不都合が生じるのもまた、恐い。

 だが、それがいけなかった。一度強行した以上、それを貫くべきだった。

 店員プログラムが笑った。

 いや、嗤った、と言うべきか。

 明確な悪意を感じ、私は一瞬とまどった。

「ご退場いただくことになります」

 メッセージと共に、視界がゆらいだ。

 言葉の直後、店員の腕が動いたのが見えていた。その手に握られた針が、痛みを感じさせることもなく、私の下腹に突き立っている。

 探査針!

 デバッガー以外持ち得ないはずの特殊ツール。その針が外部から、私のプログラムに干渉している。そしてその目的は、同調解除プログラム!

 それはありえざる出来事だった。

 いや、違う。起こってしまった以上、それはありえることであり、全ては私の判断ミスだ。

 これも、いや、これこそがバグだったのか。

 解除プログラムが起動した。

 私はなす術もなく、インスラから放り出された。

 急激な感覚変換に、全身の器官がギクシャクした反応をする。徹夜明けみたいになった視界には、経過時間二分を示すディスプレイが映っていた。



 熱い珈琲が喉に染みわたると、カフェインに刺激されたわけでもないだろうけれど、神経に冴えが戻ってきた。

 まったく、無茶をしてくれる。

 まだ少し平衡感覚がおかしくて、頭の芯がぼーっとしている。

 自分で起動したのならもう少しましな状態にできたのに、今回はもう、どうしようもない。

 マニュアルの解除プログラムは、確かに緊急退避のニュアンスが強い。しかし実際のところ、いくら非常事態だからといって、いきなりダイレクトに起動したりはしない。たいていは座標転移でその局面を避けるなり、あるいは時間を稼ぐなりして使うのが普通なのだ。そうでないと、リスクが大きすぎるから。

 そのリスクとは、もっともデリケートで、もっとも重要な感覚変換にある。同調、あるいは解除のプログラムに含まれるその過程は、インスラ内での出来事を、人の五感として認識できるようにするためにある。神経感覚には個体差があり、ある一定の刺激をどの程度に感じるかは、人によってまるで違う。感覚変換においてもっとも肝要なのは、ここを均一にならす『刺激の調節』。そのためアクセス・ケーブル手術のときに、個人別のデータが取られる。以後一年ごとのデータ確認が義務づけられ、年次ごとに更新されるインスラとの契約のとき、識別用プログラムの更新に織り込まれるのだ。

 刺激の調節は、このデータとの照合により機能するのだが、マニュアル解除プログラムにおいては、この過程はオプションで、特別に指定しない限り機能しない。なぜなら参照するデータの量が悲しいくらい多く、プログラム自体の重さもあって、緊急事態用には少し時間がかかり過ぎるからだ。

 このプロセスがはぶかれると、同調の解除際に未調整の刺激が一気に流れ込み、わりときついショックを受ける。刺激の調節がどの程度だったかにもよるけれど、人によっては失神状態に陥ったり、心臓が弱ければハート・アタックのリスクもある。あまり気持ちのよいものではないのだ。

 今度の場合、それにしては軽い影響ですんだほうだろう。酷い乗り物酔い程度ですんでいるのだから。

「どう、落ち着いたかな?」

「はい、大分。すみません、心配かけてしまって」

 手ずから珈琲を入れてくれた沢渡部長が、今度は小皿にクッキーを乗せ、わざわざ運んできてくれていた。他のデスクを占拠していた社員たちは、接続中かランチタイムで出ているかで、フリーなのは私と部長の二人だけだった。果たしてこれを、不幸中の幸い、と言っていいものか。ヘマを見られたのが一人だけなのはありがたかったが、その一人が問題ではある。

 部長は右隣の席に座った。

 アメリカン・コミック好きの板倉さんのデスクだが、当人は今日、休みだった。

ディスプレイでは、アメコミ・ヒーローの必殺技がモチーフらしいセーバーが、やけに嬉しげに動きまわっていた。普段は見えない『HOLIDAY』なんて文字がときどき見えるのは、カレンダーと連動しているからだろう。マニアックな板倉さんらしい仕掛けだった。

 部長は無言で、そんなセーバーをいかにも興味深げに見つめている。もちろん、初めて見たわけではないだろう。少しは興味があるのかもしれないが、わざわざそれを見るために座ったということでもないはずだ。

 待っているのだ。

 報告を。

 それも、自主的なものとして。

 なぜなら沢渡部長には、ただ会社の部長としてだけではなく、管理責任者としての立場があるからだ。それはサルベージ・プロジェクトへの参加企業には、設置が義務づけられているポストだった。

 名称こそありきたりの役職だが、その実は監視官/監督官と言った方が近く、ひどい言い方をすれば見張り、あるいはスパイと言ってもいい。要するに、非常事態にあるインスラに出入りする人間を、オフラインで管理するためのポストなのだ。

 その性質上、たいていは警察/公安や軍/自衛隊関係、あるいは他の官公庁からの派遣で賄うのが理想であり、基本はそういう方向にあるのだが、いかんせん絶対的な人手が足りない。単純な警備担当とは異なり、それなりの知識や能力も必要とされる以上、誰でもよいというわけにはいかないからだ。

 だが逆に、火器銃器の類を扱うわけではないから、必ずしも現役警察官/軍人にこだわる必要もない。そこで、ある程度信頼の置ける者が当該企業にいた場合、推薦を受け付け、身辺調査を経た上で任命という形での就任もある。この場合の『信頼』は、たいていは職歴であり、綺麗な形で警察/公安/軍/自衛隊/各官公庁などで勤務した実績がある人を指す。沢渡部長の場合は元自衛官で、予備役でもあるそうだ。

 ポスト就任と同時に管理責任者は、半民半官というか公務員兼任サラリーマンというか、とにかく、公人としてある程度の特権を与えられ、厳しい義務と責任を負わされる。

 インスラや、それに関わるサルベージの重要性/特殊性を考えれば、必要なことであり、あって当然のポストである。理解できるし、わかってもいる。でも、だからといってすんなり受け入れたり、容認できるものでもない。

 私にとって沢渡部長は、ほんの少し前までは柔和でおっとりしたおじさんでしかなかった。確かに上司ではあったが、学生バイトの身にその言葉の意味は、正直それほど重くはないものだった。

 事故後、サルベージ体制が確立されていく中で私は社員になり、部長は経歴から推挙され、管理責任者になった。その日を境に社内の私たちにとって、部長は政府/ライブラリ・アメリカ/国際機関当局の代表になった。

 部長のスタンスは、会社の部長であることよりも管理責任者であることにウェイトが置かれるようになり、部下を見守る目は、そのやわらかい光は変わらないまま、監視する目になってしまった。

 格別意識をしていなかった私も、それからは沢渡部長の目を気にするようになっていた。気にしないわけにはいかなくなったのだ。

 部長は管理者で、管理者はインスラに関わる人間の、絶対的な人事権を持っているからだ。

 私はまだ、サルベージ・プロジェクトから外されたくはない。大学を休学し、就職までして参加したこのプロジェクトだ。危険で過酷で、洒落にならないほど恐ろしくもあるが、それでも中途でやめるわけにはいかない。それだけの理由が、私にはある。 

 絶対に辞めたくない。

 絶対、辞めない。

 私がどうしてプロジェクトに固執するのか、沢渡部長は知らないだろう。部長どころか社の誰も、私の家族も、友人たちだって知らない。それはあまりにも大切すぎて、どこの誰に話すことも、私には躊躇われることだからだ。

 秘匿性の高さこそが、重要性を示してくれる。誰にも教えられないが、それは私にとって大切で、だからこそ固執する。

 だが、沢渡部長もまた、私と同じか、あるいはそれ以上かもしれない真摯さで、管理責任者としての任を務めようとしている。沢渡部長はある種の怒りを持ち、同時に強い責任感と義務感をもって、サルベージ・プロジェクトを推進しようとしている。

 その源は、私の理由とは正反対に、社の誰もが知っていることだった。もちろん、私も知っている。知っているどころか、あったことさえもある。

 それは、中学に上がったばかりの御長男だ。

 マコト君という。聞いただけなので、字は知らない。

 ひと月ほど前、部長の遣いで御自宅に伺ったとき、奥様にお願いしてお見舞いさせていただいた。マコト君は、端末に接続されたままベッドに固定され、点滴のチューブを繋がれていた。

 目は開いているが、意識はなかった。

 彼の心は、デジタルの世界に囚われていた。

 悲しい現実だ。

 部長のご子息もまた、被害者なのだ。

 沢渡部長にとって、プロジェクトは息子の救出作業にほかならない。だからこそ、半端な人間が関わることを許さない。いいかげんな仕事を許さない。許せるわけがないのだ。

 いままでに、部長に失格の烙印を押された社員は、二人だけだった。私は絶対、三人目になりたくない。

 きい、と、椅子が鳴った。

 セーバーを見るのにも飽きた、というように、部長は伸びをし、躯をひねった。

 部長のカップは空になっていた。私のカップには、まだ半分ほど残った珈琲が湯気を立てている。

 あまり考えている時間はなかったが、それでも、私は結論を出した。

 部長に悪印象を与えたくない。

 無能の烙印だけは押されたくない。

 切実に、必死に考えた。

 どうすれば切り抜けられるだろう?

 誤魔化すための言葉を次々に考え、考える端から消していった。

 どれもダメだ。

 どんな嘘だって、行動記録を見られたらお終いだ。それを見せないような巧みな嘘も、思いつかない。

 それに。

 どうせ嘘なんて、上手に吐けやしない。



 血圧。

 脳波。

 心電図。

 簡単なメディカル・チェックの結果、いずれの数値も登録された個人データの正常値許容範囲内におさまっていた。問題無し。これ以上の検査の必要を認めず。とりあえず安心だ。

 それでも医務のミス・フランソワは、少量の精神安定剤を処方した。

「やっぱり、少しハイになっているように見えるからね」

 許容範囲内でも、いつもとは少し違う数値、ということらしい。あとは経験と勘、かしら。彼女はそう言って、水を満たしたコップを差し出す。薬嫌いは見ていないとすぐ誤魔化すので、彼女はなるべく目の前で服用させることにしているらしい。

「あの、これ‥‥」

「大丈夫よ。規定で公認されてる薬だから、すぐに仕事もできるわ」

 すべてを問う前に、ミス・フランソワは答えをくれた。それなら安心だ。私は別に薬が苦手なわけでもないので、貰った錠剤を口に放り込み、水で一息に飲み干した。

ミス・フランソワは満足げに微笑み、心でするお仕事だから、落ち着いて、頑張りなさいね、と言った。



 インスラにおける行動記録は、使用端末内のメモリに記憶されるが、そのメモリは同端末から直接アクセスできないようになっている。これは記録改竄を防ぐための措置で、アクセスにはインスラを介し、規定の端末のハード・シリアル・コードと使用者パス・ワード、そして使用者のインスラ内パーソナル・コードの参照が必要だった。私のコンピューターの場合で言えば、規定の端末とはすなわち管理部長の端末であり、使用者は沢渡管理部長ということになる。

 行動記録のシステムは元々インスラのデバッガー用に作られたもので、閲覧もインスラ方式で行う。沢渡部長が私のデータを再生するということは、私の視点で私の行動を追体験するということなのだ。さすがにそのときの私の感情などは含まれていないが、方法の選択から作業の手際まで細大漏らさず確認されるのだから、正直、あまり気分のいいものではなかった。

 行動記録の確認をする間、医務室行きとランチタイムを指示されたのは、ほんの少しだがありがたかった。わずかな時間とはいえその場にいることになれば、落ち着かなくて気恥ずかしくて、どうにもたまらなかったろう。

 しかし、とはいえやはり、あらためて部長の前に戻るのは、気の重いことだった。

 気分転換にお気に入りのパスタ屋さんまで来たものの、結局食欲もでなくて、注文したのはオレンジジュースとサラダだけ。なのに、それも食べきれず残してしまった。

 自発的ならまだしも、バグ側に強制退去させらたのは致命的だったと、今更ながらに思う。

 インスラ内での自己保全において、『中枢プログラムの損失』、『中枢プログラムの融合』に次いで犯してはならないミスが、『偶発的な接続の喪失』なのだ。インスラ接続者の安全は、この三つが起こらない限り、まず保たれる。逆説的に、これらのどれかが起これば、安全は保障されない。特に前二つは、サルベージ・プロジェクト対象事故そのものの要因で、起こればストレートに二次災害と認定されてしまうから、当局もかなりナーバスになっている。

 私のミスはそれらよりは軽いが、二次災害以外では、一番に重いと言える。イージーミスではない。サルベージ要員としての適性が問われるほど、と、私なら考えるミスなのだ。

 落ち着いてきて、考えれば考えるだけ、自分のヘマの重さが身にしみてくる。判断ミスが悔やまれる。逃げ出したいほど恥ずかしくて、悔しい。

 ベッドに潜り込んで、布団にくるまってしまいたい。寝て、起きて、寝て起きて。

何回か、何十回か繰り返せば、少しずつこの気分も和らいでくれるだろうから。

 でも、ダメだ。それはダメだ。そうしたら、あるかもしれないチャンスを逃してしまう。クビを言い渡されるまでは、私にもチャンスがある。まだ決まったワケじゃない。見苦しくても、言い訳だって出来る。拝み倒しても、泣いて見せたっていい。まだ辞めたくないんだ。私はまだ、何もできていない。見つけてさえいない。

 会社まで戻ると、受付の警察官は交代して、堅苦しそうな中年のおじさんになっていた。この人も何回か見たことがあった。顔は似てないのに、メガネだけが部長のものと同じに見えて、なんかいやだった。

 曖昧な気分のまま、エレベーターに乗り込んだ。中途半端な自分がいやだったが、どうにもならない。きっとひどい顔をしているんだろう。ろくでもない。

 せめて部長の前ではいつもの自分を。そう思って、笑うつもりで顔をひきつらせた。

 エレベータのドアが開いた。

 いつもの景観が、異次元みたいだった。



 三年前だった。

 新しもの好きのくせにやけに保守的な父の交換条件をクリアし、インスラへのアクセス権を手に入れたのは、三年前の春のことだった。

 騒がれ始めた頃には、あまり関心がなかった。インターネットのメールやチャット、ヴィジフォンがあれば事足りる。そう思っていた。

 興味を持ったのは、秋葉原でのインスラ体験イベントだった。開設二周年かなにかで催されたのだったと思う。その頃はまだ、一般にはなお根強く不信感や反発が残っていた。それを、簡単にでも体験することで、関心/興味に置き換えてしまおうというのが、本当の狙いだったように思う。実際そんなコメントを、そのあとなにかで目にしたこともあった。

 興味を持ったといっても、本当のところはインスラそのものじゃなかった。そのイベントで使用された、新製品のフェイスマウント・ディスプレイの方に関心があった

のだ。ちょうど新しいのをさがしていた時期で、ついでに話題のインスラも覗けるのならば、と、そっちはほんのオマケくらいにしか思っていなかった。

 ヴァーチャル・ワールドなんていうのは、別にインスラの専売特許ではなかった。

当時というか、それ以前から仮想空間を売り物にするネットはいくつもあった。よりリアルに、より快適には当たり前のことで、そのための技術革新はまさに秒進分歩だった。中でも定番はフェイスマウントのディスプレイ。封鎖された視界に展開するグラフィックの美しさこそが、仮想空間の優位性そのものだった。

 問題は入力デバイスの扱いで、インスラがダイレクトリンクで解決するまで、とにかく考えられるだけの、それこそ無数のアイデアが導入されていた。

 標準的だったのは、マウスに代表されるポインティング・デバイス。これは3D空間に行動選択肢の記されたウインドウを開いておくやり方で、一番馴染みやすい方法だった。他の方法も、多少の差はあれウインドウのお世話にはなるので、基本形と言ってもいいかもしれない。これに音声入力があれば、ほとんど支障はない。

 少し変わったところでは、グラブ・デバイスがあった。これはかなり普及した。複数のジャイロ・モーターとキーを内蔵した大きめの手袋型デバイスで、手の動きで実に様々な入力が行える。私も愛用していたが、使わなかったのは手話形式によるアルファベット入力くらいで、かなり充実したデバイスだった。

 その発展で、ボディ・スーツ・デバイスなるものもあった。原理的なものは、昔のモーション・キャプチャーと同じなのだろう。それにグラブ・デバイスのノウハウが詰め込まれ、画期的なものとして発売されたが、あまり実物を見たことはなかった。

 今になって考えると、当時のデバイスがやけにローテクに思えてくる。だが実際、当時はその程度が主流であり、ダイレクトリンクはあまりにも唐突な進歩で、異端だったのだ。

 それでも時代の風は、その異端に向かって吹いていた。私が少なからず興味を抱いたのも、その潮流を感じていたせいかもしれない。

 私に関していえば、その体験イベントは、企画者の目論見通りの成果を上げた。

 本命だったフェイスマウント・ディスプレイは、とても美しい映像を見せてくれた。その美しさは、『視覚のみによるインスラの再現』を、体験者に示してくれた。

実に高性能な広告看板だった。

 ダイレクトリンクはそれ以上に美しく世界を再現し、煩わしい入力が不要で、感覚情報が視覚以外にも表現されるのだという。

 曖昧だった『それ以上』が体験によりリアルになり、『それ以上』への興味と期待は、いとも簡単に煽られた。


 インスラで、いつでも逢える


 使い古された通信機器の宣伝コピーが、もしかしたら初めて、限りなく本当に近い嘘になったのかもしれない。このクオリティなら、インスラは本当に『もう一つの世界』たりえるかもしれない。

 確かめてみたくなった。

 本物のインスラに、触れてみたくなった。

 インスラは、その性質上外科的手法を要するため、未成年の導入には保護者の承認が必要だった。父は、それほど強硬にではないが反対した。どうしても欲しければ、成人してからにしろといって。高三への進級を目前に控えた私は、十七になったばかりだった。丸三年。それは、あまりに長く思えた。だから私は、ずいぶんとしつこく食い下がった。普段ものをねだらない私が、珍しく長々とぐずったのが効いたのか、父は交換条件を出す形で折れてきた。

「四大を受験しなさい」

 それも、出来れば国公立を目指しなさい。

 中学から付属の女子校に通っていた私は、そのままてっぺんの女子短に上がるつもりでいた。外部受験もちらりと頭をかすめたけれど、あまり考えたりはしないでいた。父もこのときまで、はっきりと口にしたことはなかった。

 口振りから察するに、半分は嫌がらせ。こう言えばあきらめると思っていたのだろう。しかしもう半分は、結構本音ではなかったろうか。父は、小さいながらも会社の経営者だった。後継を考え、やはり子供を四大へ、という希望を持っていてもおかしくはない。父の家族はもう私しかいなかったのだから、男も女もないのだし。

 合格すれば、入学祝いにインスラへの加入を認めてくれる。三年が一年になる。悪い条件ではなかった。

 それから一年。さすがに国公立は無理だったが、一流の端か二流の頭か、とりあえず名前のある私大に籍を確保した。父は約束を守り、インスラとの契約を許してくれた。

 そうして三年前の春に、私は二つの新しい世界を手に入れたのだ。

 それまでの女子校とは違う外の大学と、デジタルな新世界、インスラと。



 極めて予測の難しい事態。

 不可抗力的なアクシデント。

 私のしでかしたヘマを、部長はそういう表現で評価した。

 但し。

 アクシデント自体の予測は難しいが、前段階での対応に十分な予断がなされていなかった。処理方法にムラがあり、臨機応変と言うより優柔不断と受け取れる。

 そういう評価もいただいた。

 過失は少ないが、ミスはミス。判断が甘いのは未熟だから。要するに、そういうことだった。

 注意は受けたが、予想外に簡単なものだった。それは今回のバグが、私の予想以上に難物であったと、部長が判断したためだった。

 暫定的にではあるが、危険度Aクラスとの評定だった。正式に認定されている範囲では上にはAA、AAAしか存在しない。設定されているがいまだ認定対象のないSを除いて、現在上から三番目の危険度だ。

 そんなにやっかいだったのかと驚いたが、正直、あまり実感はなかった。たぶん、それがわからないからミスをしたのだろう。それこそがきっと、私の甘さなのだろう。

 危険度のポイントは、三つあった。

 一つは行動性のバグであり、行動には元々のプログラムと同時に若干の自主判断がうかがえる点。これは部長の主観的な予測だが、店員プログラムと管理者(とは限らないが、いずれにしてもそこにいた人間)のパーソナルデータが融合しているのではないかと考えられる。基本行動はプログラムに縛られ、判断は管理者の『意志』が行っているパターンだ。こうした例はあまりない。これとは逆の、人間的に行動しているのに判断がやけにプログラマティック、という融合パターンのほうが、どういうわけか多いのだ。どちらが危険かということになれば、反応が複雑で予測できない分だけ、前者の方が数段やっかいである。

 次いで、探査針を所有している点。一部に違法なコピー・プログラムやレプリカ・プログラムも出回っていたとはいえ、あれがあるならば融合者はインスラの正規管理者/デバッガーである可能性が高い。あるいはそうでないとしても、それが粗悪レプリカでなく数少ないコピーであれば、やはり相当にタチが悪い。探査針は、強制的にプログラムに介入できるツールである。プログラムで構築された世界においては、使い方一つで、世界そのものへの干渉も可能な万能兵器ともなるのだ。

 三つ目は、当該バグの所在地にあった。私が関知した解析データのゆらぎは、ある『仕掛け』の特徴と極めて似通っていた。その仕掛けのことは私も知っていたが、こういう特徴があるなんてことは知らなかった。その仕掛けとは、テレポーターと呼ばれる座標転移トラップである。テレポーター本来の目的は、対象者を、当人に気づかれないまま他の座標へと移すことにある。ゲーム・アトラクションなどでは定番で、嫌がらせにも最適な仕掛けだが、ここで言うテレポーターは少し違う。そこから転じて、痕跡を残さずに別座標へ移動するための仕掛けをそう呼んでいるのだ。

『痕跡を残さない』とは、インスラの管理システムを振り切ることを意味する。インスラ内にありながらインスラの管理下を離れる。そうして転移した先は、インスラを利用しながら管理システムからは巧みに隔離された、違法空間であることが多い。こうした場所は、たいていは割高な利用料金と引き替えに、インスラでは規制/制限されているようなサーヴィスを行っている。俗に言う裏チャンネルや裏サイトなのだ。

 こうしたテレポーターは、当然のことながら違法プログラムだ。インスラの隙を突き、盲点を探り、死角に潜り込んで機能する、極めて精緻なシステムである。しかしそのシステムは、いわば寄生虫のような側面を持つ。インスラでありながらインスラでなく、しかしインスラがなくては存在し得ない。その機能はインスラが健全に機能していることを前提にデザインされ、しかもインスラとは繋がりのないプログラムには、インスラの不安定化に対処することは出来ないのだ。テレポーターを介して繋がる仮想空間も、また然り。今現在、そのテレポーターが従来通りに座標を繋いでいるのか、またその先の座標がどうなっているのか、簡単には知ることが出来ない。

 一つ一つの問題なら、私でも対処できるかもしれない。だが、それらが密接に関係して存在した場合、同じ難度ですまされるとは限らない。

「総合的に見て、過失は少ない。不手際がなかったわけではないが、致命的でもない。まあ、仕方がないところだろうね」

 部長は微笑み、安心していいよ、と続けた。私が内心で抱えていた不安は、しっかりと伝わっていたらしい。

 クビはつながった。しかし、手放しに喜んでいられるわけでもなかった。

「これは君には少しばかり荷が重いだろう。この仕事は、僕が引き継ぐ」

 部長はそう言った。

 返す言葉がなかった。

 安堵感は一瞬で吹き飛び、胸が詰まった。

 それは、気づかなかったことへの後悔と、あらためて迂闊な自分を呪う悔恨だった。



 初めて訪れたインスラは、私の想像を遙かに超えるリアリティを持っていた。

 もう一つの世界。

 それは言葉で表現できるほど単純にではなく、存在を実感させた。

 架空世界と言いながら、実際に煩わしい入力が一切なく、感じ、触れて、歩き回れる世界。それはもはや架空ではない。それはヴァーチャル・リアルではなく、ただ単にリアルだった。

 のめり込むのに時間はいらなかった。

 夢中になった。

 インスラでは誰もが楽しそうで、開放的で、大胆だった。本人でありながら、それは意識の分身であって、本人ではない。本物みたいな顔をして、そのくせ顔も名前

借り物で、しかもそれが当たり前で。

 たくさんの友達が出来た。オンラインだけの友人たち。オフで会ったら、きっと恥ずかしいだけのような仲間たち。

 行けるところは、それこそ片っ端から回った。買い物も映画も、気分転換の散歩までインスラだった。数年内に第一号が完成するというネット内大学のニュースを聞き、何でそのときに受験を迎えられなかったのかと、本気で悔しがったりもした。

 明けても暮れても、寝ても覚めても。

 そんな調子で、三ヶ月ほどたった頃だ。

 世間は初夏。インスラ内のプールでいつものように遊んでいると、いつものように声をかけられ、いつものように友達になった。

 開設と同時期から参加していると言う彼は、いくつもの穴場を知っていた。面白がってついて回った私は、やがて怪しげなところに行き着いていた。

「ここはとっておきなんだ」

 秘密を守れるかと訊かれ、私は簡単に頷いた。

 そこに、テレポーターがあった。



 私に帰宅と一日の休養を命じると、部長は食事に出かけた。なんとなく取り残されたような気分だった。何気なく時間を見る。ディスプレイの片隅に十三時三十三分と表示されていた。

「どうした、ぼーっとして。なんかやらかしたか?」

「ええ。ちょっと」

 言葉の主は、ランチから戻った厚田さんだった。元開発主任で、現在はサルベージ・プロジェクトの当社チーフだった。彼が戻ったので、部長は食事に出かけたのだろう。

「ふうん、珍しいな。厳しく小言でも言われたか? 意外と細かいからな、沢渡サン」

 なんとなく返事をする気になれず、とりあえず苦笑だけしておいた。厚田さんは勝手に納得してなにやらぶつぶつ言っていたが、あまり耳には入らなかった。他のことを考えながら人の話を聞けるほど、私は器用じゃない。

 決めあぐねていた。

 クビになるかならないか、その瀬戸際にいたほんの少し前には、想像もしていなかったことになっていたのだ。

「少し休めってことなので、もう帰ります」

 チーフに上の空で告げながら、自分の端末に手を伸ばす。起動していたプログラムを終了していく。OSを閉じる。終了時に掛けるプロテクトの確認が並び、ここで確定を六回叩けば端末が閉じる。それでお終いだ。

 決めた。

 五回だけ確定し、最後の一回はNを選んだ。そして、ディスプレイの電源を落とした。

「それじゃ、お先に失礼します」

「おう、お疲れ」

 厚田さんはもう、自分の端末にとりついていた。まだ接続はしていなかったが、振り向きもせずに手をひらひらと振った。

 私は早足で会社を出た。

 部長はわりとゆっくり食事をとる。一度出れば、しっかり一時間は戻ってこない。

それだけあれば、私は自分の部屋まで帰り着けるはずだ。

 急げば、間に合うはずなのだ。



 もう会うつもりのなかった人に、メールを出した。アドレスを変えられてたらどうしよう、なんて、本気で心配したのは、三年前の夏だった。

 心配は杞憂に終わった。

 秋になる少し前、夏が終わろうかという頃に、私たちは再会した。

 インスラで、新しく出会い直した。



 ディスプレイではフィリックスがトムにモーフィングしていた。トムはこのあとピンクパンサーに変わり、再びフィリックスに戻る。オリジナルのスクリーンセーバーだ。

 コンピューターは携帯電話から起動させておいた。電車の中で、時間を惜しんでいた結果だった。基本的なプログラムも、すべて立ち上げていた。あまり役立つとも思えなかった通信機能が、やけにありがたく感じる。

 五十二分で部屋にまで帰り着いていた。バッグを放り出し、上着を脱ぎ捨てて、とにかく端末にとりついた。

 時間がない。たぶん、ほとんどない。

 通信を開始する。アクセス先は登録済みだった。時々必要になることで、私にすれば珍しいことではない。だが、無許可でこれを行うのは初めてだった。許可を得るか否かで、同じ行為でも違法になる。だからこれは、いわゆるハッキング行為なのだろう。わかってはいるが、どうせ許可なんて下りるわけがない。

 七桁のパス。

 九桁のパス。

 十一桁のパス。

 十三桁のパス。

 十五桁のパス。

 二桁ずつ増えていくパスを連続五回、それぞれ十五秒以内に入力する。ミスをすれば一発で回線が遮断されるが、私には慣れたことでしかない。ブラインドでもまず間違えないほど馴染んでいる。当たり前だ。行き先は、私の端末なのだから。

 六個目のパスは、敷設しなかったから問題はない。これはオプション・プロテクトで、アクセスの確認/警告を行うに過ぎない。『アクセスがあります。繋ぎますか』

の定型文を、特定の管理端末に表示するのだ。通常はもちろん、沢渡部長のところへつながっている。機能的には何があるわけでもないが、原始的な分だけこういうときには融通が利かない。オプションで助かった。

 侵入は成功した。これで会社の端末は、私のパソコンと繋がった。私はさっきまでよりも一つリレー機を増やして、インスラへと接続したのだ。

 インスラの内部は、約二時間前と何も変わったようには見えなかった。たぶん実際、ほとんど何も変わっていないのだろう。タロウの前から極東エリアまで、なんの障害もなく過ぎていった。

 部長はどうしているだろう。

 まだ来ていないのか。それとも、先に進んでいるのか。あるいは、もうすべて片づけてしまったのか。

 三番目の答えは欲しくなかった。初めのか、せめて次の答えが正解であって欲しかった。

 雑居ビルはすぐに見つかった。シールドが破られていた。侵入者がいるのだ。やっぱり、先んじられていたらしい。少しだけ考えた。間に合わなかったときどうするか、二つの選択肢があった。見つからないうちにおとなしく帰るか。見つかってもいいから、部長の仕事を見せていただくか。

 迷っていたけど、それは事態に直面していなかったから迷えただけのようだった。

こうなって、すごすご帰るくらいなら、初めからリスクなんか犯さない。

 シールドの破れ目をくぐり、早足でビル内を進んだ。中の様子に変化はなかった。

私の施した処置はほとんどそのままだった。前回と同じルートで歩を進め、やがて忌まわしきミスを犯した現場へたどり着いた。

 そこに、大きな変化があった。

 タキシード姿の店員プログラム。右手に探査針を握った当該バグが、硬直して突っ立っていた。解析された様子も分離された様子もなかった。なんの処置も施されていない。識別マーキングさえも行われず、ただフリーズさせられていた。

 どういうことだろう。

 いや。どうもこうもないか。部長はすでにここにいないのだ。後回しにしたとしか考えられない。そうした理由は一つだけだろう。

 テレポーター。

 部長はそこを最重要と考えたのだ。当然だと思う。その先にあるかもしれない裏ネットは、ここよりもずっと危険な不良オブジェクトの巣窟である可能性が高い。

 少し探すと、テレポーターはすぐに見つかった。思ったより早く見つけられたが、あると思わなければ見つけられなかったかもしれない。

 場所はトイレだった。個室の一つがそうだった。トイレの存在に違和感は感じないが、よく考えればインスラにトイレがあるのはおかしいと、誰でも気づけることと思う。

 慎重にテレポーターを調べた。予想より遙かに安定していた。シールドもブロックもされていないが、解析された痕跡があった。ほんの数分前のようだ。あまり離れていないらしい。

 念のため、現時点の座標を退避プログラムに書き込んで、準備した。転移先によっては困ったことになるかもしれない。さらに念のため、タイマー設定もした。これできっかり五分後に、この座標に退避してから退去プログラムが展開する。

 テレポーターに触れるのは、久しぶりだった。

 なんだか、どきどきした。



 寝坊から始まった朝は、とにかくついていなかった。大学では一限目の哲学をを取り損ねた。英米文学のレポートを出し忘れ、引き返したせいでバイトに遅刻した。その分少し遅くまで頑張ったら、帰りの電車が止まっていた。そのせいでインスラでの待ち合わせに間に合わなかった。

 五ヶ月前のことだ。

 だから私は事故に遭わなかったのだ。

 逢えなかったから。



 テレポーターは生きていた。転移先も、おそらくは初期設定通りの裏ネットだった。探査針で調べると、インスラ的には有り得ない座標が表示されていた。

 ここはどのような名称も与えられていない場所のようだった。残念ながら私の知っているところではなかった。

 イメージは、薄暗くて、やけに大きな体育館だろうか。四方の壁も天井も遠く、先には重たい闇が溜まっているようだ。そしてその黒く暗い空間には、いたるところにもぞもぞと蠢いているものがあった。遠目にはなんだかよくわからないが、好奇心と嫌悪感を同時に刺激される雰囲気だ。なんとなく、ピンときた。

 こことよく似た裏ネットを知っている。

 ここはセックスチャンネルだ。

 蠢く影の一つ一つをあらためて見ると、それらはいびつに歪んでいるが、絡み合う複数の躯だとわかる。

 二人で。

 三人で。

 男と女が。

 男と男が。

 女と女が。

 電子化された精神が、単なる肉塊のように絡まり合い、混じり合い、交ざりあっていた。

 遙かなる過去からそうであったように。

 未来永劫そうであるように。

 緩やかな時の流れに沈むように溺れ、ただ快楽に浸り、求め、貪り続けていた。

 眩暈がした。

 直感的に理解してしまった。

 個人データ同士が混ざっているんだ。

 インスラであってインスラでないこの空間では、事故の影響がパーソナルデータを直撃し、揺さぶり、シェイクしてしまったのだ。

 とても手に負えない。私にはどうすることもできない。そうだ、部長は?

 視界を巡らした。それらしい姿は見えない。

 見つからない。

 見つけられない。

 声がした。多くの呻き声のなかで、はっきりと意味のある言葉が聞こえた。

「マコト」

 かすれた呻き混じりの声だ。もうすぐ他と同じように、単なる呻きに変わりそうな声だった。

 部長が見つからなかったのは、すでに周囲に同化していたせいだった。部長は裸だった。絡まり合う精神の肉塊の一角で、少年の腰にしがみつき、名を呼びながらむしゃぶりついていた。

 部長に絡みつかれている少年の顔は、私が知るものよりも生き生きとしていた。陶然と父親を見下ろし、さらに誘っているようだった。

 少年の右手は、誰かの股間に融合していた。どんな人なのかはわからない。その人の上半身は、丸ごと女性の腹部にとけ込んでいる。

 部長と少年の融合も始まっていた。すでに部長の腕と少年の腰に境界は見えなくなっていた。恍惚の表情を浮かべながら、部長は部長でなくなっていく。

 不思議なくらい安らかな顔をしていた。

 あんなに助けようとしていたのに、助けられなくなっているのに。

 私はただ、それを見つめていた。

 止めようとも、助けようともせず。

 ただ放心して。

 我に返ったときには、ファー・イースト・ストリートの例の雑居ビルにいた。

 いつの間にか退避プログラムのタイマーが起動していたのだ。退去命令待ちで、プログラムはスタンバイしていた。いつでもインスラを抜けられる。

 うん。とりあえず抜けよう。

 そして私は、どうするんだろう。



 もし逢えていたら。

 あの人を見つけられていたら。

 私は、どうしたいのだろう。

 どうなって、しまうのだろう。



コンピューターの描写がたいへん古臭いですね!

実際昔書いたものなので、ご容赦を。


Windows95の頃の一太郎データですよ、たぶん。リーダーがなければ取り出せませんでした。


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