あるいはそれを、一目惚れと人は言う
「────」
不意に体が固まる。
ドクン、と大きく心臓が跳ねたのをきっかけに、時間の流れがゆっくりになる。
少女は木の根元で腰を抜かしていた。
長く鮮やかな赤髪は耳の下で緩く二つ結びにし、桜色の薄い唇と八の字に立てた膝をぷるぷる震わせている。
格好は魔法使いのようだ。傍らに落ちた鍔広の三角帽子が最もその印象を強めている。
肩にはマントを羽織り、その下に白いブラウスを着て、胸元に細いリボンを結ぶ。
下はミニスカートを穿き、ロングブーツを履く。膝を立てているため無地の下着が覗けていた。ふとももはほどよく引き締まっている。
帽子、マント、リボン、ミニスカートはすべて赤。ロングブーツとポーチを吊ったベルトのみ茶色だ。
しかし、何よりも目を奪われたのは、長い睫毛に縁取られた少女の瞳。
〝青〟ではなく、〝蒼〟でもなく、宝石のような〝碧〟の瞳。
それがあまりにも綺麗だったから、時間も呼吸も忘れて、つい見惚れてしまった。
「ひっ!」
「っ」
少女の悲鳴で現実に戻る。──嫌な予感がする。バックステップで距離を取る。
少女が両手をラグナに向けた。
すると虚空に火が走り、円形の幾何学模様を描く。中心には火の玉が発生し、瞬時に人の頭と同じくらいまで膨らむ。
「くっ……!」
肌感覚でわかる。あれをくらったら、まずい、消し炭だ。
「わたしで防げ!」
突然、コクトーが叫んだ。
ラグナは考えるより早く刀を使った防御態勢に入る。
「────『炸裂』!」
直後、少女が叫んだ。
火の玉はラグナめがけてまっすぐ飛来する。
刀と火の玉が、ぶつかった。
その瞬間、火の玉は真っ二つになり、ラグナに直撃することなく後方にすり抜けていった。
背後で爆発音。斬った……のか? 火の玉を? ちょっと信じがたい。理学の心得はないが、普通ならありえない現象だろう、今のは。
「も、もう一発!」
いや、細かい話はどうでもいい。この刀は火の玉を斬れる。必要な事実はそれだけだ。
再び展開される円形の幾何学模様。火炎がその中心に集まっていく。
しかし、今度は退かない。むしろ前に出る。
「──斬れ!」
コクトーがまた叫んだ。おそらく考えていることは一緒だ。
「づぇあ!!」
ラグナは刀を肩口から振り下ろし、円形の幾何学模様を真っ二つに斬り捨てた。
「そんな……」
少女が青ざめて小さな体をさらに小さくする。まるで大型の肉食獣に追い詰められた非力な小動物のように。
その様子を見下ろしつつ、刀を担ぎ、
「テメェ、何者だ?」
低く威圧的な声で問う。
「た……た……」
「あん?」
「ひぃっ!? 食べないでぇぇぇぇ!」
「食わねえよ!?」
眉根を寄せたのがよほど凶悪に見えたのだろうか、少女は金切り声を上げ、滝のような涙と鼻水を流し始めた。「うわっ、きったね」とコクトーがつぶやく。
「や、やだぁっ、殺される! 私ここで殺されるんだ! まだ恋人すらできたこともないのにこんなところで魔族に捕まって食べられちゃうんだ! うわーん!」
「だから食わねえっつってんだろ!」
すかさず反論するも、少女の嘆きは止まらない。よだれまで出てきた。顔面大洪水だ。
「じゃあ犯すつもりなんですね!? 私を慰みものにして散々いいようにもてあそんだ挙句、最後にはゴミのように捨てるつもりなんですね!? 最低です! 卑劣です! この極悪非道の性犯罪者!!」
「人聞きの悪いこと言うな! 俺はおまえを食わないし、乱暴もしない! あと、俺は魔族じゃなくて人間だ!」
「──えっ?」
ぴたり、と少女が固まった。
碧眼を丸く見開き、ラグナのつま先から頭頂部までをじっくりと観察し、最終的に恐る恐る視線を合わせる。
「……ほ、本当に人間なんですか?」
「正真正銘、人間だ」
「じゃあ、私にひどいことしないですか?」
「しねえよ」
「いきなり魔族とか性犯罪者とか言っちゃったこと、怒ってません?」
「怒ってない」
「本当ですか?」
「くどい。何度も言わせるな」
「……よ、よかったぁ〜……」
少女は安堵の息を吐き、平らな胸を撫で下ろした。それから眼前に差し伸べられた手のひらを見つけ、一度、不思議そうにまばたきした。
「ほら、立てよ。いきなり斬りかかって悪かった」
「……ありがとうございます」
少女はラグナの助けを借りて立ち上がり、マントとミニスカートに着いた土をはたき落とした。三角帽子を拾い上げ、そちらも同じようにしたあと、被って位置を調整する。
「こほん。先ほどは大変失礼しました」
「お互い様だ」
「そう言っていただけると気が楽です。私は竜人族のユイリール・ドラグナー。気軽にユイとお呼びください。あなたは?」
「俺は」
──ラグナ。
そう名乗ろうとして、言い淀む。
『ラグナ』は古い言葉で〝滅び〟を意味する。そんな名前をはたして馬鹿正直に名乗るべきなのだろうか? 偽名を使ったほうがいいのではないだろうか?
怖い。髪のことがあったせいか、もし本名を明かして拒絶されたらと思うと、それだけで息ができなくなる。
「…………」
だが、『ラグナ』という名前は何も持たない自分にとって、自分を自分たらしめる唯一のモノだ。
たとえ不吉なものであろうと捨てる気にはなれない。
「ラグナだ。転生者ってやつらしい」
「転生者!?」
「うおっ」
詰め寄るユイ。仰け反るラグナ。危ない。頭突きを喰らうところだった。
「生まれて初めて見ました! 転生者って確か、魔族と戦えるくらい強いんですよね! すごい!」
碧眼が星の輝きに満ちている。予想外の反応だ。
もしかして『ラグナ』と名乗って別に忌避されない? いや、彼女が特殊なだけということもありうる。まだ一人目だ。断定はできない。油断しないでおこう。
……それにしても綺麗な目だな。って、何を考えているんだ俺は。
「落ち着け、近い、唾を飛ばすな」
ユイの顔を押し返す。
「えへへ、すみません。つい興奮してしまいました」
「『えへへ』じゃねえよ。今ので顔がベタベタだ」
「まあ、いいじゃないですか! こんな美少女のよだれを浴びる機会なんてそうそうありませんよ!」
「いらんわそんな機会! それより竜人族だって? どんな種族なんだそりゃ?」
「自然界最強の生物であるドラゴンの眷属です。小さい頃はドラゴンに近い見た目ですけど、私くらいの歳になるともう普通の人間と変わりませんね。あ、でも見て。肌がちょっと鱗っぽくなってて常にツヤツヤなんですよ!」
「ほう……」
「触ってみます?」
ユイが自分の頰をつつく。
「おう」
人差し指で失礼する。本当だった。たっぷりと日向ぼっこしたあとのトカゲみたいな手触りだ。しかし、人間らしいもちもちとした柔らかさも備えている。
「すごいでしょ」
「すごい。歳はいくつなんだ?」
「今年で十五歳になります! ラグナさんは?」
「俺か? 俺は……わかんねえ。転生者だからな」
「あ、そっか。それもそうですよね。あはは」
「でも、たぶん二十代前半だと思う」
「目つきの悪いお兄さんって感じですもんねぇ」
「悪かったな、目つきが悪くて」
「そんなに睨まないでくださいよぅ」
「別に睨んでるつもりはない」
「睨んでる」
「睨んでない」
「睨んでる」
「睨んでない」
「睨んでる!」
「睨んでない!」
「にら「あんたらいつまで乳繰り合ってんのよ!?」
コクトーの怒号が森中に響き渡った。
野鳥が数匹、逃げるように飛んで行く。
「うるせえぞコクトー。いきなり耳元で叫ぶな」
「叫びもするわ! ほっぺぷにぷにすんのもやめろ!」
「むう……」
名残惜しいが仕方ない。指を離す。
「び、びっくりした……」
「あー、ごめんね? わたしは最強の神器コクトーよ。よろしく、ユイ」
「はい! 竜人族のユイリール・ドラグナーです! よろしくお願いします! そういえばさっきのアレはコクトーさんの能力ですか?」
「『炸裂』を斬ったことね。もちろんそうよ。わたし、最強だから」
コクトーは、ふふん、と鼻を鳴らした。鼻はないけれど。
「得意げになってるトコ悪いが、そういうことは早めに教えてくれ。知ってたらあんなに慌てずに済んだじゃねえか」
「まだ本調子じゃないのよ」
ユイの気配に気づくのだって遅れちゃったし、と付け足して、
「ってかさ、自分の未熟さを棚に上げてわたしのせいにしてくるのやめてくれない? ムカつくんだけど」
と、喧嘩腰で言ってきた。
だから、つい、こちらもムキになってしまう。
「ケッ、事実だろうがよ。最強が聞いて呆れるぜ」
「おーおー言ったわね? そっちこそさっきまで『転生したくなかったよ〜、え〜ん』って半ベソかいてたくせに」
「そんな言い方してねえよ! 脚色すんな性悪女!」
「残念でしたぁ、女じゃなくて刀ですぅ〜。あとユイの脚をじろじろと舐め回すように見てたヘンタイに言われたくありませーん」
「し、しょうがねえだろ。男なんだから」
「うわっ、開き直るとかないわー。あー、やだやだ。いたいけな少女を視姦するような色魔が使い手だなんて泣けてくるわ!」
「テメェ……神殿に戻りたいなら素直に言ってもいいんだぞ?」
「何よ」
「なんだよ」
「「ぐぬぬ……!」」
似た者同士の煽り合い。ラグナとコクトーのあいだには不可視の火花が激しく燃え散る。
「まあまあ、落ち着いてください」
そこへユイがなだめに入った。
ラグナとコクトーは互いに舌打ちして、それを終わりの合図とした。
「ところでお二人はここで何を?」
ユイの質問。
「水を飲みにきただけだ」
ラグナはぶっきらぼうに答える。
「このあとのご予定は?」
「特にないわ。さっき目覚めたばかりだし」
コクトーがつまらなさそうに答える。
「──なんたる偶然!」
そして、ユイが嬉しそうに笑い、
「これはもはや運命と言っても過言ではないでしょう! きっと竜神様がいつもいい子にしてる私にチャンスをくれたに違いありません! ありがとうございます、竜神様!」
胸の前で指を組み、天に祈りを捧げた。
急にどうしたんだ? ラグナが無言で戸惑っていると、今度は刀を握っていないラグナの左手を両手で包み込んできた。興奮しているせいか、頬には赤みが差している。荒い鼻息が左手にかかってくすぐったい。
それから何を言い出すかと思えば、
「ラグナさん、私のドラゴン探しを手伝ってください!」
「ドラゴン……探し?」
そんなことを頼んできた。