平和な日常
草原で、二人の男が戦っていました。
一人は目つきの悪い黒髪の青年で、もう一人は青灰色の鱗を持つ精悍な竜人でした。
青年が突撃します。地面を抉るほどの加速です。あっという間に距離を詰めると、回し蹴りで竜人の顎を狙います。
しかし、それは空を切りました。竜人が上体を反らしたからです。完全に見切られていました。
青年は立て続けに拳を二度放ちました。これも空を切ります。竜人がその大きな体からはとても考えられないような俊敏さで見事に躱したからです。
青年は分が悪いと判断したのか、顔をしかめながら後ろに跳びます。
対して竜人は逃すまいと同じように跳びます。
間合いは変わりませんでした。変わったのは、攻撃する側とされる側の立場でした。
竜人族が正拳突きを打ちます。亜音速に達していそうなソレは、掠めただけで青年の頰を切り裂きました。恐ろしい速さと威力です。まともに喰らえばひとたまりもないでしょう。
竜人が得意げに笑い、青年がさらに眼差しを鋭くします。
それからは、乱打です。まるで豪雨でした。竜人は一方的に青年を殴り続けます。ガードされてはいますが、反撃の隙も瞬きする暇も与えません。たとえ直撃せずとも、青年の体力を確実に減らしていきます。
青年は絶体絶命でした。
──ほんの一瞬のことでした。
やはり竜人とて疲れたのでしょう。拳の雨がほんのわずかなあいだ止みます。
青年はその好機を見逃さず、血飛沫を纏いながら肉薄し、ついには竜人の懐に潜り込みます。
下から昇ってきた稲妻めいた膝蹴りも先読みによって強引に受け流します。
竜人の体勢がわかりやすく崩れました。
そこへ、
渾身の力を込めた青年の右拳が放たれ、
鈍い打撃音が、
青空に響きました。
*****
「なあ、ラグナ殿。そろそろ機嫌を直してくれないか?」
「嫌だね」
「やれやれ……」
昼下がり。ドラグナー村を一望できる丘にて。
穏やかな日差しの白と、地面に敷かれた絨毯の緑と、快晴の空の青とが、たった三色で絵画になりそうな景色を作り上げていた。
遠くで竜の鳴き声が聞こえる。それから、ぐぅ、と自分の腹の虫の鳴き声も聞こえた。
「チッ。尻尾は使わないって言ったじゃねえか」
ラグナは木陰であぐらをかき、側頭部を押さえ、そっぽを向いた。ガキ臭い不貞腐れ方だという自覚はあるが、そうせずにはいられないほど悔しいしムカついているのだ。
「仕方ないだろう。ああしなきゃオレのほうがやられていた」
それに対し、隣に座っているイクサスは困ったように眉をひそませる。
「ハ、それじゃあ潔く俺にやられろっつーの」
「嫌だ。負けたくない」
「あぁ!? この卑怯者め。それでも武人か!」
「なんだと? それを言うなら、魔法を使ってるそっちのほうこそずるいだろ! 不公平だ、不公平!」
「仕方ねえだろ! 勝手に発動するんだから不可抗力だ!」
「だったらオレの尻尾も認めてもらおうか!」
「いいや、駄目だね! そもそも頑丈すぎるんだよ、あんたは! 魔法がなかったら絶対勝てねえよ!」
「あっても勝ててないだろ! さも同じ体なら勝てるみたいな言い方するな!」
「これから勝つ予定なんだからいいんだよ!」
「屁理屈か! ガキか!」
「うるっさぁぁぁぁぁぁぁぁい!!」
複数の癇癪玉がまとめて破裂したかと思うほどの大声が耳をつんざく。
声の主はコクトーだ。木陰を作る木の幹に立てかけられている。
「あんたたち休憩中くらい黙ってられないの!? いい加減その口縫い合わせるわよ!」
「だ、だってよ、イクサスが……」
「いや、ラグナ殿が……」
「言い訳無用! ラグナは鍛えてもらってるんだから文句言わない! イクサスは大人気なく約束破ってまで勝とうとしない! 以上! 閉廷!」
「「…………」」
「返事は?」
「「はーい」」
「『はい』は一回! 伸ばさない!」
「「はい!」」
「よろしい」
コクトーが満足げに言った。
──悪竜を退けてから、すでに一週間が経過していた。
かの一件は悪竜事件と名づけられ、ドラグナー村では未だに会話のネタとなっている。
「はぁ……なんで勝てねえんだ。パワーもスピードも前よりずっと上がってるってのに」
悪竜事件以降、ラグナは村の仕事を手伝うようになり、その合間にイクサスと手合わせすることが日課になりつつあった。
今のところ白星を勝ち取ったことは一度もない。ラグナとしては徐々に動きがよくなっている実感があるのだが、どうにも初勝利には繋がらない。
「戦士としての年季が違うのだよ、ラグナ殿」
イクサスが楽しそうに言った。非常に悔しい。非常にムカつく。だがそれ以上に凹む。
「いや、それはそうなんだけどさ。ここまで連敗が続くとさすがに応えるっていうか、なんというか」
「オレに勝ちたければ地道な鍛錬を積み重ねることだ。いくら魔力が大きかろうと、まともに使いこなせないなら宝の持ち腐れだからな」
「……言うな。自覚してる」
ラグナは自分の左手を眺める。中指に嵌めた銀色の指輪が、木漏れ日を反射して輝いている。
『抑制輪』。名前の通り、装備者の魔力を抑制するアイテムだ。
今のラグナの魔力は『抑制輪』でも抑えきれないほどに増大している。その余剰分が『自動強化』に反映され、魔力を抑えた状態であってもある程度の戦闘力を発揮できるようになった。先の手合わせがそれだ。
ルビー戦後もそうだったが、短期間で急激に魔力が増えるこの現象について詳しいことはわかっていない。
ただ、ルイの調べによって〝傷ついた状態から回復すると魔力が増える〟ということのみが明らかになっている。
死にかけて、そこから復活すれば無限に強くなれるのかもしれないが──いかんせん強くなるほどダメージを負いにくくなるので、魔力に関しては今の強さが限界だ。
「当分は魔力のコントロールと体力の底上げがメインね。じっくり剣術を教えるのはそれからよ。いい?」
「はいよ、コクトーせんせー」
「教育熱心なことで」
「使い手がこの程度だとわたしの沽券に関わるのよ」
「だからって風呂入ったあとに素振り千回やらせるのはやめてくれ。まあ、やるんだけど」
他にも『抑制輪』をつけたまま数人分の力仕事や狩りを行ったりドラゴンの遊び相手をしたりしている。たまに怪我をすることもあるが、悪竜との戦いに比べればどれも些事だ。
「前から気になっていたんだが」
イクサスが急に話題を変える。
「ラグナ殿はどうして強くなりたいんだ?」
「ハ、男が強さを求めるのに理由がいるかよ」
ラグナは即座に答えた。
「誤魔化そうとしても無駄だぞ」
「俺を疑うのか、イクサス」
「疑いではない。確信だ。おまえの右手は今どこにある? 追い詰められると前髪を触る癖、直したほうがいいんじゃないか?」
「……ごもっとも」
無意識のうちに右手で掻き上げていた前髪を下ろす。
「名前負けしたくないんでしょ、『英雄ラグナ』サン?」
「その呼び方はやめろ」
からかってくるコクトーに鋭く横目を飛ばした。
『英雄ラグナ』。
悪竜事件の翌日から、ラグナはそう呼ばれるようになった。
マイが村中に触れ回り、訂正する間もなく定着してしまったのだ。
ラグナにとって、それは皮肉と同じだった。
悪竜には結局勝てなかったし、最後に倒したのはマリアだ。身に覚えのない功績と称号だけがついて回るのは気持ちが悪い。むしろ馬鹿にされた気分になる。
「……英雄なんて名乗れるほど、俺は強くない」
「じゃあ、『万年発情英雄ラグナ』はどう?」
「余計にひどいわ! 悪びれもなく言ってんじゃねえ!」
「でも間違ってないでしょう? わたし知ってんだからね。あんたが村の人たちをエロい目で見てること」
「うっ……そ、それは……」
「ちなみに胸派? 尻派?」
「両方」
「歪みないわね」
コクトーが呆れて言った。
そんなやりとりがひと段落したところで、ユイがバスケットを片手に丘の下から現れた。
「みなさーん! お弁当持ってきましたよー!」
「おべんとー!」
その後ろにいたマイが続けて声を張った。のそのそと歩くルビーに乗っている。
「ほら、愛しのお姫様がきたわよ」
「嬉しそうだな、王子様」
からかい満載で言う二人。いったいどんな顔をしていたのか。ラグナは慌てて眉間に皺を刻む。
「ハ、ようやく昼飯にありつけると思っただけさ」
「そういうところも素直になればいいのに」
「ほっとけ」
悪態をつきながらコクトーを自分の横に移すと、空いたスペースにユイが座り、バスケットから取り出した敷物と料理を並べ始める。
「なんの話をしてたんですか?」
「別になんでもねえよ」
それを手伝いながら、ラグナは素っ気なく答えた。