竜の逆鱗に触れし者の末路
雲を突き抜け、遥か上空へ。
悪竜は太陽と雲の狭間で、臆面なく怨嗟を撒き散らす。
「許さぬ……絶対に許さぬ……! あんな虫ケラに片目を奪われただと? この儂が? 偉大なる竜であり森羅万象の摂理である、この儂が!? そんなことはあってはならぬ。人間風情に敗れるなど、絶対にあってはならんのだぁっ!」
筋肉が隆起し、全身の裂傷が開いた。
自尊心を傷つけられた怒りに我を忘れ、古傷の痛みを感じることもない。
「消し炭にしてやる! 跡形もなく!」
魔力の全てを紫電に変換する。魔法陣の規模は自身の体躯をも上回り、地上の悉くを焼き払うべく、解き放たれる瞬間を待ち望む。
「あの世で後悔するがいい! ──『炸裂』ォォ!」
呪文と共に、天の雷は地上を目指した。
それは雲海を裂いて進み、
「なっ……!?」
突如として消えた。
いや、掻き消された。
驚愕、息が止まる。
恐怖、身震いする。
焦燥、逃げるべきだと細胞の一片に至るまでが警鐘を鳴らしている。
散りゆく紫電の向こう側。
「この魔力……まさか……」
それほどまでに恐ろしく、おぞましい、圧倒的な存在の気配。
血液が凍りつき、沸騰していた思考が冷点下に逆行する。
「強い魔力を感じたからきてみれば……こんなものをあの子たちに向けて撃つなんて、危ないじゃない」
久しく感じることのなかった死の気配が、手に取るようにはっきりとわかる。
悪竜は知っていた。
戦場を生き場所とし、鮮血で湯浴みし、息するように屠殺を繰り返す、赤髪碧眼の化け物を。
【赤き暴竜】。
かつて多くの人々が、かつて名だたる竜たちが、畏怖の象徴として呼んだ、とある女の異名。
本名、マリアンヌ・ドラグナーの姿がそこにあった。
「こんにちは。自己紹介はしなくてもいいわよね?」
【赤き暴竜】が展開していたのは手のひら大程度の魔法陣。握り潰す動作をすると、硝子のように砕けて消える。たった、たったあれだけで全身全霊の『炸裂』を防がれたというのか。
「……? あなた、なんだか見覚えがあるわね? ……ああ、思い出した。確か二十年前くらい前に、無謀にも私に挑んできた、図体がデカいだけの愚かな竜。殺したつもりだったけど、生きてたのね」
「そ、それはこちらの台詞だ! 貴様こそ生きていたとはな! 突然噂を聞かなくなったから死んだものと思っていた!」
苦い記憶だ。自分に敵う者などいないと各地を荒らし回り、退屈を極めていたとき、たまたま耳にした【赤き暴竜】の存在。どれ、暇潰しに遊んでやろうと息巻いた挙句、あっけなく返り討ちにされ、生死の境をさまよった衝撃的な事件。
あれ以来、悪竜は【赤き暴竜】に近づかないようにしつつ、力を蓄えてきた。いつか復讐するために。ゆえに、偶然にも【赤き暴竜】の娘をさらえたことは僥倖だった。
「娘を餌に貴様を誘き出すつもりだったが、まさか貴様のほうからきてくれるとは話が早い! ここであのときの復讐を果たしてやる! そうすれば正真正銘、儂こそが絶対であり最強だ!」
「…………」
【赤き暴竜】は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりにため息をつき、虚無を溜めた目で悪竜を見た。
「やめてもらえるかしら、そういうの。私ね、今、昔の自分を忘れて平和に暮らしているのよ。見逃してあげるからほっといてくれる?」
「平和な暮らしだと? あの【赤き暴竜】が、か?」
悪竜が訊き返すと、彼女はひどく苦々しい表情を浮かべた。
「その呼び方もやめてちょうだい。不愉快だわ」
「ハッ、貴様のような化け物が何を今更真人間のフリをしている! 貴様は儂と同じ、生まれながらの強者だ! 生きているだけで災いを呼び寄せる宿命にあることは嫌というほどわかっているだろう!」
「……そうね」
逡巡ののち、女は自虐的に笑う。
「でも、家族っていいものよ、この私が生き方を変えるくらいには。あなたにはわからないでしょうけど」
「随分と腑抜けたらしいな……! ならば儂が貴様に勝るのは当然の摂理!」
戦闘態勢に入る。魔力は心許ないが、肉弾戦なら勝機がある。いかに強力な魔法を使おうとも肉体的にはただの人間なのだから、一発殴れば済む話だ。
「……実力差もわからないのね」
「ほざけ!」
翼で空気を打ちつけ、【赤き暴竜】へと接近する。脇に拳を引き絞る。体重と膂力に加えて重力の助けを借りるのだ、どんな障壁を張ろうと防げるはずがない。たとえ張っても打ち砕ける。悪竜は勝利を確信する。
「『縛鎖』」
低く、冷めた声。
【赤き暴竜】の横に一枚の魔法陣が展開され、そこから伸びた光の鎖が高速で悪竜の両手両足、両翼、頚部に巻きついた。鎖は頑強で、逃れようともがけばむしろ複雑に絡み合い、悪竜の体を完全に拘束する。
「この程度──」
「無駄よ」
内側から破壊するつもりでいた。しかし、光の鎖はビクともせず、さらにきつく悪竜を締め上げると、最後に下顎から上顎へと貫通する。
「……!?」
口を閉じた状態で固定されたため、呻き声すらあげられない。
「本当に愚かね。喧嘩を売る相手を間違えたこと、せっかくの生き延びるチャンスをふいにしたこと、何もかも間違いだらけだわ」
【赤き暴竜】の殺気が急速に膨れ上がる。
「全魔法陣展開──」
彼女を取り囲むように大量の魔法陣が展開、『縛鎖』で使っている分を足して、その数、二十。
「魔力超過装填──」
天才レベルの魔法使いでも五つが限界と言われる魔法陣の同時展開。その四倍を涼しい顔でこなしておきながら、一発だけでも地形を変えかねない膨大な魔力を、【赤き暴竜】は二十の魔法陣に込める。
あんなもの、直撃すれば消し炭だ。
「っ……!!」
もがく。足掻く。振り解こうとする。だがわずかに身をよじらせるのが関の山。悪竜は逃げられない。絶対に逃げられないと悟った。
「移行、砲撃形態──」
【赤き暴竜】が手のひらをかざすと、十九の魔法陣が一列に重なった。それはまさしく長大な砲身である。
そして一枚目の魔法陣に魔力が超圧縮されていく。残り十八の魔法陣は照準を安定させ、弾丸の加速と威力増幅を叶えるべく回転を始める。
「……!! ……!!」
「『炸裂』」
命乞いも断末魔をあげることも許されず。
悪竜は真紅の輝きにより焼却された。





