まぞくなんかじゃない
「え、どうしたの?」
「────」
ラグナは答えない。息をするのもはばかられるような緊張感を醸し出し、瞬き一つせず一点を見つめている。
その視線を追った先にあるのは瓦礫の山。風が鳴き、てっぺんから小石が転がり落ちた。
「コクトー」
「ええ」
たった二言のやりとりのあと、ラグナは柄に指をかけ、さらに腰を低くする。
それがどんな意味を持つのかは、考えるまでもない。
「いきて、るの……?」
ラグナは答えない。
「合図したら全力で走りなさい。いいわね」
その代わり、コクトーが言った。淡々と。
「でも──」
「でも、じゃないわ。無力な小娘が二人もいたら邪魔なのよ」
正論だった。
マイは意見することを諦め、考えるのをやめ、じっとりと汗ばんだ手で手綱を握り直す。
張り詰める空気。
心臓は呼吸の倍も早く脈打つ。体の奥底から寒気が湧き上がり、熱を感じられるのは姉がもたれかかる背中だけ。
そして、
「行け!!」
ラグナが叫んだ。
同時に、瓦礫の山から悪竜の腕が伸びる。
開かれた手のひらには──魔法陣。
「なっ──!?」
驚嘆の声は誰のものか。
展開速度はルビーが踵を返すよりも速く、すさまじい紫電が迸る中、光球が形成される。
魔法とはイメージを具現化する力。
しかし、人間の想像力というのはひどく曖昧で、細部にこだわれば全体が、全体にこだわれば細部がおろそかになる。
それを補うために開発されたのが魔法陣だ。
人類は連綿と続く歴史の中で、図式さえ思い浮かべれば誰でも使えるように数多の魔法陣を作成してきた。
言わば、魔法とは人類の叡智であり、人間の〝武器〟である。
その〝武器〟を人間以外が使うなど──
「──『炸裂』」
完全に想定外だ。
呪文は荘厳に唱えられた。
撃ち出された紫電は大気を穿ち、大地を抉り、視界を白く染め上げ、絶命に導かんとマイたちに迫る。
「うおおおおっ!」
ラグナが雄叫びをあげる。抜刀、縦に振る、迫りくる紫電を二股に引き裂く。
ラグナ越しの衝撃波が襲いかかってくる。背後にいるマイでさえ四肢がちぎれ飛びそうだ。だというのに、ラグナは耐え忍んでいる。
それほどの威力がある魔法を真正面から受け止められたのは、なんたる所以か。
──彼女についての話を耳に挟んだことがある。
『神器・コクトー』。
曰くその能力は、魔法の無効化。
折れず、曲がらず、刃こぼれせず。この世ならざる魔性の絶刃にして、黒き刀身に刻まれた魔除けの文句はあらゆる魔法を斬り捨てる。
ラグナが未だ生存していられるのは彼女のおかげに他ならない。
ならば、斬り捨てられない部分はどうなるか。
光が過ぎ去り、世界は白以外の色彩を取り戻す。
「っ、ぁ……」
簡単な話だ。
刃が接する範囲などたかが知れている。
ラグナは黒焦げになっていた。
「してやられたわ。よもやこんな小細工を用意していたとはな」
悪竜が瓦礫の中から蘇る。羽ばたき一つで体にまとわりつく土や小石を四散させ、重厚な足音を響かせながらゆっくりと近づいてくる。
「一方が注意を引きつけ、もう一方が隙を突いて決定打を叩き込む。あの挑発の数々はそのための布石であり、立案者はそこの黒い神器というわけだ。いや、実に見事。心から賞賛する」
コクトーが忌々しげに舌打ちし、
「そりゃどうも。で、こちらのがんばりに免じて見逃してくれたりするのかしら?」
「それはできん」
「あ、そう。今の狸寝入りといい、歯並びも性格も悪いのね」
「性格の悪さは貴様に負けるがな、黒い神器よ」
「……ふん。意趣返しとはやってくれるじゃない」
冷静だ。出し抜くことはもうできない。ユイは魔法を撃った反動で眠りにつき、ラグナはかろうじて立っている状態。万策尽きた。もう、打つ手がない。
「改めて敬意を表しよう」
悪竜はラグナの前で立ち止まり、処刑人が斧を振り上げるときのように拳を高く掲げた。
「人間の身でありながらよくぞここまで儂を追い詰めた。存分に誇るがいい。そして諦めろ。悟れ。理解しろ。ここが貴様の墓場だ」
「……ざけん、な」
かすれた声はほとんど聞き取れない。
それでもラグナは体を起こす。どこにそんな力が残っているのか。焼き爛れた右腕でコクトーを持ち上げ、悪竜に突きつける。
「俺はまだ終わっちゃいねえ……! こいよ、相手してやっからよ……!」
「ほう、この後に及んでまだそんな口がきけるとはな。素晴らしい気迫と精神力だ。まさに英雄と呼ぶに相応しい」
「ガタガタ抜かしてんじゃ……かはッ!」
血を吐くラグナ。悪竜はそれを眺めながら話し続ける。
「いい出逢いであった。儂は生涯忘れることはないだろう。恋人とその妹を救うため、偉大なる竜にして森羅万象の摂理である儂に挑み命を散らした一人の漢を」
「は……ぁ、っ、くそ……ぉ!」
「もうよい。大義であった」
悪竜は少しのあいだ黙祷するように瞳を閉じて、
「さらばだ。せめて一瞬で葬り去ってやる」
慈悲めいた言葉をつぶやき、無慈悲に拳を振り下ろした。
「っ、あああアア!」
それはもはや無意識の行動だっただろう。
ラグナは頭上に降り注ぐ死を刀で受け止めた。
不格好な鍔迫り合いが始まる。満身創痍の男の体は前に深く折れ曲がり、傷口からは真っ赤な血が迸る。見ているだけでも気が狂いそうだ。
「苦しいだろう。痛いだろう。もう楽になりたいだろう。さあ、力を抜け。儂という摂理によって母なる大地へと還るのだ」
そこへ、悪竜がさらなる圧力をかけた。ラグナはさらに沈んでいく。しかし、膝をつくのにあとわずかというところで停止する。
「まだ耐えるか。その呆れ返るほどの生命力……まるで魔族だな」
「…………!」
「あやつらは恐ろしくしぶとい。その上いくら殺しても無限に湧いてくる。まさに不死身の化け物だ。この世界の外側を埋め尽くし、生きとし生ける全てのものを滅ぼさんとする意思なき怪物──それが魔族だ。その黒髪といい、名前といい、貴様、本当は魔族の類なのではないか?」
「お、れは……」
「しっかりなさい! あんたならまだやれんでしょうが!」
がくんと一気に縮んだラグナに喝を入れるコクトー。だが、彼の沈没は止まらない。
「その様子だと自覚はあったようだな。貴様が今どんな表情をしているか見られないのが残念だ」
「うっせーバーカ! ラグナ、こんなイキリクソトカゲの言うことなんて聞かなくていいわ! その代わり奥歯噛み砕いてでも立ち上がりなさい! じゃなきゃ皆殺しよ!」
「おれ、は……まぞく、な、のか……?」
魔法を成り立たせる核となるもの。
それは心だ。
心が弱ればそれだけ魔法の効果も弱まってしまう。
だから、マイは悪竜の言葉によってラグナがひどく傷ついたことを理解できた。
そして、自分が同じ言葉を浴びせていたことを鮮明に思い出した。
そうだ。何度も彼を傷つけた。嫉妬心に駆られ、独占欲にそそのかされ、そうではないとわかっているのに彼を魔族と罵り続けた。
到底許されることではない。許されてはいけない無形の暴力だった。
けれど、彼はそれを笑って許した。
どんな気持ちだっただろう。
いきなり見知らぬ世界に放り出され、その世界から忌み嫌われる存在だと知らされて、実際に拒絶されて。
……本当に、どんな気持ちだっただろう。
胸で燃える後悔の念。マイが最初からラグナを受け入れていたのなら、こんなことにはならなかったはずだ。
「在り方は英雄でありながら性質は魔族。──くく、くははははは! 実に面白い! 人間風情と侮ったことを謝罪しよう。貴様は立派な〝魔族〟だ!」
「────」
「だまれっっ!」
気がつけば叫んでいた。睨んでいた。恐れはとうに失せていた。
「ラグナはまぞくなんかじゃない! こんなになってまでがんばってくれるひとがまぞくなわけない! かってなこというな! てきはおまえだ、クソトカゲ!」
自分でも驚くくらいの大声が出た。主張は熱を帯び、感情が煮え滾る。
マイは空っぽになった肺を思っきり膨らませ、もう一度、空気の一滴に至るまでを叫びに変える。力んで尻尾がまっすぐになる。
「ラグナ、おきて! ラグナがしんだらおねえちゃんきっとないちゃうよ! それでもいいの!?」
「涙ぐましい応援だ。だが、もう充分愉しんだ」
「まけないで! マイたちをたすけて、ラグナ!!」
「さあ、終焉わりにしよう──ん?」
金色の眼が揺らぎ、紫紺の竜鱗が鳥肌のように逆立った。
「押し潰せぬ、だと……!?」
声に滲むは焦りと困惑。信じられないことに、まさしく風前の灯火だったはずのラグナが徐々に拳を押し返していく。
「ぐ、ぬぅ!!」
悪竜は負けじと体重をかけるが、ラグナの勢いは衰えない。むしろどんどん早く立ち上がっていき、ついには最初の姿勢に戻った。
風と火だ。
ユイが現れ、奮い立って勝利宣言したときに解き放った魔力。それ以上のものが、今、ラグナから発せられている。
「な、何が起こっている!? 貴様はすでに力を使い果たしたはずだ! これほどの魔力、いったいどこから──……!?」
「う、おおォ、オオ──ッ!」
咆哮に応じて風と火はさらに勢いを増し、炎の竜巻と化した。
個人の許容量を明らかに上回る濃密な魔力は、最高潮に達した瞬間、白から黄金へと輝きを変える。
さながら真昼から夕暮れ時への変遷のようだ。
悪竜は、
「小癪な!」
と全体重を乗せた。しかし、もはやラグナを抑え込むことはできない。
「理解できん……! その力はなんだ! 何が貴様を駆り立てる!?」
「テメェに──わかるかァァァァ!」
吼える。
人の皮を脱ぎ捨てる。
理性の檻に閉じ込められし、戦意という名の獣が。
刀が拳を半ば強引にいなすと、悪竜の腕はラグナの真横に突き刺さった。ラグナはすかさずそれを足場に駆け登り、悪竜の眼前へと到達、がむしゃらに突きを放つ。
「ウォォオオオッ!」
切っ先は手首ごと金色の眼に埋まった。
噴き出す鮮血。響き渡る絶叫。威厳をかなぐり捨て、潰された片目を押さえ、狂ったように尾をうねらせ、もがき苦しむ悪竜は、痛みから逃れるように上空へと飛翔した。
その際、ラグナが振り落とされる。重力に従い真っ逆さまに落ちていく。意識があるようには見えない。頭から地面に激突すれば、死ぬ。
「ラグナ!」
マイはマントの裾をほどき、『強化』で高めた身体能力を駆使して我が身をラグナの落下地点へ滑り込ませた。
ギリギリ──間に合った。
一人分のあいだを空けて隣にコクトーが突き刺さる。
「だいじょうぶ!? ねえ! ねえったら!」
ラグナは何も応えない。ぞっとして胸に耳を当てると、心音は聞こえなかった。悪竜の返り血に染まった右腕は力なく垂れ下がり、ぴくりとも動かなかった。
「そんな……ねえ、おきて! まだわるいやつやっつけてないよ! せっかくなかなおりできたのに、しんじゃやだよ……」
視界が涙で霞む。
どれだけ呼びかけても、ラグナは四肢を投げ出したまま微動だにしない。
「……どうやらここまでのようね」
コクトーがひっそりとつぶやいた。
遥か空の彼方では、紫電の花弁が瞬いていた。





