竜殺しの始まり
その、直後。
下から横へ、落下の方向が急に変わった。
それを認識した次に、自分が誰かに抱かれていることを理解した。
固く閉ざしていた目を開く。
すると、そこには、
「無事か?」
憎き〝くろかみ〟の顔があった。
「くろかみ……? なんで……」
なんでここにいるの?
助けにきて、くれたの?
「よう、助けにきたぜ」
おそらくは表情から悟ったのだろう。そして、安心させるためだろう。ラグナはそう答え、挑発的とも取れる余裕の笑みを浮かべ、マイの顔についていた血を手で拭う。
「外傷なし。全部返り血ねコレ」
ラグナの腰から声がした。紅色の鞘に納まった黒い柄の刀からだ。
「うわ武器がしゃべった」
「最強の神器コクトーよ。生き残れたら今後ともよろしく」
「縁起でもねえことを言うな」
ラグナはマイを地面に下ろし、踵を返して悪竜と対峙する。
「なんだ貴様は。儂の食事を邪魔するな」
「お生憎様、そういうわけにはいかねえんだよ」
黒い瞳がこちらに向く。
「マイ、俺がやつを惹きつけているあいだに逃げろ。なりふり構わず全力疾走するんだ」
続いてコクトーが、
「守りながらじゃ分が悪くってねー。さすがにあのサイズは想定外だわ」
おちゃらけたような声音だが、その中に芯を感じる言い方だった。つまり自分がいては足手まといなのだ。二人の指示に従うのが一番だろう。
「う、うん、でも、くろかみは?」
「あとで追いつく、なぁに引っ掻き回すだけならさほど苦労はしねえさ」
「……わかった」
今は彼を信じるしかない。足の震えを気力で抑え、駆け出す心の準備をする。
ラグナは再び悪竜に目をやる。
「さて、ここんところ寝たきりで体がなまってんだ。ちょっくらリハビリに付き合ってもらおうか」
「儂に逆らうつもりか?」
「何かご不満でも?」
その言葉に、悪竜は忌々しげに牙を剥く。
「笑わせるな! 人間風情が儂に敵うはずなかろう!」
「笑わせるなって、あんた全然笑ってないじゃん。めっちゃ怒ってんじゃん。自分の感情も把握できないの?」
「生意気な口を利きおって!! ……いや、今の声は……そうか、貴様は転生者で、その刀は神器か!」
「そ。最強の神器コクトーよ、よろしく! んでこっちのスケベそうなのがラグナよ!」
「おまえ敵に対してもそのノリかよ。つーか誰がスケベだ。健康的なだけだっつの」
「冗談言ってないで早く臨戦態勢整えなさいよバーカ」
「テメェマジで覚えてろよ?」
言いつつ居合の構えを取る。会話とはまったく真逆の張り詰めた空気が流れ出す。
マイは生唾を呑み込み、小声で『強化』を唱え、いつでも動けるように両足のつま先に体重をかける。
「ラグナ……〝滅び〟か。そしてその黒い髪……くくく、どうやら貴様はつくづく運がないらしい。その名と髪と、儂に出会ったことが何よりの不幸だ。さぞ生きるのがつらかろう?」
「……ハ! 俺はそれらを覆すたった一つの幸福を手にしている。それだけあれば充分だ。それのためなら命も惜しくねえ。──が、死んだらそれを手放すハメになっちまうんでな、黄泉への旅路はテメェに譲るぜ」
「面白い、やってみろ!」
ラグナが前進し、マイは彼と直角を描くように横へと走る。
逃げ切れるかどうかはわからない。それでもきっと大丈夫だと信じてがむしゃらに体を動かす。
そんなとき、視界の端で、
「たわけめ」
悪竜がにやりと口角を歪めた。
「きゃあ!?」
突如、紫がかった猛炎が行く手を阻み、瞬く間に周囲一帯に火柱の檻を作った。
ブレスだ。
悪竜が炎を吐いたのだ。
「マイ!」
「バカ、よそ見すんな!」
こちらに気を取られたラグナが悪竜の薙ぎ払いをもろに喰らい、吹き飛ばされた先で岩を粉砕する。
「くろかみ!」
「儂を見くびるなよ虫ケラども。貴様らの手口などとうに見抜いておったわ」
マイは悪竜越しにラグナの姿を探す。
──いた。
漂う砂埃の中からラグナが立ち上がってくるのが見えた。口の端から垂れた血を拭い、毅然とした態度で悪竜を睨んだ。
「ほう……なかなかしぶといな。今ので潰れたものと思っていたが」
感心した様子で言う悪竜。
対してラグナは、ペッ、と血の痰を吐き捨て、
「テメェを潰す前にくたばってたまるか」
「クク、人間風情がよく吠える」
「ハ、その人間風情に一太刀入れられてんのはどこのどいつだろうな?」
「何?」
赤い雫が地を汚す。それは悪竜の右腕から滴り落ちたものだった。源流を辿ると、前腕の中央あたりに刀傷がある。
「貴様、あの一瞬で……!!」
「おあいこさ、恨むなよ」
「……貴様の運命はここに決まった。儂という摂理に圧し潰されるがいい!」
「上等だ、かかってこいよクソトカゲ!」
空気がより厳しく張り詰める。自分に向けられたものではなく、なおかつ離れているというのに、両者の圧力がはっきりと感じられる。まるで見えない壁に押されているかのようだ。
「マイー! 危ないからどっかに隠れてなさーい!」
そんな中でも緊張感のないコクトーが声を張った。
マイは辺りを見渡し、火の手が回っていない岩の隙間を見つけると、そこに我が身を滑り込ませる。それから戦いの行く末を見届けるべく顔を半分だけ出す。
始動はどちらが先だったか。マイにはわからない。
ラグナと悪竜がぶつかり合った。