希望の足音
「悪竜は竜神山にいる」
もう一度、染み渡らせるようにつぶやいた。
竜神山。
それは竜人族の神が住まうとされる霊峰。
儀式や祭事以外では立ち入ることを禁じられた危険区域。
ユイは去年の祭りで巫女をやったのであそこがどんなところか知っている。
何もない。
雑草の一本に至るまで、虫の一匹に至るまで、およそ生命と呼べるものがまったく存在していない。
許可なく踏み入った者は竜神に魂を抜き取られるという伝説が語り継がれているが、たかが御伽噺だ、とは言えない異様な雰囲気が漂う場所だった。
「……掟を絶対に守る。それが僕たちがこの村で暮らすための条件だったはずだ。伝説が本当だった場合のリスクも考えると、迂闊に動くことはできない。力があるからといって特攻するわけにはいかないんだ。……わかってくれ」
「わかってくれ、ですって?」
マリアがルイの胸ぐらを掴み上げた。
「私たちの娘が危ない目に遭ってるのよ! 掟なんか気にしてどうなるの! マイに比べたら掟も竜神もゴミ同然じゃない!」
紅蓮の炎が空間を灼く。感情の爆発に伴い溢れ出したマリアの魔力だ。イクサスがすかさず庇ってくれたおかげで免れたが、熱に耐性のあるユイですら火傷しそうな激しさだ。
しかし、それを間近でもろに受けているルイは──
「マリア、もう少し冷静に」
「さっきから落ち着けとか冷静になれとか! なんであなたは顔色一つ変えないでいられるのよ! マイが大切じゃないの!?」
「──っ! ふざけるな!」
ルイは、肌という肌に火傷を負いながら、灼熱の権化たるマリアの手首を指が食い込むほど強く掴んだ。
「俺がいつそんなことを言った!? ただ軽はずみに動いて他のみんなを巻き込みたくないだけだって言ってんだよ!」
「私は血の繋がってない他人なんかよりマイを選ぶわ!」
「……っ」
主張は平行線。とうとうルイの額にも青筋が浮かぶ。
「ふん、そうかよ。だから血の繋がりがない俺の話はちっとも聞いてくれないんだな!」
「は? 今はそんな話してないでしょ!」
「してるんだよ! おまえが言ったのはそういうことだろ!」
「意味わからないこと言わないで!」
「そうやって駄々をこねれば自分の要求が通ると思っているのか、あぁ!?」
「あなたが理屈っぽい話ばかりするから悪いのよ!」
「おまえが馬鹿なだけだろ!」
「っ、この──!」
ついに拳が振り上がる。竜人族のマリアがルイを本気で殴れば『強化』を使っていなくとも大怪我になりかねない。
「二人共もうやめてください!」
ユイは両親のあいだに割り込んだ。
「私が……私が悪いんです……だから怒るなら私にしてください……」
熱い。涙が蒸発している。
だが、この程度の苦しみでは贖罪にもならない。
ほどなくして炎は霧散し、空間は元の色彩を取り戻したが、ところどころが黒く焦げていた。
「ユイの言う通りです。ここで争っても仕方ありません」
次いで、イクサスがマリアとルイの肩を押し、一歩ずつ後退させた。
「……すまない。ついカッとなってしまった」
ルイがつぶやく。
「私のほうこそごめんなさい。……火傷、治すわね」
夫の頰に手をかざす。
「『治癒』……」
呪文を唱える。
淡い緑に輝く魔法陣が──現れない。
「あ、あぁ……」
使命を失った指が空中をさまよい、翼をもがれた鳥の軌道を辿る。
とても魔法を使えるような精神状態ではなかった。
マリアはその場にへたり込み、両手で顔を覆う。
ルイは自分で『治癒』をかけたのち、そんな彼女を抱きしめる。
「もうやだ……誰か、誰かマイを……」
「マリア……」
縋るものはなく。
頼るものもなく。
あるのは一つの絶望だけ。
子供のように泣きじゃくる母。
全身が焼け爛れた父。
悔しそうに拳を握る義兄。
そして、ここにいない妹。
自分が原因でこんなことになった。
自分のせいで、家族そのものが崩壊しようとしている。
なら、私がなんとかしないと。
「……竜神山に行ってきます」
全員がこちらを見た。
「今回の事件は私に責任があります。私がもっとしっかりしていればこんなことにはならなかった……だから私一人で──」
「ダメだ」
ルイが即刻却下する。
「どうしてですか!」
「君が大切だからだ」
「でも、私のせいで──……」
「ユイ。君は責任感が強くて心優しい、僕たち自慢の娘だ。マイを助けに行きたい気持ちは痛いほどわかる。自分が行かなくちゃいけないと思う気持ちも。……でも、もし君の命が失われてしまったとしたら、残された僕たちはどうなる?」
「それは……」
「たとえマイを助けられても、みんな一生癒えない悲しみを抱えることになる……わかるだろう?」
「…………」
「だから僕はマリアの意見も聞けなかったんだよ。自己犠牲を元にした救いなんて意味がないんだ。みんな揃ってハッピーエンドを迎えたい。それが僕の願いだ」
「じゃあ、どうするんですか」
「なんとかするさ。僕の大切な家族を悪竜なんかに奪われてたまるか」
「具体的には!? 私が言うのもおかしいけど、現実を見ないとどうにもならないんですよ……!?」
自分の選択がどんな悲劇に繋がるかなんてとっくにわかっている。
けれど、何かせずにはいられない。
できることがあればなんでもやるから、何かマイを救う手立てを出してほしい。
……八方塞がりだ。誰も口を開かなかった。
ただ刻々と時間だけが過ぎ去っていく。
そのあいだにもマイの身に何が起きているのかを想像すると、身震いせずにはいられない。
それはみんな同じだった。
暗鬱な空気の中、ユイの嗚咽だけが響く。
心が限界だ。
このままでは、身勝手にも家族より先に自分が壊れてしまう。
「ラグナさん……」
私を助けて。
みんなを助けて。
自分の弱さを呪いながら。
未だ目覚めない彼に。
そう、願った。
──そのときだった。
階段が軋んだ。
誰もが一斉にそちらを見た。
現れたのは、黒髪の青年。
ずっと待っていたユイの想い人。
「俺が行く」
覇気のこもった低い声で、ラグナは力強く宣言した。