だけど、あなたは話してくれない
数日後、ラグナはようやく歩けるようになった。
だが、まだまだユイの支えが必要だ。平坦な道ならともかく、少し不安定な足場を歩くと、途端に倒れそうになる。体が重たいのか、一度揺らいだら自力で持ちこたえることができない。
だからユイは、自分の肩に手を置かせ、彼が転ばないよう杖代わりになるのだった。
「いい天気ですねー」
ユイは空を見上げて言う。
青く、澄んでいる。雲はほとんどない。たまに鳥竜(鳥程度の大きさと鳥に似た生態を持つドラゴン)が空を横切っていく。太陽は真上に座していた。
「ラグナさん、今日のお弁当も気合い入れて作ってきたんですよ! いっぱい食べてくださいね!」
「ああ、おまえの作る飯はうまいからな。いくらでも食えるぜ」
穏やかに微笑むラグナ。近くで見ていて、顔がいいな、と素直に思う。
本人は目つきの悪さや髪が黒いことを常々気にしているようだが、獣のような鋭い視線も、触ると意外に柔らかい髪も、ユイにとってはプラス要素だ。精悍な印象を与えるキリッとした眉も、鼻筋が通った立体感のある顔立ちも、自分のためにボロボロになった筋肉質な体も、全部好きだ。
これは恋の魔法によるまやかしなのかもしれないけれど、こんなに素敵な魔法なら一生解けなくていい。
「…………」
「どうした?」
「ううん、なんでもありません」
彼にも同じ気持ちになってほしい。
自分と同じ魔法にかかってほしい。
自分だけを愛してほしい。
それが叶うのならば──いかなる努力も惜しまない。
「さ、着きましたよ! お弁当を広げるので座っててください!」
「いつも悪いな」
「いえいえ、好きでやってることですから!」
村を一望できる丘。お気に入りの場所。そこに生えた大きな木の根元にラグナを下ろし、バスケットからお弁当を取り出して昼食の用意をする。
「どうです? 村の生活には慣れました?」
訊きながら卵焼きをラグナの口の前に持っていく。ラグナは照れ臭そうに顔を背け、弁当箱に入っている卵焼きを指でつまもうとする。ユイはそれをチョップで阻止し、ずい、と卵焼きを押しつける。笑顔で。
「まあまあだ」
ラグナは渋々卵焼きを食べた。これでいい。私なしでは生きられないようにしてあげれば、この人は私のそばからいなくならない。料理を食べさせてあげるのはその先駆けだ。他のことも全部やってあげよう。なんならいっそずっとこのままでもいい。
「何か不満とかは?」
「特にねえよ。みんな優しくしてくれっからな」
「中でも一番優しいのはー?」
「…………」
無言で指を差してくる。
「そうでしょう、そうでしょう! 現在進行形で手作りのお弁当を食べさせてあげてますからね! はい、あーん」
「感謝してる」
ラグナがまた食べる。餌付けしているみたいで楽しい。ついはにかんでしまう。
「……お前はよく笑うな」
「今とっても幸せですので!」
「俺には到底真似できん。表情筋の作りが根本から違うんじゃないかって気さえしてくる」
「無理に笑うとめちゃくちゃぎこちなくて不気味になっちゃいますもんね」
「ほっとけ」
「でも無愛想なラグナさんも好きですよ。その分、たまに笑ってくれると余計に嬉しくなりますから」
「……ハ」
鼻で笑って目を逸らす。
けれど、
「お耳が赤いですよ〜?」
「にやにやすんな、うざってえ」
可愛い。乱暴な口調だけど決して威圧的ではないところに優しさと親しみを感じる。ユイは笑顔をやめられなかった。ラグナはもう一度鼻で笑った。
「あ、そうだ。今日はこのあと私の仕事場でもある竜舎を案内しようと思います」
「竜舎? ……ああ、ドラゴンを飼育するための場所か。この村は牛や馬の代わりにドラゴンを使っているんだったな」
「使うって表現はあんまり好きじゃないんですけどね。竜人族とドラゴンの関係はあくまで〝共生〟ですから。ま、持ちつ持たれつってやつですよ」
ドラゴンはとても便利だ。重たい物を悠々と運べるし、空を飛べるし、牙や鱗は高く売れる。知能は人間並みに高く言葉を理解することができ、中には言葉を話すことのできる個体もいる。
ゆえに、ぞんざいには扱えない。勘違いして主従関係を気取った途端、反旗を翻されるだろう。
「とゆーわけで決定です! ルビーちゃんもそこにいますから会いに行きましょう!」
「ああ」
「そろそろ村の人たちにもラグナさんのことを紹介したいですしねっ」
「────」
突然、ラグナがビクッと震え上がり、顔面蒼白になってうつむいた。
額から冷や汗が流れ落ちる。拳が固く握り締められる。
何かに怯えているときの、自分を守るための硬直。自然界最強の種族であるドラゴンと真っ向から戦い、そして勝利した男とは思えない反応。
「ラグナさん?」
「…………。……そ、それは、どうしてもやらなくちゃダメか? 俺を、みんなに紹介するっていうの」
「この村で暮らす以上、必要なことだとは思いますが」
「……そうか。そうだよな。その通りだ。これは、やらなくちゃいけないことだ」
吸って、吐いた。
もう一度、吸って、吐いた。
顔を上げた。
何もかもが元に戻っていた。
いつもの、彼だ。
「ラグナさん、嫌だったら今日は行かなくても……」
「いや、大丈夫だ。俺はドラゴンだって殴り倒す男だぞ。たかが人間を恐れるなんてそんなバカな話があるかよ」
怖いんだ。他人が。
わざわざ言うってことは、そういうことだ。
本当は怖いけど、私のために強がってくれているんだ。
「ラグナさん……」
嬉しかった。だが同時に、悔しかった。
ラグナは弱音を吐かない。愚痴もこぼさない。周りの世話になることに罪悪感を覚えているのか、普段からとにかく周りの負担にならないように振る舞う。
それはつまり、心の底から信頼してくれてはいないということだ。
体はそばにあっても、心はどこか遠くに隠しているのだ。
しかも切り替えが異様に早いから何がつらいのかを聞き出すこともできない。
ラグナは自分の心に蓋をするのが本当に上手い。転生者だからなのか、元来の性格なのか、はたまた両方なのか。どれなのかはわからないが、彼には弱いところをさらけ出してほしい。そこを受け入れてこその絆があるはずだ。
……でも、彼は優しくて強いから、簡単にはさらけ出してくれないだろう。
だったらせめて、そばにいたい。
「ラグナさん」
「うん?」
「好きです」
「……おう」
「だから、いなくならないでね」
「……おう」
なんでそんなに苦しそうに笑うの?
彼は何かを後ろめたく思っている気がする。
私には言えない何かを抱えている気がする。
それがなんなのかさえわかれば、もっとたくさんあなたの力になれるのに。
「すまん、なんだか湿っぽくなっちまったな。本当にもう大丈夫だから気にしないでくれ。それより飯だ、飯! 腹が減っては戦はできぬ!」
「戦って、誰と戦うつもりですか」
「んー……自分と?」
「私と一戦交えるのはどうです? ラグナさんに力ずくで押し倒されたら抵抗できないだろうなー、ちらっ、ちらっ」
「おまえちょいちょい効果音を口で言うよな」
「そっちのほうが可愛くないですか?」
「ユイだから許されてる感はある。普通の人がやったら結構イタい」
「つまり私は可愛いってことですね!」
「うわぁドヤ顔うぜえ」
「そんなこと言うなら食べさせてあげなーい」
「えっ、すまん。それは勘弁してくれ」
「じゃあ、可愛いって言って」
「……可愛い」
「うーん、もうちょっと感情を込めて言ってほしいところですが、まあ良しとしましょう! はい、あーん」
「あーん」
「おいしい?」
「うん。って、さっきも言っただろ」
「さっきは『まあまあだ』ですよ。ほんっと素直じゃないんですから」
「逆にユイは素直すぎるぞ。いろんな意味で駄々漏れだ」
「ラグナさんが抱え込みすぎなんですぅー。はい、もういっちょ」
「んあ。うめぇけどよ、俺にばっか食わせてないでおまえも食えよ」
「口移ししてくれたら食べます」
「口移しで済まないだろーが」
「強引にこられると、つい、ね? こっちもスイッチ入っちゃうわけですよ。不可抗力です。というわけでどうぞ」
「自分からはしないのな」
ジト目を向けてくるラグナ。
「それはまあ……」
自分から一線を超えるのは無理だ。恥ずかしくて死んでしまう。考えただけで顔から火が出そうだ。
でも、ラグナのほうからきてくれた話は別だ。〝迫られたんだから仕方ない〟と自分に言い訳できる。そうでもしないと、嬉しさよりも恥ずかしさが勝ってしまう。
だから誘惑して相手に動いてもらうしかない。こちらのほうがまだマシだ。
「ラグナさん、ちゅーしたいです」
「飯が先だ」
「キスしたい」
「言い方変えただけじゃねえか」
「私を食べて?」
「飯を食わせて?」
「むぅ……ケチ!」
「体が治ったらいくらでもしてやるっての」
「ほんとですか!? 約束ですよ!」
「ああ、約束だ。逃げんなよ?」
「もし逃げたら押さえつけてください!」
「どこまでも自分本意というか他力本願だなオイ」
「よく言われます。はい、あーん」
「あーん」
こんな些細なじゃれあいが楽しくって仕方ない。
彼も楽しんでくれてたらいいな。
嫌なことを、全部すっかり忘れるくらいに。