戦いの結末
「ラグナさぁぁぁぁん!」
ユイが泣き叫びながら駆け寄ってきた。前のめりに倒れようとするラグナの上半身を支える。
「生きてますか!? 生きてますね!? 一旦寝かせますよ!」
「…………」
返事が、できない。
そんな気力はどこにもない。
代わりに、寝るのは今日何度目だと益体もない思考がよぎる。
視界は灰色。まるっきり死の世界。そんな中、心配そうにこちらを覗き込む彼女の碧い瞳だけが、やけに濃く輝いて見える。とても、美しい。
「えと、こういうときはどうすればいいんだっけ……」
ユイが腰に下げたポーチをひっくり返し、中に入っていた応急処置の道具をせわしなく持ったり置いたりする。
道具は、種類は一通り揃っているがどれも未開封・未使用だ。
単に持ち歩いているというだけで、こういった状況には慣れていないのだろう。眉を八の字にして泣きべそをかいていた。どうすればいいのかわからないふうだった。
「ユイ、あなた治癒魔法は使える?」
少し離れたところから、コクトーの声がした。視界の外にいるらしい。
「は、はい! あんまり得意じゃありませんけど……」
「いいわ、使ってちょうだい。とにかく出血を抑えることが最優先よ」
「わかりました!」
ユイがラグナに両手をかざし、念じるように目蓋と唇を固く閉ざす。手のひらから緑色の淡い光が溢れ、手中に収まる程度の円陣を作る。
「────『治癒』!」
呪文を唱えると、綿毛を息で散らしたときのように、円陣から光の粒子が噴き出した。
光の粒子はふわふわとラグナの周りを漂い、傷口の一つ一つにくっつき、徐々に修復していく。
痛みが和らぐ。
五感が回復し、世界に七色が戻ってくる。
自発呼吸ができていることや血液喪失に伴う体温低下にも気づく。
瀕死の重傷であることには変わりない。
だが、一命を取り留めた。
ラグナは死の世界から生還した。
やがて光が収まり、粒子はさらに小さくなって、消えた。
「なんとか出血は止まりました。でも、傷を塞いだだけで中身は……」
ユイが掠れた声で言った。見れば、額に玉の汗を浮かべ、疲れ切った表情をしている。
そんな彼女に、ラグナはありがとうと伝えることすらできない。
確かに、特に損壊の激しい右腕と胸以外の傷はほとんど塞がっていた。
だが、彼女の言う通り、治ったのは体の表面のみで、骨や内臓はグチャグチャのままだ。
そこから叩きつけられる痛みはすさまじく、今にも意識を刈り取られそうになる。こうして植物人間のようにぼんやりと宙を眺め、二人の会話を聞き取るのが精一杯。それ以外は何もできない。
「すぐ医者に診せたほうがいいわ。このままだと確実に、死ぬ」
「死……っ!?」
「青ざめてる場合じゃないわよ。なるべく声をかけて生きる気力を呼び起こすの。ラグナ、意識はある? あるなら返事をしなさい」
「ラグナさん、起きてください! 死なないでください! 生きてください!」
「ラグナ! いつまで寝てるつもり? さっさと起きなさい、このウスラトンカチ! 木偶の坊! 悔しかったら言い返してみなさいな!」
それが怪我人に対するセリフかよ。そう言い返したかったが、できない。呼吸に音が乗らない。
「やだ、やだ……! せっかく出逢えたのに、ラグナさんが死ぬなんてやだよぅ……! お願い、生きて……!」
〝生きて〟
ノイズまみれの聴覚が、その言葉だけははっきりと拾い上げた。
それに対して、思う。
死ぬのは怖い。でも、生きていたいワケじゃない。
人類存続? 知ったことか、そんなもの。転生者が誰かに望まれることで目覚める存在だっていうんなら、俺だって誰かに望まれたかった。勝手な都合を押しつけられて、たくさんの人に疎まれながら生きるなんて、まっぴらごめんだ。だったら死んだままでいい。
──でも、今。
ユイは願いを叶えてくれた。
生きてほしいと願ってくれた。
だったら、生きたい。
彼女の声に応えたい。
「……!」
ラグナはなけなしの力を振り絞る。力んだだけで襲いかかってくる激痛をこらえて体を起こす。
ユイとコクトーが息を呑んだ。
「……うるせえ。耳元でギャーギャー騒ぐな。傷に障さわる」
「っ、ラグナさん……!」
ユイの表情が一気に崩れた。
「涙と鼻水ですごいことになってんぞ。ハ、勝ったんだからもう少し喜んだらどうだ?」
指摘すると、乱暴に袖で拭った。
「そんなことよりラグナさんのほうが大事です! 危うく死んじゃうところだったんですよ!」
「大袈裟な。見た目が派手なだけで大したことねえっての」
本当はすごく痛い。
でも、痛いことと動くことは別だから、痛くても動くことはできる。
自分は動きたいんだから、痛いなんて思う必要はない。
──そんな屁理屈で意識から痛みを切り離し、極力平静を装う。
「あなた本当に馬鹿なんですねっ!」
しかし、ユイには通用しなかった。真っ赤な顔で鼻先を突きつけてきた。
ラグナは反射的に睨みを利かせてしまうが、ユイは一切退しりぞかず、逆に睨み返される。距離はほぼゼロ。碧眼からは大粒の涙がいくつもこぼれている。
「今だって苦しそうに息切らしてるくせに何言ってるんですか! 私の家に行きましょう! お父さんは医者です、お父さんならきっとなんとかしてくれます!」
迫力なんてまるでない。
けれど、胸がざわついた。言い知れぬ感情が渦を巻いた。
不快だった。全身に鳥肌が立つような、喉を掻き毟りたくなるような、そんな不快感。
その感情の名前はわからない。
なぜだ? なぜ俺はこいつが泣いているとこんなに嫌な気持ちになる?
「……チッ」
結局、ラグナにできた感情表現は忌々しげに舌打ちすることだけだった。
「ご、ごめんなさい」
それでラグナが不機嫌になったと思ったのか、ユイは引っ込み、帽子を取ってつむじを見せる。
「元はと言えば私のワガママのせいでこんなことになってしまったんです。ラグナさんが怒るのは当然です。……ごめんなさい」
「別に謝らなくていい。それより泣くのをやめろ。死ぬほど似合ってねえ」
「ごめんなさい。でも止まらなくて……」
「泣くなっつってんだろ!」
「ひっ……! ごめんなさい、ごめんなさい! 謝るから大きな声出さないで……」
小動物のように身を縮こませて震えるユイ。さらに涙が溢れ出し、顎から滴り、地面を濡らす。
それを見て、ラグナの胸はぎゅぅっと胸が締めつけられた。あまりのつらさに俯いた。
泣きじゃくるユイを直視できなかった。右腕と胸の痛みのほうがまだマシと思えるほどのつらさだった。
「馬鹿ラグナ。あんた、いい加減八つ当たりするのやめなさいよ」
コクトーが呆れた調子で言った。
「別に八つ当たりなんかしてねえ。思ったことを口にしただけだ」
「そのせいでユイは泣いちゃったんだけど?」
「……だからなんだってんだよ」
ラグナは視線だけをコクトーに向け、ぶっきらぼうに言った。
「はぁ……偏屈もここまでくるとビョーキね。これも因果ってヤツなのかしら。まったく、めんどくさいったらありゃしない」
「人を勝手に病人扱いすんじゃねえ」
「病人よ。いろんな意味で。ねえラグナ、あんたはユイに泣いてほしくないのよね? だったら今の態度は、自分の気持ちと矛盾してるって思わない?」
「うるさいな。もうほっとけよ」
追及にイライラして、返す言葉がより刺々しくなる。
「図星突かれたからって逃げないの。あんたがしてることは、あんたが一番嫌なことなんでしょ。違う?」
「っ……」
ごもっともだ。どんな理由があろうと、絶対に泣かせたくない人を自らの手で泣かせてしまったという事実に言い訳は効かない。反論の余地はない。
「……すまん」
「謝る相手が違うわ」
「……そうだな」
ラグナはユイに向き直った。
涙を流す彼女の姿には、やはりひどい心痛を覚える。
「すまなかった」
深く頭を下げた。
すると、ユイは首を横に振って、
「ううん、私が悪いんです。ラグナさんが謝るようなことは何もありません」
そう言った。
心痛は余計に強まる。
「俺は」
右手──は挙がらなかったので、左手で彼女の頰に触れる。
その柔らかさと触り心地の良さはたとえようもなくすばらしい。
「俺は、ユイに笑っていてほしいんだ」
「ラグナさん……」
「今もあちこち痛ぇし、死ぬほど怖かったけどさ。おまえの笑顔が見たくてかんばったんだよ、俺」
「…………」
「だからさ、もう泣かないでくれ。おまえを泣かせるものは、全部俺が取り除くから」
一筋の涙が頰を伝い、男の指に受け止められる。
「……ずるい人ですね、あなたは」
ユイがラグナの左手に触れた。
浮かべたのは精一杯の泣き笑い。
「そんなふうに言われたら、笑うしかないじゃないですか」
それは太陽のように暖かな笑顔で。
不快感と心痛を、たちまち蒸発させた。
「可愛い」
「えっ」
ついでに隠していた本音を引きずり出された。ユイがあっけに取られた顔をする。
「あ、いや、今のなし。口が滑った」
「もう一回! もう一回言ってください!」
「痛い痛い! 怪我人を揺するな! ほら、ドラゴンが気絶してるうちに契約を済ませてこい! 俺はここで待ってるから!」
「むぅ……」
「頬を膨らませても言わんからな!」
「……ラグナさんのケチ! あっかんべー!」
陳腐な捨てゼリフと恨めしげな一瞥を残し、ユイは帽子を被り直してドラゴンのもとに歩いていった。
彼女がいくらか離れたところで、ラグナは前髪を掻き上げる。
「やっちまった……」
「ひゅーひゅー! お熱いねぇ、お二人さん!」
「テメェ……っ」
若いカップルを茶化す中年男性のようなコクトーを睨みつける。が、
「ふん、どんなに凄んでも無駄よ。その真っ赤な顔に〝僕はユイちゃんが大好きです〟って書いてあるもの」
「書いてねえ! 捏造すんな! 俺は別にユイのことなんて……」
「えぇー、ほんとぉ? じゃあ、なんでそんなにムキになってるのぉ?」
「くっ、煽ってんじゃねえぞ、この性悪刀!」
「煽るですって? そんなまさか! わたしは約束通りインタビューさせてもらっているだけよ? 感謝ならともかく性悪刀だなんて罵倒される筋合いはないわ」
「…………!」
言い返したかったが、語彙力が貧弱であったために、口をつぐむしかなかった。