ヒトの限界、ケモノの臨界
「グギャオアァァ!!」
悲鳴。怒声。どちらとも取れる鳴き声をあげて、ドラゴンは仕返しにと右斜め上から左斜め下に爪を振り下ろしてきた。
間に合う。防御。刀と爪が交錯する。ぶつかり合った瞬間、激しい金属音と共に空気が爆ぜる。さすがに体重をかけられるとキツい。体重差がありすぎる……!
「焦るんじゃないわよ! まずは相手の動きを見極めて!」
「お、うるぁ!」
爪を無理やり横に流し、右に回り込む。左前脚を振り抜いた姿勢ではここが一番の安全地帯だ。
──が、
「尻尾!」
「ぎっ!?」
突如、右半身に強烈な衝撃。吹き飛ばされ、咄嗟に受け身を取って立ち上がる。
「っ……」
めまい。立っていられない。思わず片膝をつく。
「何休んでんの! 次、きてるわ!」
「ちくしょう……!」
左右からの爪撃。気力で刀を持ち上げる。
衝撃と、金属音。
「ぐ、ぁ……! ぁぁぁぁああ!!」
受け流す。倒れそうになるのを意地で踏み堪える。
くそ、ちゃんと防いだのに腕が折れそうだ。やはり一撃一撃が異様に重い。並みの武器ではきっと今ので上半身ごと砕かれていた。
「グギャァアッッ!」
そんな攻撃の三度目が、ドラゴンの右前脚が始動する。
ラグナは未だ残るめまいに舌打ちし、今度は弾いてやろうと刀を振る。
しかし、
「づ……!!」
間に合わなかった。左肩を深く抉られた。動きが前回よりも速い。おそらくもっと速くなるだろう。相手からはまだまだ余裕を感じる。
「っ、ぐ、ぅ──」
その一方で、自分はこのザマだ。左腕が上がらない。
そして、悶え苦しんでいるあいだにも爪は容赦なく繰り出され、ラグナの体に切り傷を増やしていく。
「この──トカゲ野郎!」
連撃にほとんど右腕だけで対応する。だが、片腕ではドラゴンの攻撃速度に追いつけず、十秒もしないうちに全身血まみれになる。かろうじて致命傷は免れているが、それも時間の問題だ。
気持ちだけでは覆せない種族差がそこにあった。
このままだと、死ぬ。
死んだらユイとの約束を果たせない。
早く、早く終わらせないと……!
「焦るなって言ってんでしょうが! 防げないなら躱しなさい! 相手の動きをよく見るのよ!」
剣戟の合間にコクトーの声が響いた。
慌てて攻めに転じようとしていたラグナは、守りの体勢に戻りつつ目を凝らす。
彼女の言う通りだった。手の打ちようがないと思っていたドラゴンの攻撃は単調かつ単純で、それだけに集中すればたやすく見切ることができた。
だが、いかに助言が的確であろうと、いかに反応が早かろうと、体がついていかないのなら意味がない。
「ぐぁ!」
脇腹を抉られた。
その痛みでリズムが崩れ、立て続けにダメージをくらう。
一秒ごとに切り裂かれる。
一合ごとに血飛沫が舞う。
損傷に比例して精神までもが磨り減っていく。
「──ぁ」
すでに死に体。
膝から崩れ落ちる。
気づけば夥しい量の血が地面を真っ赤に染め上げていた。
もはや逆転できる状況ではない。
体も敗北を認めかけている。
「やっぱり……ダメなのかよ……」
そこへ、もう諦めろとでも言うように。
竜の爪死が迫った。
──されど、
「ざけんな……!」
生きているなら、まだやれる。
「ああああァァアァアアッッ!!」
手から滑り落ちようとする刀を逆手に握り、アッパー気味に振り上げた。竜の爪を跳ね返す。その勢いのまま反時計回りに一回転、先ほど刻んだ傷とクロスするように右斜め下から左斜め上へと斬り込む。
「グギャァア!?」
ドラゴンが悲鳴をあげ、ラグナはバツ印状の傷口から噴き出す血を浴びた。
まだやれる。
血の滾りが、心臓の猛りが、壊れかけの肉体をさらに突き動かす。
戦意という名の内なる〝獣〟が、敵を倒せと吼え荒ぶ。
「くたばれェェッ!」
斬る。斬る。斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る……! ただひたすらに乱れ斬る。衝動のままに刀を振るう。
もはや防御はなく、回避もない。
あるのはただ一つ、眼前の敵を倒すという揺るぎない〝決意〟のみ。
唐突、腹の底から〝何か〟が湧いてきた。
そして悟った。
〝何か〟とは〝獣〟と〝決意〟が混じり合って生まれたものだと。
〝獣〟と〝決意〟は同調し、反発し、連鎖し、断絶し、ラグナの〝何か〟を遥か高みへと押し上げる──!
「ッ、ガァァ!!」
限界を超えた強化と、それに伴う崩壊を度外視したラグナの剣戟は、徐々にドラゴンを凌駕し始めた。
防ぐしかなかった攻撃を躱せるようになり、躱すしかなかった攻撃にカウンターを当てられるようになった。
ありえなかったはずの勝利が、現実味を帯びていく。
だけど、意識なんてもう半分もない。
まるで眠ったまま戦っているみたいだ。
耳が痛い。ドラゴンの叫びも、刀と爪がぶつかる音も、ひどく遠くに聞こえる。
なのに、心臓のドクンドクンという音だけはうるさいくらいに響いている。
ああ、よかった。
生きているなら、まだやれる。
「────」
てきをきった。
てきにきられた。
いたい。
くるしい。
でも、やらなきゃ。
まだいきてるんだから、たたかわなきゃ。
やめるのは、しんだときでいい。
「────」
あせってる?
……そうか、こわいんだ。
おれがいきてるかぎりたたかおうとするから。
ごめんよ。
でも、たおすね。
「◼︎ず◼︎、かわ◼︎◼︎!」
だれかがなにかをさけんだ。
かわせ、といわれたきがする。
すると、うえから〝し〟がちかづいていたことにきづいた。
たぶん、〝かわせ〟はこれのことだ。
さがらないと。
「────」
い、た、い。
むね、に、なにか、ささっ、た。
ち、が、たくさん、で、てる。
「──────ァ、が」
わから、ない。
うえも、した、も、み、ぎも、ひだりも。
あかるい、のも、くらいの、も。
ぜんぶ、わからない。
なん、で、たた、かってたん、だっけ?
おれは、だれ、なんだ、っけ?
「かはっ……!?」
背中に衝撃を受けた途端、意識がはっきりした。仰向けに倒れたらしい。口と胸が妙に生温かく感じる。
「ラグナ! ねえラグナ! まだ生きてるわよね!?」
コクトーの声が聞こえる。
ということは、まだ生きている。
なら、やれる。
そう思い起き上がろうとして、
「…………」
動けなかった。
〝獣〟も、〝決意〟も、"何か"も、感じられなかった。
──ここまでか。
指先一つ動かすことができない。
安らかな眠りに落ちていくように、あらゆる機能が闇に閉ざされていく。
生きている証である痛みさえも感じられなくなっていく。
かろうじて残った視覚は、もはや手を下すまでもないと判断したのか、静かに佇むドラゴンを映す。
「しっかりなさい、ラグナ!」
聴覚もまだ健在だ。けれど、徐々に失われつつあった。
「あんたには勝たなきゃいけない理由があんでしょうが!」
ンなことわかってんだよ。
でも、体がまったく動かねえ。
心だってヘトヘトだ。
こんだけがんばったんだから、もう充分だろ……?
たった数時間の、短い生涯だった。
それを嘆くつもりもない。
元よりラグナは死者の身だ。
なんの価値もなく、なんの意味もない、ただの動く骸だ。
生きているだけで嫌われるのなら、いっそここで死んでしまったほうが、きっと誰にとっても正しい。
だから、このまま。
「ユイを泣かせたくないんじゃなかったの!?」
「────!」
意識が澄み渡る。
冷たい体に火が灯る。
「ユ、イ……?」
首を横に向ける。
視線の先、こちらを見つめるユイが、
「な……んで……」
涙を、流していた。
「ふざ……けん、な……!」
許せない。
生きているだけで嫌われるとか、死んだほうが正しいとか、そんなことはどうでもいい。
くだらない自己否定感に囚われ、生きることと戦うことをやめようとしていた自分がどうしようもなく腹立たしい。
「ぐ、ぉぉおお!」
灯火ともしびは怒りの風に煽られて燃え盛る。
魂より生じた火と風が、心と体に鞭を入れる。
「ぐっ、ぅ、あ……ああ……!」
生きている証が戻ってきた。
それを歓迎し、もっとよこせと訴えかける。
あいつを泣かせてるのは誰だ?
わかりきってんだろうが。俺自身だ。俺が負けそうだから、あいつは泣いている。
だったら……!
「テメェに言われるまでもねえんだよ……!」
血の塊を呑み下す。
体はとっくに立ち上がっていた。
前方を睨む。
ドラゴンが怯えた様子で後ずさった。
「はっ、はぁ、は……っ、くっ」
もう刀を振るだけの力は残されていない。
酷使し尽くされた肉体は、息をするだけで耐えがたい痛苦に悶えている。
ゆえに、ラグナは絶倒の誓いを以て右拳を握りしめた。
「一撃だ……! 一撃で仕留める!」
狙うは、未だにうろたえ、これ以上ない隙をさらしている竜の顎。
「う、おおオオオオ──ッ!」
流星のごとき超加速。
景色は矢のごとく後方へ過ぎ去り、瞬時に敵を眼前に迎える。
拳を振るった。
全身全霊を、容赦なく竜の顎にめり込ませた。
反動で指がひしゃげ、腕があらぬ方向に折れ曲がる。
同時に、顎を殴り砕かれたドラゴンは数メートル先まで転がり、最後にはだらしなく舌を垂らして、気絶した。
「ハ、ハ──は──……」
傷だらけの勝者も跪く。
今度こそ指一本動かせなかった。





