竜退治の始まり
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「いました。あそこです」
岩陰から顔を上半分だけ出したユイが小声で言った。
ラグナもユイと同じようにして前方を確かめる。
そこは、拓けた岩場だ。真正面に高い崖があり、真ん中の辺りが窪んでいて、収まるように真っ赤な生き物が眠っている。
「あれが……」
ドラゴン。
最強の生物。
翼と四肢を折りたたみ、長い尾を自らに巻きつけてなお、その大きさは小型の像ほどもあった。
体躯は真紅の鱗に覆われ、手足についた鋭い爪が殺人的に鈍く輝く。
周りには食べ残しと思われる獣の残骸がいくつか転がっていて、かなり血の匂いが濃い。無惨に食い破られたハラワタがグロテスクだ。原型を留めている部分を見る限り、おそらくユイの耳に届いた悲鳴は彼らのものだろう。驚くべきことに、ほとんどが熊などの大型動物だった。
「ふぅ──……」
岩陰に引っ込み、もたれかかる。早くも額から冷や汗が噴き出していた。体が、本能が、ここから逃げろと叫んでいる。
何より恐ろしいのは、手足についたあの爪だ。遠目からでも一目でわかる鋭さで、喰われた獣たちと同様、に切り刻まれた哀れな自分がたやすく想像できてしまう。
……身がすくむ。呼吸が乱れる。
怖い。
逃げたい。
だが表には出すな。出せばユイが不安になる。あくまで気丈に振る舞え。
「私が調査しにきたものとは違いますね、あの子は」
ユイが隣に腰を下ろす。彼女もまた、緊張した面持ちだ。
「そうなのか」
「はい。噂ではもっともっと大きくて、全身に裂傷があるらしいです」
「……よくもまあ、そんな化け物を相手にしようと思ったもんだ」
会った瞬間チビっちまうかもな。
そう思うと笑えてくる。
「で、あの赤いドラゴンはどうする?」
「え?」
ユイが目を丸くした。
「あいつのことが気に入ったんだろ。見つけたとき、しばらく見惚れてたぜ? 今も顔にそう書いてある。まるで──」
さっきの俺みたいに、と言いかけて、
「……いや、なんでもねえ。とにかく、あいつがほしいんだろ? だったら……」
「だ、だめです! パートナーとして契約するためにはドラゴンを一度倒さなくてはいけません。やっぱりラグナさんを危ない目に遭わせるわけには……」
「ハ! 何を弱気になってやがる」
刀に巻いた包帯を、するりするりと一気にほどく。
「約束したじゃねえか。俺は必ずあのドラゴンを倒す。そんでおまえは契約する。そうすりゃ文句なしのハッピーエンドだ。安心しろ、うっかり殺さねえように手加減すっから」
「ちょっ、待ってください!」
岩陰から出て行こうとするラグナの手を、ユイが叫びながら掴んだ。
「勝手に話を進めないでください! 言ったでしょう! 危険だと判断したら撤退するって! 私はラグナさんに死んでほしくありません!」
「あぁ? テメェ何勝手に負けるって決めつけてんだ? 俺は勝つぞ。勝って、約束を果たす」
「強引な……! 死んだらどうするんですか!」
「そんときゃ歩き回る死人が物言わぬ死人に戻るだけよ。元より誰にも望まれず、なんの目的も与えられずに蘇っちまった無意味で無価値な命だ。そんな抜け殻のような男が死んだところで、誰も損しねえし何も失われねえよ」
「ばか! あなたはちゃんとここに生きてるじゃないですか! 手だってこんなに温かいのに……。屁理屈こねてまで愚かな私に付き合う必要はないんですよ!」
「テメェの言い分なんぞ知らん。俺は俺のやりたいようにやる。邪魔だ、離せ!」
「ラグナさん!」
乱暴にユイを振り払い、そこで待っていろと視線で命じつつ、ラグナはドラゴンに歩み寄っていく。
異質な空気だ。ユイから離れた途端、ピリピリとした痛みが肌を突き刺す。緊張から呼吸が止まりかける。
近づくほどに敵との体格差は明確になり、自然と刀の柄を強く握った。心臓が激しく警鐘を鳴らしていた。ユイのときとは比べ物にならないプレッシャーだ。
それでもラグナは前に進む。
ユイとの約束を果たすために。
「ようするに、好きな子の前でカッコつけたいだけなのよね」
突然、コクトーがそんなことを言った。
「なんの話だ?」
「もちろんあんたの話。あーだこーだと屁理屈並べて強引に話を進めたり、本心を悟られないよう憎まれ口を叩いたり、本当は怖いのに怖くないふりをしたり、転生者特有の不安感を戦う理由にすり替えたり。実はユイを喜ばせたくて必死なんでしょ」
「……さあな。よくわからん」
「ほら、またそうやってごまかす。ユイもそうだけど、あんたも大概めんどくさい人間だわ。やっぱりお似合いよ、あんたたち」
「俺はただテメェの悪知恵に乗っかってるだけだ。それ以上でもそれ以下でもねえ」
「ふぅん。この行動がすべての答えだと思うけど」
「無駄話は終わりだ。──やつが目を覚ました」
ドラゴンが鎌首をもたげ、深緑の双眸でこちらを睨んだ。
迸る強烈な悪寒。
確信に近い敗北の予感。
「ハ」
それをあえて大胆不敵に笑ってみせることでねじ伏せ、正眼に刀を構える。
「俺はな、燻ったまま終わるより、燃え尽きて灰になるほうが好みなんだよ。だから、最悪の初陣だろうと絶対に退かない。力を貸せ、コクトー」
「ほんっとに素直じゃないのね。まあいいわ。戦い方はわたしが教えてあげるからせいぜい足掻きなさい。あとで詳しく聞かせてもらうんだから死ぬんじゃないわよ!」
「抜かせ!」
戦いの火蓋は切って落とされた。
先手必勝、ラグナはドラゴンが臨戦体勢を整える前に一息で距離を詰め、無防備な眉間めがけて刀を振り下ろす。
初撃は、硬い鱗に弾かれた。
岩をも斬り裂く一太刀であるはずなのに、まるで効かなかった。
「ぐっ……!?」
反動で腕が痺れるのを感じた直後、ぞわりと寒気がして後方へ跳ぶ。
竜の爪が振るわれた。
完全に躱した。
にも関わらず、頰に痛みが走る。
触れると、出血していた。
「マジかよ……」
「グォオオオオオオオオオオオオ!!」
ドラゴンが縦割れの瞳孔を細め、咆哮する。たったそれだけで戦意を砕かれかねない強大な音圧に、ラグナの鼓膜は破けそうになる。両手で耳を押さえたが、なおも空気の震えが敵意として伝わってくる。
「怖いじゃねえか、くそったれ……!」
押し殺していた恐怖が再び湧いてきた。闘争ではなく逃走を選びたくなる。
だが、それがどうした。
恐怖とは、突き詰めれば死にたくないという感情から生まれるものだ。
自分はとうに死んでいる。
死者が死を恐れる道理はない。
だから、屈することもない。
──そんなふうに自らを鼓舞する。
そして、咆哮が止んだ。
ここからが本当の始まりだ。
五指に力を込め直す。先ほどよりも凛とした姿勢で構える。
戦いに不要な感情はすべて切り捨てる。勝つ。その一点にのみ意識を向ける。荒くなろうとする呼吸を鎮め、同時に精神を研ぎ澄ます。
勝つんだ、ユイのために。
「──っ!」
そのとき、心臓が大きく跳ねた。
血が燃え滾り、筋肉が唸りをあげた。
抑えがたい力の奔流がラグナの内側を駆け巡っていく。
それは、ユイと奪い合った〝何か〟の感覚だった。
「これは……?」
体が軽い。コクトーの重さも半分くらいにしか感じない。五感は鋭くなり、ささやかな枝葉の揺らぎや風のそよぎがはっきりとわかる。〝何か〟によって身体能力と感覚器官が〝強化〟された、らしい。
「戦闘中によそ見するなバカラグナ!」
自身の変化に戸惑っていると、コクトーの一喝をくらってしまった。
その通りだ。今は敵を倒すことが優先だ。
だが、今なら──あの堅牢な鱗を斬れる気がする。
「いくぞ……!」
大地を蹴る。いや、蹴った。行動を起こそうと思ったその瞬間、すでに行動は終わっていた。
〝何か〟によって強化された脚力は爆発的な加速を生み、ラグナの体をグンと推進していた。感覚もその超スピードについてきている。
渾身の力で刀を振り上げる。自分でも信じられないほど鋭く、強く、速い斬撃が、左斜め下から右斜め上へ過ぎ去る。ドラゴンの胸元に赤い筋が滲み、一拍遅れて鮮血が噴き出す。