或る夏の日に……
夏といえば、【ドラマの季節】という人もいるかもしれない。野球だったり、甘酸っぱい漫画みたいな恋だったりが所狭しとひしめき合っている季節だと。それも案外本当なのかもしれない
そんなドラマチックな出来事とは縁遠かったはずの俺でさえ、1つのドラマが生まれてしまったのだから。
「橘、毎日頑張ってた成果が出てたぞ!この調子で努力を怠らないように。」
そう担任は言葉を添えて通知表を俺に手渡した。ついでに手持ちぶさたになった手で肩を叩かれたので先生としても納得のいく成績なんだろう。
俺は私立の中学・高校一貫校に通う高1生、その中でも俗に言う内部進学生である。
俺のクラスは学年内でも優秀な方らしく中には難関国公立を見据えている奴もいるぐらいだ。でも、誰一人としてそんな気色は見せない。所詮学力を抜けば普通のクラスなのである。
気を取り直して成績に目を移すと、7・8・9が続いていた。流石は毎日夜なべしてまで復習した賜物とでも言ったとこだな。所謂大勝利だ。
「あーあ、翔太サマはいつもいい点をお取りになるこったな……IQ分けろよ!」
そう俺にあまりにもあからさまな皮肉を垂れてくる巨漢は簗部、野球部のエースである。ってかコイツ俺の成績盗み見たな……
「そりゃどーも、頑張りましたからねぇ……」
ここは素っ気なくそれでいて『もう話すな』と暗示するように吐き捨てておこう。コイツに対して尾を引くと色々とグチグチ言われる。
ケッ、と余程の悔しさを滲ませながらガニ股で去っていく簗部を他所に、俺は無意識のうちに大きく息を吐いていた。
うちの担任特有の長話を耐え抜いて、校門から一歩出た瞬間に言い知れぬ寂寞の念というか胸糞が悪い感情が襲ってきたのだ。
今まで血を吐く勢いで這いつくばってきたのに、結果も十分すぎるほどで満足しているのに、自分が間抜けに何もしないで遊び呆けていたのを恥じるような感情。そんな訳の分からない羞恥心が一瞬にして俺の心を支配した。
(何だこれ……?)
せっかく自分を褒めてあげられるような雰囲気だったのに台無しだ。……でも、この感覚の意味も分かる気がする。何故だ?
とりあえず苦さを吐き出したくて近くの公園のベンチまで走った。
澄み渡る青空、清々しいほどに降り注ぐ陽の光、公園を駆け回る子供の声……
「何やってんだろ。何したかったんだろ。
結局俺って何するために生まれたんだろうなぁ……」
また無意識に呟いて、無意識に溜息をついて、無意識に「泣いて」いた。
声は出てない。ただただひたすらに瞼から滴る水がズボンを黒く染めていく。その事実に自覚するのはズボンがバケツの水をぶっかけたように黒々となった後だった。
「ぷはっ……何でだよ、だっせ……」
【ダサい】この言葉しか出なかった。何故って、何も思い当たる節もないのにずぶ濡れになるまで泣いているのだから。自嘲するしかなかったんだ。
「あれぇ?橘くんじゃん!どうしたんだよ、顔そんな腫らして……」
「近藤…先生?」
近藤先生は、うちの学校の保険教諭である。生徒と教師の垣根を越えてまるで友達のように接してくれる。
体が弱かった中等部の時に色々俺の世話を焼いてくれた先生だ。
「もう少し人気の少ないところで話そうか。」
そう言われ今度は喫茶店のテーブル席に二人対極に座っていた。道中も含め俺は、ある意味醜態を晒しているため話すことはおろかまともに顔を見ることさえできていないのだが。
「で、いきなり本題だけど何であんなとこで泣いてたのかな?」
俺は顔全面を赤くして「あっ、いや……」と口籠る。
俺がこのまま逃げて真相を語らないのを知っている先生は「まずは、経緯だけを教えて?」と念押しした。
……本当にこの人には頭が上がらない。
「終業式終わって、しばらくしたら悲しくなったっていうか、なんかもやもやしちゃって……涙もズボン濡れてんの分かるまで気づかなくて……」
俺の声色はもう既に泣きそうだった。あの時のことを思い出していることよりかは今話していることがあまりにも恥ずかしくて。
「経緯の説明にもなってないねぇ?」
先生はやっとの事で絞り出した俺の言葉をあっさり一蹴した。……もう慣れっこだけど。
「昔から語彙力ないの知ってんだから出たとこ全部叩き潰さないでくれよ……」
いつもの年長者に対する物言いとは比べ物にならないほどに粗野な言葉遣いになりつつも反論する。そんな御法度が許されるのもこの人だからだ。
「ごめんごめん、ちょっといじめすぎた。……でも、成績良かったんでしょ?伊藤先生も僕に真っ先に報告してくれたよ?もしかして、物足りなかったとか?」
まぁ、まずはそこから来るだろうな。学内でも名の知れた優等生で通っている俺が向上心から成績に悔し涙することは容易く頭によぎるだろう。
しかし、この男と俺の関係は生半可なものじゃない。
互いに気心知れた仲だ、当然そんな薄い理由でないことを知った上で訊いている。
「ふざけるのやめてください。理由がわかれば苦労しませんよ!俺だって成績満足してるし、そりゃあ、欲言えばもっと高いとこ行きたいですけど……そんなんで胸糞悪くなるような男じゃないですよ俺は!」
先生はハハッ、と乾いた声では笑うと「そうだよね……じゃあ久しぶりにカウンセラー近藤発動しますか!」と微笑んだ。
「まずは何でそんな気持ちになったのかを見つけないとだなぁ。成績が不服ではない……学校生活も円満……何か思いつくことあるか?」
「……なんていうか途中から、こんだけ必死こいてやってんのに『俺なんにもやってねぇな』とか『何するために、何がしたくて生まれてきたんだろう』とか思って虚しくなってきてはいた。」
俺の言葉を聞いて先生は思い当たる節があるのかニヤッとして「ふぅーん、つまり、橘くんは充実してるはずなのに理由もなくもどかしくなるのが嫌なんだ?」と囁いた。
語彙が著しく欠如している俺にとって今の心情をこれほどまでに的確に表す言葉はなかったので俺は大きく首を縦に振った。
「じゃあ、橘くんにとって『生き甲斐』って何?」
生き甲斐……良かったこと、ってことだよな……?
「褒められることっすかね……?」
すると、彼の口から予想外なことが……
「それってさぁ、たたの嬉しかったことだよね?」
「うっ……」
こう言われてしまえば俺の武器は一挙に取り上げられてしまう、八方塞がりだ。
「仰る通りです……すんません……」
先生は仕方ないなぁ……という感じで俺の肩を叩いた。
「翔太くんはまだ考え方が未熟だなぁ、頭は良くても生活用の要領は悪いんだね。……1つだけヒントをあげるとするなら、生き甲斐っていうのは普通の感覚だったら嬉しいことも入るのかもしれない。でも僕は、『どんな自分になりたいか』だと思ってる。何なら、手錠かけられない具合なら何だってやっていいんだ!
曝け出していいんだよ!やりたいことぶちかませ!
【マニュアル通りのいい子ちゃん】なんて僕は望んでない。」
マニュアル通りのいい子ちゃん、か。俺は確かに生き甲斐がないからって、怒られないように、望まれるように生活を送っていた。その方が気が楽だったし、口うるさく言われた道からわざわざ外れて後ろ指さされるのも怖かったし。
この言葉は俺に酷く刺さった。
変わらなきゃ。【何か】を始めるために!後ろ指さしたきゃ刺せばいい!
「俺、変わりたい!生き甲斐見つけてみせる!」
先生は深く頷いて「そう言ってくれると思ってた!……これだけヒント上げたんだからきっと100点出してくれるよね?……明日までに生き甲斐を発表することを宿題にしよう!」と言い放った。
「えぇ……?やってみるけどさぁ……!」
先生は根が破天荒だから時折こういう無茶を言うことがある。かと言って底意地の悪い俺もここまで言って引き下がる気はさらさらないから!
「楽しみにしてるよ。……今日は特別に出してあげる。」
先生はそれだけ言い残し、机に二人分の代金を置いて去っていった。
勢いよく言ってみたものの、すべきことはまだぼんやりとしかわからない。16歳の人間が常に生き甲斐を感じてるなんて皆無に等しい。少なくとも俺は今まで意識したことはないんだから。……あの遊び人に聞いてみれば何かわかるかな?
「おー!おかえり、翔ちゃん!」
家に帰ると……やっぱりいた。
この人は俺の兄貴の絢斗。ほとんどの人が抱く印象はガキ臭い人であり、向上心が旺盛で生き甲斐という言葉が人の形をしているような人間である。
普段は少し鬱陶しいが、今の俺にとってみればこれほどいい先輩はいない。
「なぁ兄貴、生きててよかったとか、その……兄貴の生き甲斐って何?」
「んぁ?生き甲斐ぃ?……なんでいきなりそんなこと聞くんだ?」
兄貴は煎餅を口に頬張りながらもごもごと言った。ホントどこまで自由人なんだ……いいとこでもあるんだけど。とりあえず、今日のことを全て話した。
「あー、そういうことね。生き甲斐かぁ……オレは大分テキトーに生きてるから、そういうんは考えてないけど楽しく生きられればそれでいいんじゃねぇのかなぁ。翔ちゃんのことを強いて言うなら、オレみたいにテキトーに生きたほうがいいとは思ってる。」
「どういうことだよ?」
「いやだって最近の翔ちゃん綺麗すぎんだもん、兄ちゃん寂しいなぁ。ちびっ子の時の君の方が今より活発だったよ?今その頃のお前死んでんもん。それでそんな苦しいならもうちょい馬鹿になるというか、幼児退行していいんじゃない?無理に周りに同調しなくていいって、お前の人生なんだから。」
……確かに、最低限の設けられた規則さえ守れば、後はガキ臭くなっても、自分のしたいことに貪欲になっても赦されるのかもしれない。
俺に足りなかったのは、生き甲斐じゃない。【『普通』という最低ラインを飛び越える勇気・覚悟】だ。
その時、長く降り続いた雨が止んだ気がした。なんか自信を持てた気がする。……もう尻込みなんてするもんか!徹底的にガキ臭くなってやる!
「兄貴のくせにいいこと言うじゃん、ありがとう。なんか吹っ切れた!」
照れ臭いのを振り払い、兄貴に謝辞を述べる。
「おっ、子供の頃の翔ちゃん生き返ってる!ちゃんと笑えてるじゃん!さっすが飲み込みの早い自慢の弟だ!」
兄貴の瞳は一番星みたいに光り輝いていた。
今の俺の眼も同じ輝きを映し出せているのだろうか。
寝室に戻り、ベットに横たわりながら考えた。定められていること以外なんだってやっていいなら、今まで我慢して合わせていたことを解放していいなら……
それがわかれば、後は簡単だ。
俺の『生き甲斐』は……
翌日、なんだかそれまでより寝つきも目覚めも良かった気がする。
学校へ着くと真っ先に近藤先生の姿が……
「おはよう、橘くん。」
「おはようございます!」
すると、先生はお得意のニヤつきを見せて言った。
「うん、いい笑顔だ!その様子だと完全解答できたんだろうねぇ?それでは聞かせて貰おうか!」
「えっ、今ですか⁈」
「今以外にいつがあるのさ!モタモタしてると夏季授業始まっちゃうだろ?君は特進のホープなんだから遅れてもらっては困る!さぁ、答えを聞かせて?」
今というのは正直驚いたが、もう答えは決まっていたからいつ聞かれてもいい準備はしていた。
「俺の生き甲斐は……自分のしたいことに貪欲に取り組んで、目一杯馬鹿やって、目標が達成された時の快感を享受することです!」
言い切った、言ってやった!
なんかありきたりだけど、本当に生まれ変われた気がした。感じたことないぐらい清々しかったのだ。
多分もう雨なんて降らないだろうというぐらいに。
「100点だね、信じてたよ君のこと。見違えるようだ、ぐっと高校生らしくなった、おめでとう!」
「ありがとう、先生のおかげでなんかどうでもよくなった。」
「造作ないよ、僕は一教師としての務めを果たしただけだから。」
その言葉の後、誰にも見えないようにグータッチをして教室へ急ぐ。
その日は「なんだか垢抜けた」とか「いい意味で図太く、しぶとく、ガキっぽくなった」とか色々級友はおろか担任にまでいじられた。小突かれるのがこんなに心地よく感じられたのは初めてだった。これを求めて彷徨っていたのかもしれないと思うと酷く達成感に沈んでいった。
その夜は丁度七夕だったので空を見上げると、都会とは思えないほど鮮やかに星が瞬いていた。
俺はもう既に願いが叶ってしまっている身で新たな望みを短冊に託すなんておこがましい気がしたので願う代わりで空の天の川に一番よく知っている【マニュアル通りのいい子ちゃん】を流刑にしてやった。天の国のどこか遠くへ……
「さようなら、もう戻ってくんなよ。」
誰にも聞こえない声で暇乞いをした。俺はまた静かに泣いていた。もう用済みな自分に今までありがとうなんて伝えるために。コイツがいたから俺は変われたのだから……
以上が初夏の頃の俺のドラマである。
そんなのドラマでもなんでもないかもしれないが、俺にとっては大層な代物だ。
百人百様の主観があるようにドラマだと感じる事象も天の川の星の如く無数にある……なんて、講義調に語っているのも大分芯が据わってしまったからだろうか?
でも、後悔なんてしていない。むしろ、気楽に生きれることで毎日が心の躍動で満たされている。それが俺の理想、それで良かったのだ。
俺はこの横柄で少しグレた自分を全身で受け入れて生きていく、幼年時代と同じように。