初めまして 第4話
俺は何となく窓の外に目を向けた。
夜の気配が、少しずつ薄れているのに気づいた。
窓の外が、ほんのわずかに白み始めている。
「……今、何時だ?」
そう呟いて、手元のスマホを確認する。
表示された時間を見て、思わず眉をひそめた。
「後一、二時間でバイトじゃねーか……」
短く吐き出すように呟く。
夜通し何をやっていたんだ、と自分に突っ込みたくなるが、今さらだ。
体を動かしたせいで、シャツの内側がじっとりしている。
無駄に走り回ったことを、今になって思い出した。
「……サッパリするか」
そう決めて、俺は立ち上がる。
部屋にそれを残したまま、洗面所の方へと足を向けた。
洗面所の明かりをつけると、白い光がやけに眩しく感じた。
鏡に映った自分の顔は、思っていた以上に疲れている。
目の下にうっすらと影があって、髪も少し湿っている。
少し前までは1日や2日ぐらい働いてても平気だったんだけどなぁ。
「歳を取ったとは考えたくないんだがな」
小さく呟いて、蛇口をひねる。
冷たい水で手を洗い、顔にも軽くかけた。
一瞬、頭が冴える。
それでも、完全には覚めきらない。
鏡から視線を外し、シャワールームの方を見る。
このまま布団に戻りたい気持ちを、無理やり押し込める。
「バイト前に寝るのは、さすがに危険か……」
独り言のように言って、ため息をついた。
当日に休みにしてくれと頼むのは良くないよな。
覚悟を決めるように、俺は風呂場の電気のスイッチに手を伸ばした。
シャワーの栓をひねる。
配管の奥で一瞬くぐもった音がしてから、勢いよく湯が落ちてきた。
温かい水が肩に当たった瞬間、思わず小さく息が漏れる。
張りついていた汗と、夜の名残みたいな重だるさが、少しずつ流されていく。
「……生き返る」
誰に聞かせるでもなく、そんな言葉が口をついた。
頭を下げると、額から落ちる雫が排水口へ吸い込まれていく。
無駄に動き回ったせいで、体は正直だ。
筋肉の奥に残った疲れが、湯にほどけていくのが分かる。
何も考えず、ただ湯に打たれていると、
さっきまでの非現実が、少し遠のいた気がした。
シャワーを浴び始めてしばらくすると、浴室の外から微かな音が聞こえてきた。
シャワーの音に紛れて、最初は気のせいかと思った。
「……ピ、ピ……」
だが、耳を澄ますと確かに鳴いている。
水音の向こうから、か細い声が届いてきた。
「……なんだ?」
シャワーを出したまま、首だけを傾ける。
すると、今度ははっきり聞こえた。
「ピーピー」
少し焦ったような、落ち着かない鳴き方だ。
俺は思わず苦笑する。
「何だ、お前もシャワー入りたいのか?」
もちろん、本気で言ったわけじゃない。
ただの独り言だ。
それでも鳴き声は止まらない。
俺は仕方なく、シャワーが外に飛び散らないよう気をつけながら、そっと扉に手を伸ばす。
扉を開けると、外で待っていたソイツと目が合った。
一瞬だけ、互いに動きが止まる。
次の瞬間――
「ピッ!」
ソイツは迷いを振り切るように、勢いよく浴室へ飛び込んできた。
「ちょ、おい……」
止める間もない。
小さな体が濡れた床を跳ねて、俺の足元まで来る。
生まれてから、どれほど時間が経っているのかも分からない。
そんなコイツが、何の躊躇もなく、シャワーの下に突っ込んでくる。
「……生まれてすぐシャワーとか、案外大物だな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
コイツは気にした様子もなく、お湯を浴びながらピーピー鳴いている。
まるで、ここに来るのが当然だとでも言うみたいに。
時間もまだ少し余裕がある。
せっかくだし、と俺は足元でシャワーを浴びながら
ピーピーと鳴くヒヨコを見下ろした。
「……ついでに洗っとくか」
そう口にしてから、少しだけ迷う。
人間用のシャンプーなんて使って大丈夫なのか。
でも他に選択肢もないし、汚れを落とすだけなら問題ない……はずだ。
手のひらにほんの少しだけシャンプーを出し、泡立てる。
指先でそっと、羽毛の表面をなぞるように洗っていく。
ヒヨコは最初こそ身じろぎしたが、すぐに抵抗をやめた。
小さな体を預けるように力を抜き、目を細める。
「……おいおい」
くすぐったそうに、でも嫌がる様子はない。
むしろ気持ちよさそうに「ぴ」と小さく鳴いた。
シャワーのお湯で泡を流すと、羽毛がぺたんと寝て、さらに小さく見える。
折れそうなくらい頼りないのに、不思議と目はしっかりしている。
「ほんと、度胸だけはあるな」
そう言いながらも、手つきは自然と慎重になっていた。
力を入れすぎないように、流し残しがないように。
まるで壊れ物を扱うみたいだ。
洗い終える頃には、ヒヨコはすっかり落ち着いていた。
お湯を浴びながら、気持ちよさそうにまた「ぴ」と鳴く。
……なんだこの状況は。
シャワーを止め、ヒヨコを抱えた手を伸ばし少し距離を取る。
改めてその姿を見た。
――黄色、というより。
どこか金色に近い羽毛が、濡れているせいか妙に艶めいて見える。
光を受けると、キラキラと反射しているようにも思えた。
頭のてっぺんには、赤い毛が三本。
申し訳程度に、でもはっきりと主張するように立っている。
よく見ると、手の先と尻尾のあたりにも、同じ赤色がメッシュみたいに混じっていた。
「……やっぱ普通の鳥じゃないよな」
思わず、そんな言葉が漏れる。
能力は何も確認できなかった。
魔法も、身体能力も、回復も。
全部、きれいに空振りだ。
それでも、この見た目だ。
どう見ても現実から一歩はみ出している。
ヒヨコはそんな視線に気づいているのかいないのか、
ただ「ぴ」と小さく鳴いて、こちらを見上げてくる。
――分からない。
何者なのかも、何ができるのかも。
けれど少なくとも。
普通のヒヨコじゃない、という確信だけは、はっきりと残った。
俺は先に浴室を出た。
タオルを手に取り、自分の体の水気をざっと拭く。
それから、ヒヨコだ。
洗面所の洗面台にこいつを置く。
ドライヤーを取って戻り、弱めの風にしてスイッチを入れる。
「……動くなよ」
言い聞かせる必要もなかった。
ヒヨコはされるがまま、じっと大人しくしている。
タオルで包み込み、風を当てながら、指先でそっと水気を取っていく。
しばらくすると、羽毛がふわっと膨らみ始めた。
みるみるうちに丸くなっていく。
「……なんだそれ」
思わず、笑いが漏れた。
さっきまで濡れて頼りなく見えた体が、
今はまん丸で、やけに主張の強い存在感になっている。
その笑い声が気に入らなかったのか、
ヒヨコは「ピー!」と鳴いて、ぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。
抗議しているつもりなのだろう。
「悪い悪い」
そう言いながらも、俺はまだ笑っていた。
ヒヨコはますます不満そうに鳴き、落ち着きなく跳ね回る。
その様子を見ているうちに、
胸の奥に溜まっていたものが、少しずつほどけていく。
服を着替え、軽く髪を拭いてから、
俺は羽根の乾いたヒヨコを抱え直した。
ドライヤーの風で膨らんだ羽毛は、
すっかり水気が抜けて、ずんぐりむっくりしている。
腕の中でおとなしくしているその重みを感じながら、
そのまま部屋へ戻った。
期待していた存在では、たぶんない。
世界をひっくり返す力も、分かりやすい奇跡も、
今のところ、何一つ持っていない。
そう分かってはいるのに、
さっきまで感じていた落胆は、いつの間にか薄れていた。
まん丸に膨れたヒヨコは、
さっきの抗議が嘘みたいに、今は落ち着いてこちらを見ている。
何も分かっていない顔。
それでも、どこか安心しきった目だ。
「……まぁ」
俺は小さく息を吐く。
期待していた“何か”とは違ったかもしれない。
でも、悪くない。
少なくとも、最悪じゃない。
この先どうなるかなんて分からないし、
面倒なことに巻き込まれる可能性だってある。
それでも――
「これはこれで、アリか」
そう思えた。
胸の奥に、ほんの小さな光が灯る。
ヒヨコとのこれからの生活。
騒がしくて、面倒で、
たぶん、少しだけ楽しい。
そんな予感だけが、静かに残っていた。
支度を整え、スマホを手に取る。
画面に表示された時間を見て、短く息を吐いた。
まだ少し早いが、今日は余裕を持って現場に向いてもいい。
そう判断して、玄関へ向かう。
靴を履こうとして——足元で小さな気配が動いた。
「……ん?」
視線を落とすと、ヒヨコがいた。
いつの間に来たのか、俺の足元でちょろちょろと動き回りながら、落ち着きなく鳴いている。
「ぴー、ぴー」
まるで道を塞ぐみたいに、靴先の前に立っては鳴き、少し離れてはまた戻ってくる。
その様子が、どうにも偶然には見えなかった。
「……なんだよ」
しゃがみ込み、目線を合わせる。
ヒヨコは一瞬だけ動きを止め、俺を見上げる。
「連れてけって言ってるのか?」
小さな体。
何の能力もなくて、何かができるわけでもない。
それなのに、その目には迷いがなかった。
「ピー」
「……参ったな」
立ち上がろうとして、やめる。
ほんの一瞬、ためらいが胸をよぎった。
卵は、他の人間には見えなかった。
なら、こいつも同じなんじゃないか。
俺にしか認識されない存在なら——。
「……連れてくか」
ぽつりと呟いて、決める。
卵は、あの時の人たちには見えていなかった。
確かにそこにあったはずなのに、誰一人として気づかなかった。
――じゃあ。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
もしかしたら、このヒヨコも同じなんじゃないか。
俺には見えている。
触れることも、抱き上げることもできる。
けれど、他の人には最初から「いないもの」なのかもしれない。
そんなこと、普通は考えない。
けれど卵が見えなかった以上、否定する理由もなかった。
そうと決まればと、こいつを抱えようとして
そこでふと手を止めた。
……いや、待て。
このままずっと抱えていくわけにもいかないよな。
認知出来るかどうかの確認はしたい。
けど、ずっと両手が塞がってるのも正直きつい。
「……よし」
確認は、今日の現場で試すとして。
着くまでは、カバンに入っててもらうか。
そう独り言を言いながら、背負っていたリュックに手を伸ばす。
肩から下ろし、床に置いて、ファスナーを開けた。
リュックの口をヒヨコの前に差し出す。
「大人しく入っててくれるか?」
問いかけるようにそう言った、その瞬間だった。
ヒヨコは一度、リュックの中を覗き込むような素振りを見せてから――
次の瞬間、器用に跳ねた。
俺の腕を踏み台にして、軽く、迷いなく。
気づいた時には、頭の上だった。
ちょこん、と。
まるで最初からそこに座るつもりだったみたいに、落ち着き払っている。
「……そっちかよ」
思わず、そんな言葉が漏れる。
ヒヨコは気にした様子もなく、小さく鳴いた。
頭の上で、居心地を確かめるみたいに、ほんの少し体勢を整える。
俺はしばらく、そのまま固まってしまう。
やれやれ仕方ないなぁ
無理に降ろそうとはなぜか思わなかった。
このまま出かけるか………
玄関を出る直前、頭の上で小さな重みが動いた。
バランスを取るためだろうか、なかなか器用に乗るもんだ。
「おい……落ちるんじゃないぞ」
ちょこんと頭に収まったまま、ヒヨコは得意げに「ぴ」と鳴く。
「やれやれ……爪だけは立てないでくれよ。
三十代の頭皮は、思ってるよりデリケートなんだ」
冗談めかして言うと、返事の代わりに、もう一度小さく鳴いた。
意味なんて分かっていないはずなのに、不思議と通じた気がした。
俺はそのままドアを開け、外へ踏み出す。
朝の空気は、まだ少しだけ冷たい。
この先どうなるかは分からない。
見えるのか、見えないのか。
認知されるのか、されないのか。
確かめるのは、これからだ。
「……行くか」
そう呟いて、俺は歩き出した。




