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「あっ!」
黒崎さんの声。
菜々さんの笑い声を背に、立ち去ります。
一度に持って帰ると重たいので荷物の一部を食堂のロッカーに置いてから帰るつもりです。うかうかしていたら、移動でタイムカードを押すのが間に合わなくなってしまいます。働いていない時間まで働いたことになってしまっては大変です。このあたりはきちんとしなければなりません。
事務棟を出て、食堂へ向かう。ロッカールームに入ったところで手首をつかまれました。
え?
油断した。
まさか、不審者?
振り向くと、背の高い匂い立つ男。
「黒崎さん?」
色香が濃い。
思いつめたような表情がいつも以上に黒崎さんを魅力的に見せています。
ドキドキと、鼓動が早くなる。
イケメンは毒です。
思わず、じりじりと黒崎さんから後ずさるけれど、片手をつかまれているのでその距離は開くことはなく……。
トンっと、ついに背中が壁にあたりました。もう後ずさりすることもできません。
「結梨絵……さん」
あ。
ダメ。
和臣さんと同じ声で、その呼び方は……。
「やめてください」
小さな声が出る。
「え?」
「やめてください。結梨絵って、二度と呼ばないでください!」
ドンッ。
ちょっ。
怒った?
黒崎さんが壁に両手をつきました。
壁と黒崎さんの間に、挟まれていますが、これ、壁ドンですよね、壁ドン。
本当にドンって音がしました。
な、なんで、私、壁ドンなんてされているんでしょうか?
「じゃぁ、なんと呼べば……」
「白井です!白井!そんな、下の名前で呼ばれるほど、親しくないですよね?職場で師匠とかもおかしいですよね?白井ですから、白井」
「食堂の……白井さん……」
「そうです。私は食堂の白井です!」
黒崎さんの腕が下り曲がっていきます。
壁と黒崎さんとの隙間が狭くなって、ぎゃー。つぶされますっ。
あれ?
つぶれて、ません?
黒崎さんの肩に、私のおでこがぶつかってます。黒崎さんのおでこは壁にぶつかっているんじゃないでしょうか。
もしかして、この様子がおかしいのは、体調でも悪いのでしょうか?
「白井さん……教えて……。僕のような男は女性を幸せにできないのだろうか……」
女性を幸せに?
黒崎さんはモテすぎて、自分の意志とは関係なく回りに女性が絶えない。
彼女になると、苦労するっていうことなのかな?
「白井さん……。なぜ逃げるの?」
「逃げる?」
ああ、確かに後ずさりました。
だって……。
「顔が……」
「顔?」
黒崎さんが体を浮かせ、私の顔を除きこみました。
至近距離すぎます!
「黒崎さんの顔が、苦手なんです」
背中に汗をかき始めました。
ダメです。
これ以上、黒崎さんの匂い立つ色香に向き合っていたら、強いお酒を飲んだようにポーっとなってしまいそうです。
危険です。好きでもないのに好きかもしれないって錯覚を起こしてしまいそうです。
私が好きなのは、顔がいい人じゃなくて、心がいい人です。
あ、別に決して黒崎さんの心がよくないと言っているわけじゃなくて……。
黒崎さんの体がはじかれたように離れました。
「顔が苦手……?」
ずいぶんとショックを受けているようです。
そうですよね、よく考えたら、私、ひどいこと言っています。
「あ、その、大丈夫です。えっと、一緒に仕事をするのに支障をきたすという意味ではなくて、その……」
ああ、言い訳をすればするほどおかしくなりそうです。そもそもかっこよすぎて心が揺れるから苦手なんて、恥ずかしくて言えませんし。
「あ、45分までにタイムカードを押さないといけないので、失礼しますっ!」
すすっと黒崎さんの横をすり抜けます。
ああ、荷物が重たいです。結局ロッカーに荷物を置いていけませんでした。
……それにしても、黒崎さんはなぜ、私の後を追ってきたのでしょう?
職員通用口を出たところで、菜々さんからラインが届きました。
「今、コンタクトしてるんだよね?」
「結梨絵ちゃん化粧できたんだね」
「学生相談室の黒崎の妹だって知ってびっくりした?」
次々と送られてくるメッセージに返信が追いつきません。
打ち込むの早いですね、菜々さん。