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黒崎さんが私の姿を見つけると、近づいてきました。
「遅かった?」
「前に廊下で会ったのは、もう少し早い時間だっただろう?」
「あ、そうですね」
今まで残業は30分でしたから。初めての1時間残業かもしれません。とすると、前にあったときよりは30分ほど遅い時間ということになります。
「明日のことなんだが」
え?
黒崎さんが明日の学生さんにメイクを教える時間や場所を話始めました。
あれ?もしかして……。
私が来ると思って待っていたっていうことでしょうか?
……毎日来るわけではないのですが。
来なかったらどうするつもりだったのでしょう?
話を聞いて、大学への申し送りの紙を渡して仕事終了です。
渡り廊下から立ち去るときに、階段を下りてくる菜々さんの姿が見えました。
……ああ、私と会ったのは偶然で、菜々さんを待っていたんですね。
……これは、いよいよ、二人は付き合っているのでしょうか?
タイムカードを押して立ち止まる。
スマホを取り出しラインを開きます。
「今度は菜々さんが和臣さんと行けるといいですね」
と、送ったメッセージの返信。
菜々さんの言葉が怖くて朝は着信音を聞かなかったことにして見なかった。
「私があいつと行くことなんて考えられないよ」
え?
それは、菜々さんが黒崎さんと付き合っているから?
だとしたら、どうして?
なぜ、菜々さんは和臣さんの家に?
あれ?
海の底のような店のディナー……。
菜々さんが誘われて、用事があったからいけなくて、私が代わりに行ったよね?
用事があったのではなく、菜々さんは初めから行くつもりはなかった?
一緒に行ってくれないと、和臣さんは知らずに誘っている?
えっと……。
ああ、よくわかりません。
男女の関係は複雑なのです。
あの二人がいったい、どういう関係で、何を思って行動しているか、分かるはずがありません。
小さく首を横に振って、スマホをカバンに入れます。
別のことを考えましょう。
今日の夕飯は何を食べようかな。この間の魚の特売日に買って冷凍しておいたカジキを使いましょう。
焼くか煮るか……。
「おはよう白井ちゃん。番号を振るアイデア、いいね」
「おはようございますチーフ。ありがとうございます。これでもう少し円滑に学生とやり取りできるといいんですが」
「そうだね。それにしても、アルバイトの応募はなかなか来ないねぇ」
さて、今日は約束の女学生さんに化粧を教える日です。
黒崎さんはいつも、学生と面会するときは学生相談室じゃないそうなので、今回も、事務所の奥の仕切られた場所で行うそうです。
鏡くらいはあるよね?
私が家から持ってきたのは、化粧ポーチと、ポーチに入りきらない化粧品。基礎系は説明するために持ってきました。
リュックに入れられるものは限られています。
最低限ものもしかありません。あ、あと、コンタクトも持ってきました。
化粧をするのにコンタクトがないとむつかしいので。眼鏡をはずすと鏡に映った自分の顔の全体像すら見えませんからね。
「お疲れさまでした!」
「はい。大変だねぇ。学生相談室がらみで残業……白井ちゃん辛かったら言うんだよ?」
「ありがとうございますチーフ。大丈夫です。えっと、学生の相談に乗ることになっただけなので、その、学生相談室の黒崎さんはあまり関係ないですし、残業代もしっかり出ますので」
チーフはくすっと笑いました。白井ちゃんらしいと言っています。
残業代大事です。
いつもより少し重たいリュックを背負い、学生相談室へと向かう。
「白井です」
ノックをしてもいつもの居留守だと思ったので、部屋の中に向かって声を掛けました。
「ああ、白井さん、ありがとうございます。相談のあった学生の名前は村上というんですが、横山という友人と二人で面談場所に待ってもらっています」
「二人、ですか?」
「ああ。まずかった?その……白井さんの言うように、相談者以外にも化粧のことで悩んでいる学生は多かったみたいで……。友達もいいですかと、尋ねられたのだが……」
「一人も二人も同じなので大丈夫ですけれど……えーっと、そうすると、足りないかな」
できれば真似しながら同時に作業することで化粧を覚えてもらおうと思っていたのですが。私の道具と、この間百均で買ったものを合わせても足りないかな?
「足りないかな?化粧品のことなら心配ない。いろいろ買ってきので使ってくれ」
黒崎さんがこの間買った百均の袋のほかに、スーパーの袋に入ったプチプラ化粧品の袋を指さした。
「買って、きた、んですか?」
「ああ。この間教えてもらったところで。その、もちろん化粧品メーカーに講座の依頼もするつもりだが、実際いろいろ揃えるとかなりの金額になるだろう?」
そうですね。テレビでCM流しているような商品は、プチプラ化粧品の3倍以上はします。
「だから、こういう品もあると教えてあげられればと……」
なんて、熱心なのでしょう。
初めはすごく嫌な奴、学生のことを馬鹿にして、ろくに学生の相談に乗るつもりがない給料泥棒かと思っていたら……。
「ふ、ふふふ」
匂い立つようなイケメン。
高身長の黒崎さんが腰を折り曲げて真剣に化粧品売り場の前に立つ姿を想像したら思わず笑いがこみ上げてきました。